Ⅲ
頭痛と得体の知れない少年を抱えて自宅に戻ったのは、もう早朝六時だった。
兎に角薄汚いマリアを風呂に入れてやらねばなるまいと、浴室へ向かったルースの後をマリアは雛鳥の様について来る。
「マリア、あっちで座ってなさい。準備が出来たらちゃんと呼ぶから」
あからさまにしょげたマリアは、ぽてぽてとリビングへ戻りその後ろ姿は哀愁すら漂っている様で、ルースは少し笑ってしまった。
「マリア、おいでー」
浴室から叫ぶと、マリアは一糸纏わぬ姿でルースの前に姿を現した。
細いとは思っていたけれど、これじゃあ栄養失調と言ってもいいだろう。
仕事柄、男女に関わらず裸体など見慣れているルースだったが、浴室で全裸の少年を見る事など早々ない。発育途中の未熟なその肢体は、男性器も控え目で体毛も薄く、東洋系の皇かな肌を見れば、男娼としての価値は相当高そうに見えた。
首の傷痕だけが異様に赤く、縫合が悪かったのか蚯蚓腫れの様に浮き出ている。
それからのマリアとの生活は想像する以上に大変だった。
まず最初に風呂に入れた時点で、何となく察していた事ではあったのだがマリアは人間らしい生活が出来ない。風呂に入れば石鹸を食おうとしてみたり、座って食べろと言えば床に座り込んで、椅子に座るという概念がない。
フォークやスプーンを使わせると、食べた量より零した量の方が明らかに多い。
かといって文字や言葉を理解してない訳ではないので、教えたら教えた通りに出来るのだが、これまでの彼の生活がどんなものだったか大いに危ぶまれる。
加えて精神年齢が幼いのか、ただのホームシックなのか、ルースの寝床に潜り込む癖は治らない。
「マリア、今日こそは一人で寝なさい」
いやいや、と左右に首を振るマリアは、機嫌を損ねた猫のように勝手にルースのベッドに潜り込もうとする。
「こぉら、ダメだ!」
仕方なく、とマリアに貸している一室のベッドの脇に添い寝して、眠りについた頃そっと抜け出そうとすると、毎回と言って良い程目を覚ます。
子供の様に泣きはしないが、ルースがベッドから出るのを何が何でも嫌がって離さない。
結婚もした事ない三十路の男が、突然子育てし始めた様なその生活は、ルースの体力を容赦なく削って行った。
無理矢理一人にして部屋に置き去りにしてみると、夜中に一人で夢遊病の様に外へ出てしまう。裏口の扉の音で目を覚ましたルースは慌てて外へ飛び出し、そこでまた第二の事件現場に遭遇する事になる。
「死因はこの前と同じ、舌を切り取られて失血死。今回は痩せた男だったけど、お前が見ていたんならマリアは関係ないって事になるね」
マリアを追い掛けて夜気の中を只管走ったルースは、ドサリと言う重たい何かが落下したような音に路地裏を覗いて、そこに立ち竦むマリアを見付けた。
マリアの着衣からも被害者のものと思われる証拠は何一つ出て来なかったし、何よりルース自身が何もしていないマリアを目撃している。
「ただ、何故あの場所にマリアが行ったのか? は謎だけどね」
ロディはそう言って不可解そうに肩を竦めて見せた。
もう、この際寝る前のこの攻防に意味はないと感じたルースは、自分のベッドで寝る事を許可し、一緒に寝てしまった方が自分の睡眠時間を削る事無く危険も排除出来て合理的であると考えて、この三日程はルースも良く眠れていた。
人肌に触れる生活などとんと縁がなかったルースにとって、幼く可愛らしいマリアが、刷り込みみたいに自分の後をくっついて回る生活は、最初こそ違和感があったが好かれて悪い気がしないのは性別も年齢も関係ないのだ。
「おや……これはまた、仲良くなったもんだ」
人の声で目が覚めた。
ルースがボンヤリと双眸を開いた先にいたのは、ロディとその部下フランツだった。
「警察が不法侵入か……どうやって入った」
「裏口、開いてたから。って言うか、来るって言ったのに寝てる方が悪い」
「……マリアか……鍵は閉めるよう、教えておいたんだが……」
起き上がろうとして、右腕をマリアに抱きこまれていたルースは起こさない様に細心の注意を払いながらそっと抜け出す。
起きはしないが無意識にルースのパジャマを掴む辺り、マリアの内側には相当な孤独がありそうだと頭を撫でる。
「ルース医師にも、男色の気があるとは知りませんでした」
ロディの部下であるフランツはそう言って驚いた顔をしている。
ロディはそれを聞いてまた「ブッ!」と吹き出した。
「フランツ……これは育児だ。そう言うのとは違う。ロディ、マリアの素性は分かったのか?」
「大変だったよ……まだ犯人も捕まってないのにさぁ」
「それがお前達の仕事だろうが。マリアを俺の所に寄越したのもお前だ。やるべき事をやって、文句垂れるなんてお門違いだ」
「まぁ、そう言うなって! これでも、随分進展したんだぜ?」
第一の被害者フレデリック・アルローは南米系の元自衛官で、どうやら雇われの用心棒の様な事をしているらしかった。あの体格を見れば、なるほど、と言ったところだったがフレデリックを雇っていたのはアメリカの裏社会では有名な“売人”で、薬は元より、臓器だろうと武器だろうと、生きた人間だろうと何でも売買すると言う。
そして数日前に殺されたロナルド・マクベスはゴシップ記事を書いている記者で、その界隈では有名らしい。
「どちらにせよ、マリアとは縁遠い奴らの様に聞こえるが?」
「そうなんですよねぇ……だが、マリアの素性を知って納得したよ」
「ロディ、アメリカのギャングやゴシップネタを餌にしているハイエナが欲しがるような何かが、マリアにあると言うのか?」
「まぁ、その売人の事を色々調べていたんだがねぇ……。人身売買のリストを手に入れて、そこに二度見必至の珍しい名前を発見したんだよ」
「勿体ぶるな、早く言え」
「ジョウイチロウ・ユダを知っているか? 確か、数学界の神と言われている男だ」
「あぁ、名前くらいは……それがリストに載っていたのか?」
「違いますよ、ルース先生! そのユダの息子二人が行方不明なんです。なのに、父親であるユダは捜索願も出していない上に、次男の名前はマリアと言う女みたいな名前なんです」
つまり、マリアは売買の末この街に売られて来て、飼い主に捨てられたか、路頭に迷ったか、と言う事だろうか。
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