水切り

水無

水切り


 指先が軽やかに水を割く。楽しい。昔から泳ぐことは好きだった。まるで自分が他のものになったかのような……。たとえば魚のように、あるいは水そのもの、流動に翻弄され、曖昧な重力に私は泳ぐ。その一時、一時は私にとって何よりも尊い。大切だった。私の体のすぐそばをなぞるように過ぎていく水の心地よさ、冷たさ。形の無い液体に身を包まれる不思議な感覚。とてもたまらない。息継ぎ、空気に触れ、吸い込み、再び水に埋める。高揚感に息が詰まりそうなほど、私はひどく満たされ恍惚を味わう。

 もっと、もっと。駄々をこねる子供のように先を求め私の指先は水を掻く。

「――――!」

 コーチが何かを叫んだ。

 おそらく時間なのだろう。そろそろ最終下校時刻になる。

 それにしてもと美奈子は思う。嫌な音だ。雑音だ。いらない人。意味もなく私は呟く。口の端から泡が零れた。なりたくてなったわけじゃないのに。泳げる場所が他に無かったから仕方なく。そう、仕方なく。他に居場所もないし。

 いっそ、水に生まれたかった。

 陸に上がるといつもどおり。取り巻きから凄いだのなんだの賛辞を浴びせられ、一方で人囲みの外からは敵意めいた意思を持った複数の目が私を見ている。

 美奈子さん、素敵でした。すごく綺麗。とっても早い。

「今度は一位を取ってくださいね!」

 さっさと着替えたいからと取り巻きを一蹴し、シャワー室に向かおうと向けた美奈子の背中に無邪気な台詞が突き刺さった。馬鹿な子だ。余計に先ほど言われたタイムが重たく美奈子の胸のうちにのしかかる。ホント、馬鹿みたい。このままじゃ……。

 いいから来なさいと言うコーチの言葉に美奈子は耳を貸さなかった。言いたいことは聞かなくても分かる。歩いているとすれ違い様この部活の部長こと本庄に睨まれた。まだきゃあきゃあと黄色い声をあげている美奈子の取り巻きに本庄が一喝した。帰りのミーティングを始めるから集まれといったその声は室内プールであるためよく反響した。

 それに付随してうっすらと不満げに声をひそめ、それからくすくすと本庄を笑うような声が聞こえた。どうでもいい。ようやく私はプールサイドから立ち去ることのできた私は誰もいないシャワー室に足を踏み入れた。

 最近ずっとこの調子。これが私立××女子高等部、水泳部のエースこと高橋美奈子の放課後だった。


 *


「みなこー」

「うるさい」

 素っ気ない返事に美奈子の幼馴染である明日香は苦笑した。部活帰りの道中、見覚えのある後ろ姿に声をかけただけでこの対応である。さすが女王様と呼ばれているだけある。良くも悪くも美奈子をよく表わしたあだ名を内心で呟いた。

 明日香は気を取り直して美奈子の隣に並んで歩く。

「みなこも部活帰り?」

「入った覚えのない部活だけど」

「まだ言ってんの」

 明日香が呆れたように息を吐く。

 梅雨も終わり、いよいよ夏という最近の天気はどうにも暑くて仕方ない。明日香の背中を汗が伝った。じとじとべたべた、嫌になる。スカートなんだから涼しいだろなんて世の殿方は仰るが、夏の女子のスカートの中はたいへん蒸れるのだ。もっとも彼らの幻想を守るには知らない方が幸せなのかもしれない。汗ばんだ髪をかき上げながら明日香は早く帰ってシャワーを浴びたいと切に思った。

「そういや大会近いんだっけ?」

「……なんで知ってるの」

「そりゃもちきりですし?」

 皆みなこ様のことが大好きだしね。そう皮肉を交えて囃し立てる幼馴染を美奈子が睨む。蛇に睨まれた蛙というわけではないがそれなりに威圧感のあるその眼光に明日香は一瞬、口をつぐんだ。だがしばらくしてまた開く。

