第2話 萌芽

 1度目の災禍は、大陸間の大規模戦争だった。誰もがいつかは起こり得る最悪の展開だと思っていた。世界人口は大幅に減少。国交と共に物流は絶え、持たざる国から滅んでいった。10数年に渡る戦争がもたらした爪痕は大きく、居住不可能な地域が地球上の30%にまで上昇。陸地だけでそれだ。海は死の領域となった。復興は遅々として進まず、人々はただただ、2度目の災禍の訪れを恐れて自国の守りに入った。地下建設やシェルター化は土壌汚染の少ない地域から始まりはしたものの、現場作業は難航していた。


 おれやヨハンの過ごした幼少期から20代というものはおおよそ災禍の真っただ中だった。局所的に平和になり、局所的に未だ地獄の最中にある社会で、再就職を試みたのがこの機関だったのはお互い必然的なものだったし、機関にはそうして集まった人間がほとんどだった。


 人間など淘汰された方がいい、そう口にしていた割にはヨハン・スミスという男は純粋だったように、おれは思う。純粋過ぎた。人類に過剰な期待を寄せていた。誰のことも好きではないくせに人間という生き物を好いていた。理解できないなりに理解しようと足掻いていた。他人のことをまるで理解できない男は己が理解されないことに絶望してまで、人間を暴こうとしていた。


 他者からの理解を放棄している、とヨハンがおれを評したことがあったな、とおれはぼんやりと考えていた。


 延髄サーバが稼働したその日にも、おれは同じことを思い出していた。


 あの日、居るはずのない場所にヨハンが居るのをモニタ越しに目にして、おれは茫然としていた。

 稼働後の延髄サーバの基底人格としての席に、ヨハンが居る。おれはただの技官として仕事でシステムを動かした。それが、ヨハンとの決定的な別れになるとも知らずに。

 最終確認でベース機関員の名簿に目を通していると、99番目に、ヨハンの名前があることに気が付いた。

 もう遅かったのだ。

 検証課に問い合わせても、稼働後に技官が保全室に立ち入ることはできない。延髄サーバ本体は箱庭の中にある。おれの権限では、延髄サーバ本体への作業は禁止されていた。

 おれの事情でたった一人の友人のために、強制覚醒の許可が下りることもなく打ちひしがれる俺に、検証課のヘムロックという女性がおれに面会があるという。


 すぐに応じることにした。場所は喫煙室だったが。


 待ち合わせの時間に部屋の扉を開くと、細い煙草に火をつけている白髪の女性と目が合った。歳は30手前くらい。フレームレス眼鏡の奥の切れ長の目に隙の無さをうかがわせる人だった。


「ギリコ・E・唐科カラシナ技官ですね」


 通りの良いしゃんとした声音。おのずと背筋が伸びた。


「スーザン・ヘムロックです。検証課では上等検証員としてシミュレーションの精度確認をしております。呼び出しに応じてくださったこと、まずはお礼申し上げます」

 ヘムロック上等検証員は一礼する。


「それと……本稼働、おめでとうございます。……とは、一口に言いにくいのですが。お疲れのところ呼び出してしまいましたね」

「そんなに顔色悪いですかね、おれ」

 はは、と笑った声は自分が思ったよりも力ない。上等はおれの顔へと視線をやったが、目が合うことはなかった。

「ええ。スミス技官ほどではありませんが」

「そう、すか。……それで、おれに何の用です。ヘムロック上等」


 喫煙室におれたち以外の人影はないが、他に誰か来ないとも限らない。なにより、手短に済ませてもらえるならその方がありがたい。……ひどく疲れていた。部屋にさっさと引っ込んでしまいたかったが、そうしなかったのは、用件に思い当たる節があったからに他ならない。


「貴方のお察しの通り、スミス技官のことについてです」

 やはり。

 ヘムロック上等は一度煙を灰にたっぷりと押しやってから、貴方もお吸いになっては? とおれに灰皿を示す。では、と白衣のポケットに手を伸ばした。


「……ガラムですか。グダン・ガラム」

 真っ赤なパッケージが目に留まったのか上等が呟いた。

「随分と、タールの重いものを吸われるのですね」

「香りと火花が好きでしてね。物好きが高じて選んだ銘柄です。……ヨハン、スミス技官は、ラッキーストライクを吸ってますが。以前に験担ぎかと訊いたら、いたく気に入ったようで」

