毒麦に火を
日由 了
第1話 播種
ヨハン・スミスは毒麦だった。と、きっと誰もが口を揃えて言うのだろう。
延焼を免れた研究室で、おれは煙草をふかしていた。外の報道が一切入ってこなくなって、5日が経った。救助を要請してから、3日が経った。やっと自分の研究室に戻ることができたのが、つい2時間前のこと。……必要データの抽出に少し時間がかかってしまった。
かつて神は7日で世界を作り上げたのだと聖書には記されていたそうだが、ヒトが世界を滅ぼすまでには何日を要するのだろうか。全能でないおれたちには、あとどれほどの時間が残されているのだろう。
延髄サーバが落ちて10日目の正午を迎えた。箱庭から溢れた暴力がこちら側を浸食し始めて実に9日目。
おれのいる機関は、人類存続の保守を行っている。
災害から紛争、飢餓、隕石からエイリアンの襲来までを想定し、哺乳類ヒト科ヒトという生物をいかにして長期的に生かすかという研究を行う機関だ。2度目の災禍に備えるためにあらゆる可能性をシミュレートしてきた。仮想上の数字だけの世界もあれば、閉鎖空間を創りあげて実地実験を行うこともある。
とある高山地帯の山を丸ごとくり抜いたところにあるこの機関は最後の役目を遂げようとしていた。否。1度目の災禍を避けられなかった以上、こんな機関に意味があったかは分からない。それでも人類は自滅を免れていた。事態の発生を予測し可能な限り備え、これに対処する。けれど、いざ有事になれば起こったことだけが注視され、水面下での攻防戦など見向きもされなかった。10日前、延髄サーバが落ちるその日までは。
おれの管理するサーバは100人あまりの小コミュニティだった。延髄サーバとも言われた。身体の隅々まで根を伸ばす神経、その生命線の根幹である延髄の名を冠したコミュニティは実験場だ。100人の均質化基底意識データをインストールした100個体の社会の。箱庭試験場は、それ単体で機能可能な小社会だった。AIと養育ロボットたちによって支えられた、相互理解を旨とした共同社会を築き上げんとした、ユートピアの夢の跡。
その始まりを記録するのであれば、ヨハン・P・スミスのことを語らなければならないだろう。
人間など淘汰された方がいい。
おれの友人の口癖だった。
死んだ魚のような目をした男だった。これでは誰も救われない。と、シミュレータを覗いてはしょっちゅうぼやいていた。ヨハン・スミスという名前の男だ。延髄サーバの創始者。おれが言うのも何だが、決して賢い男ではなかった。そのうえ頑固で、自分がこれでなければ前に進むことさえできないと思い込むと、そこへとまっしぐらに落ちていくような、救いようのない大馬鹿野郎だった。
色の薄い、白髪に近い金髪に、悲壮感をたっぷり込めた奥底が紺の瞳で、顔色の悪い青年だった。歳が近いこともありおれがこの機関に派遣されてからは何かと話すことも多かった。人類存続の期間に所属しながら、口癖が人類滅びろという、なんとも矛盾した男だが、妙に据わった目で淡々と話すものだから嫌に説得力があった。言っていることが支離滅裂でも、単純な圧を無意識に醸し出していたのかもしれない。
彼は死んだ。
延髄サーバが落ちた、その日に。
おれが最後にヨハンを見たのは、ラボにある小さな食堂だった。山間ということもあるし、最近はまともな食糧供給すら期待できないし、オマケに出される料理はどれも食材への冒涜ともいうべき、絶妙に失敗された具合で提供されていた。それでもこうして人がやって来るのは、自力で食料を調達することと、悲しいかな、研究者というものは不摂生に陥りやすい生き物なのだ。