「嫌なの?」

「嫌」

「何が」

 この女が話題にされるのを嫌がるなんて珍しい。普段はちっとも気にしないくせに。しばらく黙った後ぽつりと美奈子がようやく口にする。大会に、出るのが。

 大会に出るのが嫌。反芻し、ふうんと明日香が曖昧に頷く。何か嫌な予感がした。

「じゃあ出なきゃいいじゃん?」

「……泳げなくなる」

「まあそりゃね」

 言ってはみたものの、結果は分かりきっていた。少しばかり憂鬱に陰った美奈子の横顔に幼馴染は無頓着を装って相槌を打つ。

 あ、これはなにかあったな。

 傍から見れば少し気落ちしているだけのように見える女子高生に明日香は直感した。同時にこれはちょっと「ヤバい」と勘が告げる。

 学校のプールで泳げなくなる。ただそれだけのことに美奈子がどれだけのものを賭けているかは世間一般の価値観を以ては少し量り辛いだろう。

 といっても幼馴染である明日香も全てを知っているわけではない。付き合いがちょっとばかし長い、それだけのことだ。

 元々美奈子とは小学校からの付き合いだった。確かそうだったと思う。……ちょっと自信がない。その頃から美奈子はスイミングスクールに通っていたように明日香には思える。そして高校受験を機に辞めたのも知っている。純粋に家計の問題だった。母親の様子から察するに美奈子の父親の会社の状況が思わしくなかったようだ。元々幼馴染の家も美奈子の家も貧しいというわけではないが特段に恵まれているというわけでもなかった。ごく普通の中流家庭。そういった環境で義務教育から卒業し高校にあがる頃、美奈子は結構大胆な方法をとった。

 特待生。

 何かと金のかかる学費やその他もろもろを全て吹き飛ばす言葉だった。その上美奈子はわざわざ自分の偏差値よりも数段下の私立を選び受験し見事その座を勝ち取った。部分免除の枠もあったが美奈子は全額免除の特待生である。

 普通の公立高校よりも生地もデザインも数等良い制服を身にまとい美奈子が通う高校に幸か不幸か明日香も同じように通っていた。明日香の場合は単に滑り止めで受験したところ公立の高校に落ち、こちらに通わざるをえなくなったというだけだったのだが。

 高校に入ってからの美奈子のことを明日香は詳しくは知らない。家はほぼ隣にあるというのに知っているのは時折聞こえてくる噂以上のことは何一つ分からなった。元々仲が良いというわけでもなかったが疎遠になり、会話することはむしろ減った。

 明日香が気まぐれに一人で帰る美奈子を捕まえては一方的に話して終わるのが月に数回あるか、ないか。大体は「うるさい」「あっそ」だの適当な返事が返ってくるのみだ。たまに会話が成立するがこれほど長く続いたのは久しぶりである。

 しかも久々に成立した会話が高校にあがり、美奈子がなんとかして学校のプールが使えないものかと模索した結果渋々入った水泳部の揉めごとである。体育以外で学校は一般生徒にプールの使用を許可していなかったのである。

 泳ぐことに固執し、今の今まで孤高を貫いてきた女に何があったのだろうか。

 明日香は軽く探りを入れる。

「それに出なかったら部長さんにいいとこ持ってかれちゃうもんねえ」

「……」

 美奈子が黙り込む。

 おそらくイエスということなのだろう。美奈子と部長の本庄が壊滅的にそりが合わないというのはもはや学内では常識の域に達している。

 やっぱりそうきたかと思っては、まあそりゃそうだと明日香はひとりごちる。

 明日香は以前にちらりと見かけた本庄の姿を思い浮かべた。典型的なお嬢様。その言葉はおほほと笑いどうぞご覧あそばせといったステレオタイプの上品さを意味しているのではなく、むしろ豊かさの暴力。そういった意味合いだ。甘やかされ何一つ不自由したことがなく、それどころかその恵まれた状況が当然と思っていて、どうしてそうでない人がいるのかがことごとく理解できない。ある意味憧れだ。ああいうふうに暮らせたらそれはもう幸せだろう。

 ところがそんな本庄に初めて障害が現れた。美奈子だ。本庄もそれほど運動神経が悪いという訳ではなく、むしろ人並み以上という素の能力でも恵まれているのではあったが美奈子ほどではなかったのである。ちなみに成績の方も恵まれていたがそれも美奈子には及ばなかった。それもそうだ。わざわざ程度を落として美奈子はこの学校に――どうしてわざわざこの女子校を選んだのかと昔聞いたことがあるがどうやら家から通え設備の一番整っているのはここであったらしい――来たのである。トップを取れない方がおかしい。