「……本当に、仲がいいのですね」

「そうでもありませんよ。おれの交友の幅が狭いだけです。……あいつはおれとは違ってそれなりに友人がいたようですし。別に、おれと一番仲がいいわけじゃあないでしょう? ところで、おれを呼びつけた理由は、まさかあいつの吸ってた煙草の銘柄を知りたいから、じゃあ、ありませんよね?」


 一本取り出し、唇をフィルターに付けた。甘い味が舌先に伝わる。先へ着火すると、クローヴ油の匂いが深みを増した。


「最後にスミス技官と会話したのが私だったからです」

「…なにか、あいつが特別なことでも?」


 おれに伝言だろうか。

 ヘムロック上等は少し目を伏せ、灰皿へ煙草を押し付けると、2本目の煙草に手を付けた。


「そうではないのですが……改めて延髄サーバの意義とスミス技官の関りについて少々話をしてみたかったのです」


 延髄サーバへ組み込まれたら、もう一度、人生を歩き直せるのだ。他者との間に軋轢を生じない社会で、第二の人生を歩むことができる。他者を理解できる。ヘムロック上等は強く言った。


「ハーモニクスの拡散は、クオリアを欠くものであるという見解はあります。しかし、人間が真に社会性をもって合理的に生存することができるのならば、それは有意義であると。ただし、現存するわれわれには意識がある。明確な意識が。だからこそ抵抗があるのだとは思っていました。実際、本稼働に関しては、先に述べさせていただいたメリットで、仮想環境の運用に協力いただいた機関員を説得し、運用に至ったわけです」

「……昔、そういった題材の小説を読んだことがありますがね。その後の共同社会は上手くいったかは結局書かれていなかった。けれど、進化の臨界に至った彼らは間違えようもなく、幸福だとは思いますよ。哲学的ゾンビと大差ない状態で、その脳味噌が機能的に幸福であると感じることは、自明ですから。外側から観測する人間は意思をもつ我々で、その境地には遠い。理解がない代わりに抵抗があるのはごく自然でしょうね。『わたし』の意識を取り扱うのに『わたし』を欠いては、メタ評価ができない。……その点、スミス技官の決断はおれにとっては甚だ疑問です。矛盾の多い奴でしたがね」


 おれはゆっくりと頭を振った。保全室の。ヨハンの顔が。頭から離れない。


「その……基底人格として平均化された意識を敷いたあとには、どれほどの自由度がのこるのでしょうか」

「一人の職員として申し上げるには、偏差があってしかるものです。が、ご存知の通り、それは被験者として意識の上書き処理をされる100人の方です。……保全室の方の人間は休眠に入った状態になりますからね。原理的には、保全室から電気的な反応を抽出し延髄サーバで演算処理をしたものを箱庭試験場の被験者に送信する。あらゆる意思決定に100人分の回答を要する。決定の表出や例えば感情の部分などは、ある程度被験者本人がベースになるが個人差はプラスマイナス20%……と、おたくのシエラ・ディンバー検証員の報告には書かれているようですが」

「データでの話はそうですが、……それはあくまでも平均化した数値、ですよね」


 何かが気になるのか、ヘムロック上等は奥歯にものが挟まったような物言いだった。


「『これより庭の人間には差がないと仮定する』……検証課のあなたが、自分で判子を付いた、部下の報告を信じないでどうするんです? ヘムロック上等?」


 おれはわざと意地悪なことを言ってみた。ありていに言えば、揺さぶりをかけた。


「それとも、そちらの検証結果が不十分なまま、上層部に報告書を出したと上等はおっしゃるつもりなのですか」


 言い過ぎたかな、と思ったが。上等は気まずそうに唇を固く結んでいた。これでは肯定したのと同じだ。


「……わかりますよ。圧力をかけられたんでしょう。……配慮の足りない発言をしたこと、お詫びいたします」


 すんなり引き下がって、おれは頭を下げる。ヘムロック上等は、ぎゅっと目を閉じて、痛みをこらえるように眉間に深く皺を寄せた。重い煙を吐き出すように長い嘆息をした後で、煙草をもみ消す。腕を組み、熟考の後、上等はやっと口を開いた。


「私は、スミス技官に、自ら協力するよう要請いたしました」

「あいつにベース人格としてプロジェクトに参加するように促したんですか。検証課が?」

 ヘムロック技官はかたく頷く。

「なんて……」

 馬鹿なことを、という言葉は呆れて出てこなかった。あの時だ。食堂で別れた後だ。ヨハンのことだ、予想した上で向かったのだろうが、当然断るだろうに。


 そのことをおれが告げる前にヘムロック上等が、

「スミス技官は快諾してくださいましたよ」

「あいつが?」

「驚くことでしょうか。彼は、プロジェクトの立案者です。延髄サーバの構想、他者を当然のように理解できる社会を彼は望んでいた。実地試験にこそ反対していましたが」

「……繰り返しになりますが。メタ的評価ができる状態ではないのですよ。自己意識を溶かすようなことを、立案者がそうするとは思えない。スミス技官には責任があった。計画が失敗したら? その時に、誰が対応するんです? あの馬鹿が、それを誰かに任せるなんて」

