第29話 男爵家のエミーリア

 男爵家にエミーリアがいない。

 これでは修正箇所の大前提が崩れてしまう。

<教官、トーサン、どういうことでしょう>

 どうやらアキラも同じことを考えていたようで、動揺した思考通信が送られてくる。

<落ち着けアキラ君>

 契約書の最終確認をしながらリブラ教官がそれに答える。

<これはよくあることだ>

<よくあるって、情報が間違えていることですか?>

<そうじゃない、よくあるというのは『情報が間違えている』ことではなく、私たちが『先入観や思い込みで間違える』ことだ>

 それを聞いた私はなるほどなと思った。

<どういうことですか?>

<アキラ、今回の任務のオーダーを思い出してみろ>

 『ブドルク男爵家にいるエミーリアをオイステン王国第一王子、ハインゼル=オイステンと出会わせ婚約させること』、これが今回の修正内容だった。

<あっ>

 アキラも気が付いたようだった。

<確かにどこにも男爵家の娘だとありませんね>

<そうつまりこの家には娘ではないがエミーリアがいる。まあ、実はブドルク男爵家が他にもある可能性もあるのだが>

 

 しばらくして、私たちのいる部屋に微かな叱責する声が届き始めた。

 それに伴い明らかに夫人の顔に不快感が現れる。

「ペギョール!」

 空を切り裂くような毒花の叫びに、先程の小柄な男がまるで跳ね回るスーパーボールのような慌ただしさで駆けつけてきた。

「何事ですか!」

 夫人の詰問に、男は顔を上げずに答える。

「はい奥様。エミーリアがようやく買い出しから戻ってまいりまして、あまりに遅いとお嬢様方が躾をしておられるところでして……」

<<エミーリア!>>

 私とアキラの思考通信が重なる。

「そうですか……、それならよいのです。娘たちにそろそろ出かけますよと伝えなさい。あと、エミーリアにも掃除用具を持って出かける準備をするようにと」

「はい、ただいま!」

 ペギョールは後ろ向きに這いずるように出ていった。



(彼女がエミーリアか)

 貸家に出向くため男爵夫人の邸宅の前で待っていた私たちの前に現れたのは、灰色の髪と瞳が特徴的な細身の少女だった。

 年の頃は10代の半ば、男爵夫人の下の娘と同じくらいだろうか。

 色の抜けた長袖の黒のワンピースにくすんだ色のエプロンドレスを着用した彼女は、掃除用品が入っていると思われる重そうな木桶を抱えて、庭の方からおぼつかない足取りで出てきた。

「まったく掃除用具の準備くらいでどれだけかかってるの! まったく使えない子ですわ!」

 容赦がない夫人の叱責が鞭のように少女を打つ。

 耳と心に痛い声だった。

「申し訳ございません。奥様……」

 酷く怯えた様子で身を縮め、少女は灰色の瞳を伏し目がちにし、消え入りそうな声を出す。

(それにしても) 

 長袖のワンピースドレスに隠れて体のラインははっきりとはわからないが、目の隈や青白い顔色、この年頃の娘にしてはややこけている頬。

 そして瞳と同じ色をした髪の明らかな傷み具合を見ると栄養状態は決して良いとは言えないようだった。

 ちらっとアキラの方を見ると、エミーリアの方を見ながらなんとも言えない顔をしていた。

 その内心では何を見ているのだろうか。


「さあ、急ぎますよ。ドレスの仕付けには時間がかかるのですから」

 その言葉を合図にペギョールが先頭に立ち、夫人一家と我々はぞろぞろと進み始める。

「エミーリア! 歩くのが遅いんですから先行きなさいよ」

 夫人の下の娘、トリュホがそう言ってエミーリアを促した。

「は、はい。申し訳ございませんお嬢様」

 慌てたようにエミーリアが歩き出した。

 その時だった。

 トリュホが後ろ手に持っていた木の棒をエミーリアの足元に投げ入れた。

(まったくもって、あからさまでわかりやすい!)

 地面で一度弾んだそれは見事にエミーリアの足に絡みつく。

 元々よろけ気味だった彼女に体勢を立て直すような力はなかった。


 私の視界いっぱいに掃除用具満載の木桶が迫って来る。

 次の瞬間。

「大丈夫ですか?」

 アキラが私を持ったまま、エミーリアの体と木桶を支えていた。

 つまり、迫っていたのは木桶ではなく私の方だった。

「も、申し訳ございません!」

 消え入りそうな声でエミーリアは謝罪して自分の足で立つ。

 その横ではトリュホが舌打ちをして、婦人たちを追って歩き出す。

「よければ僕が持っていきますよ」

 そう言ってアキラが木桶を持とうすると、彼女は慌ててそれを取り返す。

「そんなことはできません! 奥様に怒られてしまいます! どうぞお気になさらずに」

 奥様に怒られると発言した時、探知するまでもない恐怖の色が彼女から感じられた。

 その様子にアキラは一瞬考えてから、木桶から手を放した。

「余計なことをしてすいません」

「い、いえ、私こそ申し訳ございません」

 そう言って、会釈するとエミーリアは顔を伏したまま皆の後を追おうとする。

<トーサン>

<はいはい、すでにやったよ>

 歩き出したエミーリアは、一瞬不思議そうな顔をして木桶の中身を確認し、周りを見回す。

「エミーリア! 何をやっているのです!」

 男爵夫人の叱責が再び飛ぶ。

「申し訳ございません!」

 一瞬首をかしげつつも、彼女は慌てて夫人たちの方へ速足で向かう。

 だが、その足取りは先ほどのような不安定さは全くなかった。


<トーサン、魔法の乱用は正直関心しないな>

 リブラ教官の思考通信が届く。

 実は先ほどの瞬間に、木桶とその中身に重量軽減程度の【浮遊】の魔法をかけていたのである。

<あ、これは僕の方からお願いしたんです>

<いえ、アキラにお願いされる前に私がやりました。それに困った女の子を助けるためのささやかな奇跡、魔法なんて本来そういったものでしょう?>

<トーサン……、良いことを言ったつもりだろうが、全然似合っていないぞ、むしろ痛々しい>

 思わぬ形でグサッと刺された。

<まあいいさ。この任務が無事完了し帰還したら、魔法の使用も含めてもろもろの事について教習をがっつりと組んでやろう。楽しみにしておくがいい>

 そして、藪から大蛇が飛び出してきた。

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