 しかしそれが本庄には不満だった。何せ聞くところによると本庄は中等部の頃からこの学校を牛耳ってきたらしい。

 片や中流階級の天才型、片や上流階級の努力型である二人は水泳部のツートップだ。せめて部活が別であればよかったものを。比べられる機会も何かと多い。それが余計に事を複雑にしているのだろう。

 端的に言えば、自分の持っていないものをあいつは持っているといったような。

 美奈子には環境がない。本庄には才能がない。そのような場合に起こる感情が羨望なのかはたまた嫉妬なのかは、いざ知らず。

 学内も部内も随分前から本庄か美奈子のどちらにつくといった感じで二分されている。美奈子は結構人気であった。美人だし。何より本庄に嫌気がさしていたグループに受けたのだ。

 「今日はどうだったの」

 「……別に、目立ったことは何も」

 目立たないことならあったのと揚げ足を取りたくなったがまた睨まれそうなので幼馴染みは口をつぐんだ。

 夏に入って随分伸びた日も沈みかけている。キツい日差しが薄れ幾分か体が冷え始めたがそれでも日本特有の湿度の高い、うだるような暑さは余韻を残している。

 あっついねーと言ってはみたものの美奈子から返事が返ってくることはなかった。


 *


 放課後の始まりをチャイムが告げた。今日は部活がない。美奈子の心は踊った。今日は邪魔されない。邪魔されないのだ!足早に教室を出てプールの入っている教室棟へと向かう。意気揚々と更衣室に足を踏み入れようとした、その時だった。

「帰りなさいよ」

「……」

 行く手を阻む障害物を美奈子は不快そうに睨んだ。部長の本庄。邪魔。美奈子は下劣な罵声を浴びせようとしたがすんでのところでとどまった。怒りに凝った口をようやくの思いで開く。

「どうして」

「どうしてじゃないでしょ」

「……」

 美奈子の眉間に深くシワが刻まれた。改めて自分の行く手をふさぐ本庄を見る。

「今日部活が無いのは先生方が期末試験の採点でお忙しく部活に立ち会えないからというのを知っているでしょ?生徒は居残り禁止! なのになんで泳ごうとしてるの?少しはご自身の頭で考えられたらどうなの?」

 そう言われ美奈子は思い浮かんだことをふと、口にする。

「……あなただって生徒じゃない」

「……」

 憤然とした面持ちで本庄が美奈子を睨む。どうやら図星であったようだ。もっともらしい大義名分は掲げているが動機は単なる美奈子の揚げ足取りのようである。すぐに帰らなかった美奈子の後を怪しいと思いせっせと先回りしたのだろうか。

 相変わらず説教は続いていた。これでもし水泳部が謹慎処分になったらどうするんだ、大会も近いのに、どう責任取るつもりだ、あなた一人のせいで皆が迷惑する、エトセトラエトセトラ。美奈子は淡々と説教を聞いていた。いや何も言わなかっただけだ。これじゃあ今日は練習をできそうにない。惜しさばかりが募ったがどうしようもない。日を改めよう。くどくどと言葉を並べる本庄を無視してくるりと背を向け帰ろうとする。

「いい加減にしなさいよ!」

「――!!」

 美奈子が小さく悲鳴をあげた。本庄が容赦なく美奈子の髪の毛をひっつかんだせいだ。掴む力に引きずられるように美奈子は後ずさる。

「嫌ッ、やだ、やめて、離して」

「何言ってるの?」

 本庄は掴んだ髪を引き美奈子を自分の方へと手繰り寄せる。そして目に涙をにじませる美奈子の顔に自分の顔を寄せ、吐き捨てた。

「ルールってのは皆がそれを守るから機能するって習わなかった? 誰も彼もワガママ言ってたらキリがないじゃない、分かるでしょ。小学生だってあなたより節操があるんじゃなくて?」

 いい加減恥を知りなさいよ。それだけ言って本庄は美奈子から手を離す。どうやらそれで気が済んだらしい。振り返り 恨みがましげに見る美奈子の表情に本庄が満足げに笑う。すると間髪入れずに美奈子の平手が本庄の横面に飛んだ。唖然とした本庄に美奈子はたった一言、浴びせる。