 淡々と表情のないまま続けるヘムロックに詰め寄った。冷静さを欠くくらいには、おれにはヨハンが何を考えていたのかがいよいよ分からなくなっていた。

 分かるはずなどなかったのかもしれない。

「ええ。ですからそれを、ギリコ・E・唐科技官。あなたに託されたのです」


 虚を突かれた。


「おれに……?」

「貴方であれば、自分が不在であれど望むように対応してくれる、と。お墨付きを頂いております」

 都合のいいことを言っているのかもしれない。続けて問い質そうとするおれを、ヘムロックは手で制した。

「事前カウンセリングでは、彼に問題は一切ありませんでした。実施に差し支える人格ではありません。ジェニファー・マッケンジー課員が訴えていた内容は、マッケンジー課員の主観に基づいた報告に過ぎず、信憑性に欠けると判断いたしました。よって、スミス技官が延髄サーバへの同期に参加することは自然なことでした」


 ああ。

 ああ。馬鹿なのか、おまえたちは。

 おれは天を仰ぎたい気分だった。


 あの男が、自己目的のために他人を欺くことに何の躊躇いもないヨハン・スミスが、用意されたカウンセリングで、自分の装置に自分を送り込むための問答に最適解を導けないはずがないだろう。そのための準備も嘘も怠るはずがない。そんなことも見破れなかったのか。見抜くこともできずに圧力に負けて太鼓判を押してあの狂人を見送ったのならば、本当に機関の検証課というのは節穴集団なのかもしれなかった。そもそも、上層部はヨハンがこれ以上プロジェクトに関わることができないようにしていたはずだが。……いや、それならば、そうか。外側から状況を左右されるくらいならいっそのこととりこんでもみ消してしまえばいい、という算段だったのか。毒喰らわば皿まで、である。そしてそれを後押しした人物も、おれには心当たりがあった。……まあ、もう確認することはできないのだが。


「『他者を理解することができれば僕たちの苦しみはおわるはずだ』と。彼はそう言っていました」

「僕たちの、ですって」

 耳を疑う。

「『だから、自分が証明しなければならない』、とも。だからむしろ、私は唐科技官に尋ねたかった。貴方の、貴方がたの『苦しみ』とはなんだったのかを」

 これは。余計な置き土産をしてくれたものだ。

 おれは苦笑いして、ヘムロック上等の問いに答えることにする。

「理解されているのではないかと期待してしまう『苦しみ』ですよ。もしくは、理解したくても理解できない『苦しみ』。歯痒さ、齟齬、軋轢。思想からして普遍的なようで決定的に掛け違えている。分かった気になっているだけで、おれたちは誰のことも理解しちゃいない。そのくせ、いつか分かってくれるだろうと勝手に他人に期待しちまう……とでも説明すればいいでしょうかね。『言いたい奴には言わせておけばいい』ってのがおれの信条なら、スミス技官の信条は『話せばわかる』だった。言いたいことも碌に言えず他人を気にして言葉を呑みこんでばかりの男でしたからね。基本的には他人を気遣うあまりに黙ってばかりの奴でした」

「けれど、貴方はスミス技官のそうした側面を理解している」

「残念ながら、理解した気になっているだけですよ。おれは見透かした気になっているだけ。そんなおれのことを知ってか知らずか、あけすけな物言いでしたが、それはおれが特別だったからでもなんでもありません。なんとなく似たような人間だとわかってしまったから、似たような苦しみを理解した気になった。それだけです」


 例えば、どうです。おれの目は。――あいつと同じくらい、底の見えない目をしているでしょう。

 とまでは。言う必要がないだろう。


「……………………」

「それだけなんですよ。おれたちが『友達』でいられた理由なんてのは。相互理解なんて求めていなかった。分かった気になれていたので、十分だったんです。勘違いだったのかもしれませんがね」