「触らないでよ」

「……言いたいのはそれだけ?」

 鬼の形相で本庄が美奈子を睨んだ。

 ほら、結局あなたってそういう人なんじゃない、化けの皮剥がれちゃってるわよと美奈子は内心で毒づき本庄を淡々と睨み返した。

 ひりついた空気が二人の間を埋める。

 本庄が美奈子に今まさに掴みかかろうとしたその時、遠くの方から足音が聞こえてきた。それっきり二人は蜘蛛の子を散らすようにその場を後にした。


 *


「へー」と明日香は適当に相槌を打った。

 期末試験の答案がバツやらマルやら書きこまれ返された日の帰り道、珍しく美奈子の方から一緒に帰らないかと誘われた。驚いた美奈子の取り巻きがいつになくきゃあきゃあと騒いだが明日香の方こそ今日は槍でも降るのだろかと慄くばかりであった。

 そわそわと落ち着かないまま帰っていると、美奈子の口からぽつりぽつりと部長こと本庄への罵倒が零れた。平素から一切そういったことを口にしない美奈子にすればかなり熱いバッシングである。単語と単語を拾い上げて明日香はどうやら掴みあい寸前のところまでいったらしい、ということを把握した。普段は本庄が上品に浮かべるにこやかな笑みを脳裏に描いてはイメージのギャップに重ねて驚きを覚える。一体何をしてるんだか。それにしてもわざわざ一緒に帰ろうと誘うほどなんて。

「本当……嫌い……あの女」

「まあまあ」

 そういって幼馴染は適当に美奈子をなだめた。学校が午前中で終わったせいでまだ日は高い。じりじりと紫外線が肌を焼く。あっついなーと明日香はぼやいた。

 「ていうか悪いのほぼみなこじゃん」

 「……」

 ギロリと美奈子に睨まれる。綺麗な顔をしている人に睨まれるというのはつくづく怖いものだ。なかなかの迫力がある。

 「つーかなんでそんなに切羽詰まってるん? 別にいつも通りにしても余裕でしょ」

 美奈子なんだから。

 いやっていうほど知ってるがこの子は昔っから私が十人いたってできなことを軽々やってのけてしまうのだ。

 暑さのあまり明日香は自らをパタパタと手で扇ぐも気を紛らわすほどにもならない。ただただ肌に感じるのは熱風だ。こういうのを焼け石に水というのだろう。

 「それともなんかヤバイの?」

 「……そんなことないわ」

 そう言った美奈子の顔は微かに憂いていた。

 「……あー、じゃあさ、あれじゃん。なんだっけ。山川に許可取れば、顧問の。試験休みに練習させて下さいって。みなこあいつのお気に入りじゃん」

 「……」

 「本庄さんに頭下げるよりマシじゃない?」

 「……そうね」

 本当に嫌いなんだなぁと美奈子の妥協感をひしひしと感じながら幼馴染みはこっそりと苦笑した。

 家の近くの分かれ道まできたので手を振る。じゃあまたね、と。

 「大会近いんでしょ? せいぜいがんばれよー」

 「うるさい」


 *


 泳いでいた。誰もいないプールを泳いでいた。誰にも邪魔されることのない世界は久しぶりだった。

 ひと息を入れようとプールサイドに上がる。軽くタオルで体をぬぐい、ゴーグルの内側に溜まった水を捨てた。そしてため息をつく。どうしてこうも上手くいかないのだろう。

 今までずっと私が一番だった。ずっと。それなのに前回、あの一度だけあの女が追い抜かされた。天才? 私だって努力している。才能に甘えてやっていけるほどぬるくはない。

 頑張っていた。それこそもがき苦しんでいた。だというのにタイムは落ちていくばかりだ。私を救っていたのは特待生は成績だけで評価されるということだった。それだけだった。

 私は一体どうしてしまったんだろう? いくら頑張ったところで結果がでなければ意味がないっていうのに! 

 いいや、意味なんてものはとっくのとうに失ってしまっていたのかもしれない。だって私は本当にただ泳ぎたかっただけなのに。本当はタイムなんて、競争なんてそんなもの――。

「……」

 辛うじて嗚咽を呑み込んだ。もうこれ以上泣くことは自分が許せなかった。

 悔しい。思い浮かぶのはただそれだけだった。私にはここしか居場所がないのに。あの女には腐るほどあるだろうに。腐るほど恵まれているくせに。

 何よりあの女に負けている事が許せない。嫌い女。嫌い。いくら繕ったってあの女の傲慢さは嫌って言うほど滲み出てる。だから嫌いなの。何でも自分の思い通りになるって思っているあの鼻持ちならない面!!!

 私が持っているのはこれだけよ。これだけなの。

 「……」

 気を取直して再びプールに向かう。考えている暇も惜しい。近いうちにあの女も取り巻きも嘲笑ってやる。絶対に。

 ペースクロックが時を刻む。憎きそれを睨むと私は飛び込み台に上がる。息を吐いた。自然と心臓の拍動が増す。この心地よい緊張感も好きだ。好きだった。今は、あまり思えない。構えて、水面を見つめ――――地を蹴った。入水。すっと不要な波を立てず水に体を滑り込ませる。出だしから調子がいい。ストリームラインを描いた私の肢体が浮上する。すかさずクロールに移行した。手先から水を切り、ぐっと水を押し、掻き分け、水から抜き上げる。そして酸素を吸い込み再び手先から水に差し入れ掴まれた。


 掴まれた?


「あ、」

 水面が私を飲み込む。ぐっと、足首を掴まれ、するりと引き摺り込まれる。世界が、沈む。え? あれ? 息ができない。思うように息ができない。何、何、なにが、誰が、なにが、?私を捕えている、足首を掴んで。思考が明滅した。沈む、沈む。酸素を求めて口を開ける。水で埋まる。むせる。出れない。沈む。沈む。死ぬ? やだ、怖い、嫌だ。何、これ。

 思い出したように水を蹴った。泡が覆う。水面に、水面へ、私はもがく。よく分からない。足首が痛い。こわい、こわい、泣きそう、なにこれ、蹴る、蹴る、蹴る。少しだけ水面に近づく。

「…………!」

 絶叫した。がぼがぼと口から泡が溢れる。足首がちぎれる。あ、あ、やだ、こわい。なくなっちゃう。くるしい、さんそ、さんそ、そと、でたい、うえ、もがく、あとすこし。

 手を伸ばす。指先が微かに空気に触れる。しにたくない。しにたくない。死に物狂いで私は逃れる。

「っ、」

 顔が出た。かった、かった、勝った!

 肺にたっぷりの酸素を送り込み、間髪入れずに陸を目指す。傍から見れば滑稽なほど必死に泳いで私はプールサイドに上がった。息を整えようとするが膝が震える。

 生きている。それだけ分かるとすとん私はその場で崩れ落ちてしまった。プールを背によかったと胸をなで下ろす。それにしてもあれは一体なんだったのかと何気なしに振り返ろうとして、止まった。ふと先程まで捕らわれていた足首が目に入る。

「、」

 喉の奥が引き攣った。元から日焼けを重ね黒い私の肌よりもずっと黒い手形が、私の足を掴んでいた形が、くっきりと残っている。

 心臓が早鐘を打つ。

 恐る恐る、振り返る。

 水面は夕焼けの日差しを受けきらきらと輝くだけであった。


 *


 「えー、知らないっすよー」

 そういって明日香は自分のベッドの上で寝返りをうった。クーラーのきいた部屋は実に快適極楽浄土、一方外は灼熱地獄。天気予報のいうことを信じるなら今日は猛暑日になるそうだ。

 「そんなこと言われても」

 明日香は困ったように声で電話の向こうに返す。しかしぐたっとした体勢は変わらないどころかスマホに電話がかかってくるまで読んでいた雑誌を再び開き読み始めた。

 「一応そりゃ幼馴染ですけどそこまで仲がいいってわけでもないし……心あたりも特には」

 受話器の向こう側でほとほと困り果てたようにため息をつく。いやしかしそれもどうだか。内心喜んでいるのではないだろうか。

 何かあったら知らせてくれと念を押され電話が切れた。途端に明日香はスマホを放り出すとベッドに深々と沈み込み雑誌の続きを読み始める。

 が、途中でふと顔を上げた。明日香の視線が探していたのは壁にかけてあるカレンダーである。

 大会今日だったんだ。誰に言う訳でもない独り言が人工的に冷やされた部屋に響いた。

 ちょっと自己中心的な面はみられなくもないが水泳に人生を賭けているような奴が水泳の大会をサボタージュするというのは誰の目からしても不自然に見えるだろう。ここのところ様子も何か変だったし、一体美奈子はどうしてしまったのだろうか。

 明日香はよっこいせと身を起こし部屋の窓から外を覗く。窓越しに伝わる熱気にげんなりしながらも隣の美奈子の家を見た。外から見ただけでは何とも言えないが、取り立てて変わったこともないように思える。その上娘達よりも母同士の方が仲がいいのでそれこそ何かあったら筒抜けで伝わってくるだろう。

 だがどうにも引っかかった。明日香はちょっと尋ねに行ってみるかなと考える。

 「……」

 しかし考えるだけに終わった。もぞもぞとベッドに戻り先ほど読んでいた雑誌に手を伸ばす。そもそもなんて言えばいいのだろう。

 大会サボったんだって?