 フィルターを通る煙が、タールで満たされている。苦味を感じるようになったら、とめ時だ。ガラムは元々長い煙草ではない。ぎゅ、とスチールの蓋で火を消す。

 答えになっていますか。と。おれは静かに尋ねた。返事はなかった。


「上等は、これからどうなさるおつもりですか。統合された意識を根底に持つことで多様性を容認できるようになったと、証明できたとして、その後です」

 おれの問いかけには、依然、ヘムロック上等は気まずそうに、

「……私は、この施設を去ります。別のプロジェクトに研究員として招聘されましたので。この箱庭試験が私のこの機関での最後の仕事になります」

「なん、ですって。今の段階でプロジェクトを降りるんですか」

「耐えられないのですよ。……人間の底なんて、私は覗きたくはなかった。基底意識の作製工程は……地獄を覗き見た気分でした。昏く、深い、淵を覗いてしまった。無論、スミス技官に限った話ではありませんが。スミス技官はポッドに入る前に、私へと微笑みかけました。彼を、その時とめることができれば」

「ならば、なぜ、おれに知らせてくれなかったのです。知っていたとしてもあの大馬鹿を止められた保証はありませんでしたが、あいつの入る予定だったポッドに事前細工することはできたはずだ。リモート操作で延髄サーバから弾くことも。あいつの意識を溶かすこともなかった」


 上等は黙して頭を左右に振った。諦念がにじみ出ていた。


「……本当は誰一人として、箱庭試験が上手くいくことなど望んではいなかったから、ですよ。ヨハン・スミスはスケープゴートになってもらう。その方が都合がいいから。機関がなぜ2度目の災禍を防ぐシミュレーションをしながらも、確定的な阻止方法を確立しないか考えたことはありませんか? 来るべき2撃目で、完膚なきまでに粉々に粉砕してほしいからです。社会を、自分以外の誰かの犠牲で、思い通りになるようにしてほしいという欲求があったからです。避けるべき事柄から避けようとしないのは、避けられないのではなく、避ける気がないから。希望を願いながら、誰もがとっくに絶望している。けれど、希望を謳い続けるのは、自らが既に絶望していることに気が付きたくないから。……スミス技官はそのことを理解していたようでした。理解の上で、自分の賭けに出た。唐科技官、貴方、それを止められましたか」

 

 今度は、おれが黙り込んでしまう番だった。


「……続けてくださいますか。友人がこちら側に帰ってくるのがいつになるとも知れませんが」

「その問い方はずるいですよ。おれが断ると言えない。……まあ、約束しましたからね。見届ける、と」

「スミス技官はこうも言っていました。『約束通りケツはもつから、必ず見届けてくれ』」


 なんだ。それじゃあ、なにも変わらない。

 ここからヨハンが、居なくなっただけだ。……それだけだ。


「延髄サーバに接続した状況で責任を持つ、ということは。……唐科技官、分かっておいででしょう」

「ええ。野暮なことは言わんでくださいよ。文字通り延髄から大脳までを接合した物理脳サーバですからね。……ヨハンがやるというのなら。やるんですよ。そんな日が来ないことを、おれは願いますがね」


 付き合ってやるさ。

 もとより地獄の底にいるようなもんだ。

 おまえの苦しみが終わるのなら。最期まで付き合ってやる。


「やりますよ」

「そう、ですか。こんなことを申し上げるのは益々ずるいのですが……断ってくださることを、私は期待していました」

「なぜ?」

「他人の苦しみに引っ張られる必要はないと、私は思いましたから。いくら冷酷だとなじられようとも……他人のことは、気にしても、気に病まない」

 それが私ですから。

 消え入りそうな声でヘムロック上等は言う。

 言葉通りにこの人が生きられていないことは、わざわざおれを呼び出したことが証明になるのではないだろうか。


 それがいいのでしょうね、とおれは返した。冷酷でもなんでもない。あなたは優しい人だ、と。おれは続ける。

 上等は露骨に言い淀んだ。

「貴方やスミス技官ほど、まっすぐ生きようとすることに、みな必死にはなれないのですよ」

「こんな生き方しかできないんですから、諦めてますがね」

 おれは努めて明るく言った。


 すると、やっとヘムロック上等は俺の方を見遣る。

 初めて、ヘムロックと目が合った。

 緑の瞳には、わずかばかりの憐憫と、祈りが込められているようだった。

「貴方の苦しみが終わるといいですね」

 それでは。

 とヘムロック上等検証員は、深く、深く、一礼した。これまでの人生で見てきた中で最も丁寧な礼だと、おれはどこか上の空で思った。


 ……ええ。いつか。

 そんな日が来るといいですね。

 おれがそう言うことができたのは、ヘムロックが喫煙室を後にしてからだった。

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