 ……今日が大会だったってことも知らなかったくせに?

 仲がいいと思ってるのだって私の思い違いなんだろう。だって私とあの子じゃあんまりに違いすぎるし、それに遠かった。


 *


 やめちゃったって。ねえ、あのこ。やめちゃったんですって。よかったわ。あら残念ねえ。それはとっても残念。美奈子さん、美奈子さん、ねえ美奈子さんったら。

「……うるさいうるさい」

 あいつのせいあいつのせい。どうして。醜い足を抱えて私は呻く。あいつのせい。あいつのせい。きっと何かしたんだわ。何か。ずるい、ずるい。

 ほんとざまあみろって。いい気味。所詮その程度だったのよ。

 罵声が止まない。頭の中で、染み付いて、ああ、ああ、嫌だ、悪くない、私は、悪くない。


 *


 「はぁ? やめた?」

 「そうなのよ」

 思わず明日香は顔をあげたがアイスが溶けていく方が惜しく慌てて食べる。

 「心当たりない?」

 食べ終わったアイスキャンデーの棒をゴミ箱に叩き込み明日香はため息をつく。アイスをおごってやるとついてきてみればこれだ。明日香は隣でモナカを頬張る本庄を横目にお嬢様でもコンビニアイスとか食べるんだなとどうでもいいことを思った。それともレベルを庶民の私に合わせているのだろうか。

 「ないですって。何度も言ってますけど」

 「ほんとに?」

 「そりゃもうほんとですよ」

 「アイスにかけて誓う?」

 「むちゃくちゃ誓います」

 明日香は激しく頷いた。安い買収だ。


 美奈子が大会をサボったっきり姿を現さない。


 本庄にそう告げられた時、明日香は正直とても驚いた。確かにここ最近見かけないとは思っていたが本庄曰く授業はおろかプールにも姿を表さないという。それから一昨日には退部届けがいつの間にか顧問の机の上に置いてあったともいった。誰かしらは人がいるはずの職員室で誰も美奈子を見かけなかったとは、妙な話だ。

 それを初めて聞いた時明日香は、学校から帰るなり自分の母親に何か美奈子の母親から聞いていないかと尋ねた。しかし得られたのは特に何も聞いていないという答えのみであった。

 不気味だ。

 「体調崩したとか?」

 「それだったら普通に言えばいいじゃない?」

 「うーん……」

 それもそうだ。答えに詰まった明日香は唸る。我ながら間抜けな考えしか思いつかない。ああ嫌だ。私って本当に馬鹿だ。コンビニを出てすぐの空きスペースでアイスを片手にだべるよくある女子高生にしてはやや不穏な空気が漂った。

 「……部長さんが嫌になったとか」

 元からじゃないのと本庄は軽やかに笑った。その笑みに明日香は少しばかりではあるが恵まれた者の余裕のようなものを感じた。ついで、これに憧れるか嫌味を感じるかは分かれるだろうなとぼんやりと思う。

 「まーそうですけど」

 「というか全面的に高橋美奈子が悪いじゃない」

 「まあ……」

 幼馴染みは言葉を濁した。それはそうなんだけど。明日香は内心で呟くが決して口にはしない。普通の人がみれば、誰もが知ってるお金持ちの家のお嬢様なのに気取らないし親しみやすいといった感じを漂わせていて、体裁はとても気持ちのいいものであった。

 でも、なんというか気持ち悪い。正しいのに、気味悪い。

 まあいっかと幼馴染は呟いた。まあ、そんなことはどうでもいいや。多分、私には関係のない話だ。美奈子と本庄さんと、それから取り巻き達で繰り広げていればいいんだ。

 「ん? 何か言った?」

 いえ、何も。そういって幼馴染は笑った。


 *


 気づけば学校の更衣室にいた。ロッカーに埋め尽くされた空間は見慣れたものだ。それとこの空間にはもう一つ見慣れたものがあった。

 「高橋美奈子?」

 私の名前をあの口が呼ぶ。嫌……、嫌。どうしてここにいるの?なんで?また邪魔をしにきたの?どうして私の邪魔ばかりするの? そんなのおかしいじゃない。ずるいじゃない。

 私はゆらりとおぼつかない足取りで踏み出した。本庄の顔に言いしれない恐怖が走る。やだ、怯えてる!ざまあみろ!!

 「どうしたの、ずっと顔見せなかったじゃない」

 何を言ってるんだろうかこの人は。答えるのも面倒だったが私は答えることにした。

 「あなたのせいでしょ」

 「はあ?」

 「あなたのせいよ」

 あいつは何がなんだか分からないというような顔をする。とぼけないで……とぼけないでよ!私があなたのせいでどれだけ苦しんだと思ってるの……!死ぬかと思ったのに怖かったのに。うつむくとぼろぼろと涙がこぼれた。思わず膝が崩れ落ちた。へたりと床に座り込む。地面にうつむいてしくしくと泣く。あいつが戸惑っているのが分かる。でもきっと分からない。分かるわけがない。分かったフリをして慰めようとでもしたのならぶん殴ってやる。

 予想通り心配そうな面をしてあいつが私の方に近寄ってきた。しかし慰めるというわけではなくさっぱり訳が分からなさそうに、困惑し、傍らに屈み込んで私の顔を伺う。

 「なにが、ねえ、なんのこと?」

 「…痛かったのぉ……。痛かったのに……!」

 「……」

 どうして黙ってるの。謝れよ。私に。この暴力女。私はやつの胸ぐらを掴んだ。憎たらしい顔に絶叫する。

 「足首!ねえ私の足首返してぇ!これじゃ泳げないわァ!こんな醜くて!醜いのよォ……!」

 見せつけるように私はハイソックスを脱ぐ。奴の視線が向きそして息を呑む。今更か。やっとか。やっとかよぉおッ!?

 「謝ってよ……痛いのよ……黒くて醜い痕が残って……これじゃ泳げない……」

 「痕……?」

 「そうよ、掴んできたのよ」

 奴が恐る恐る私の顔を間近に見る。しばらく逡巡し、思い切ったように本庄が口を開いた。

 「ねえ、本当に何を言ってるの? そんなのどこにも無――――」

 嘘よ。

 やつを突き飛ばす。かがみこんでいたせいで奴はあっけなく倒れるがその時後ろのロッカーに頭が勢い良くぶつかったようだった。痛々しい音が無機質な空間に反響する。立ち上がれないでいる奴に私は淡々と歩み寄ると前に私がされたみたく、頭皮ごと髪の毛を掴んだ。やつが呻く。痛いの?ねえ、痛いの?よかったじゃない。いいことだわ。私はもっと痛かった。苦しかった。ずっと、ずっと、ずっと!やつの頭を持ち上げてロッカーに叩きつけた。もう一度、鈍い音がした。繰り返し、繰り返し、叩きつける。私が、溺れかけたのも、上手くいかないのも、全部、全部、こいつのせい。ガン、ガンと繰り返し音が響く。だって。ねえ。バカなこと言わないでちょうだい。ひどい、ひどい、酷い!あんたのせいなのに!あんたのせいじゃないっていうなら、誰のせいなの?

「私が何か、悪いことしたの? ねえこれもあれも、私のせい? そうだって言うの、何か、ねえ何か言って」

 子供が大好きな玩具を構いすぎて壊してしまうように。本庄からは生気が失せていた。それでも繰り返し、繰り返し叩きつける。どうして何も言わないの? 何が無いの? そんなこと、だって、私は、私は。

 足元が濡れた。

 真っ赤だ。血だ。けれどこれはきっと私のものだ。私が流してきたものだった。

「……いたい」

 私の喉がそう言った。どうすればよかったの? 頬に涙が伝っていた。


 *


 テレビがニュースを流す。アナウンサーが流暢に読み上げる。私立××高等部の女子生徒が一人死亡。死因は『自殺』。

 飛び降りだってと誰かが言っていた。学校の屋上から、飛び降りたんだって。

「ねえ、明日って制服でいいよね」

 明日香が聞くとそうねと母が言う。

 明日は美奈子の葬儀だった、

 ひょっとしてあの子は、私が殺したのだろうか。


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水切り 水無 @ikaumeee

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