いい数値がでなくてすっかり昼を過ぎてしまった頃になって、おれは食堂に出向いた。昼でも夕暮れ時でもない時間、食堂にいるのは干されているやつか、研究にスケジュールを合わせてるやつか、おれのように進捗が芳しくないやつだ。ちょうど、研究室の出がけに少々厭な気分を味わったものだから、早くなにか腹に入れたかった。腹が減っているからイライラしているのだと思おうとしたのかもしれない。
さておき。ヨハンだ。ヨハン・スミスのことだ。
糊で固められアイロンまでかけられた白衣に袖を通して、薄いコンソメスープ一杯の前で、ヨハンは煙を吹かしていた。いまいち焦点の定まっていなさそうな視線は、埃が積もったシーリングファンの左辺りに注がれている。目を開けたまま気絶していると言われたら、十中八九信じてしまいそうな風体だった。
人が少ないどころか、この日は珍しく、ヨハンしかいなかった。
「考え事か、ヨハン」
おれは自分の分のAランチ――ミートソーススパゲティとコーヒーが乗った盆を、ヨハンの前に置いてから椅子を引いた。その音でやっとこちらに気が付いたのか、ヨハンは僅かにこちらへ顔を向けた。やはり、焦点は定まっていない。おれが視界に入っているかどうかも怪しい。ああ、と乾いて白く浮いた唇が動く。
「その様子じゃあいつものあれか」
まあね、と。ヨハンは短くなった煙草を灰皿に押し付ける。
「ジェニファー・マッケンジーの目を潰した。そんな夢を見た」
通りのあまりよくない声でヨハンは呟いた。
……あいつか。おれもあまりいい気はしない。
「最近よく夢を見る。僕が延髄サーバの中にいる夢だ。僕はジェニファーの目を潰した。突っかかられたからかな……。お前の話は誇張がすぎると言われた。自分の都合のいいように世界を創りあげようとする僕には、こんな社会がお似合いなのだと言って」
「そいつは夢でのことだろう。気にするなよ」
食堂のパスタはもさもさした食べ応えだ。茹で上げられて放置されていたのか、ところどころくっついている。飲み下すのもやっとで、おれは傍らのコーヒーを啜った。粉っぽい。舌がざらついた。
「現実でも言われた」
「それは……、気の毒に。だけど、おまえがジェニーの目ん玉を潰すようなことが現実にあるわけじゃない」
「そうしたいと思わないわけではない」
「あ、そう……。冗談だと思っていい?」
「本気だよ。残念ながらね。カッとなったらやりかねない。いや、計画的にやるかな……。けれど、それと同じくらい臆病な自分も理解しているから、現実の僕はそんなことはできない。……彼女、僕をソシオパスかなにかにしたいのか、いろんな部署で触れ回っているそうだ。ヨハン・スミスは虚言壁のトラブルメイカーだとね。迷惑極まりない」
「…………。ほっとけよ。トラブルメイカーが誰なのか自己申告しに行ってくれてるようなもんだろ」
「ギリコは大人だな……。僕が話しを盛りがちなのも自分の利益が大好きなのも大体火種になってるのも否定できないし、僕は自分のせいにされるのは大嫌いだけど人のせいにするのは大好きだ」
疲れ切った様子で、ヨハンは新しい煙草に火を灯した。そのままライターを差し出すものだから、おれも続いて自分の煙草に火を灯す。吸い慣れたガラムの甘い煙を肺まで押し込むと、やっと気分が楽になって来た。
「おまえもおまえで大概のクソっぷりだな」
「本心だよ。ここで僕が綺麗事でも言おうものなら、その方が『話を盛ってる』」
「はは、違いねえな。けど、そのジェニファーの話をおまえが盛ってないないと言う保証は」
「知らない。ギリコが判断してくれ」
「おれに投げるなよ」
「信じたいことだけ信じればいい。僕はいまジェニーがいないところでジェニーの話をしているんだ。職場内でたまたまそいつがいないから悪口を簡単に言うような奴のことなんて、そもそも信用するべきじゃない」
「つまりはおれの居ないところでおまえはおれの悪口を言っていると」
「そうかもしれないってことさ」
ここで初めて、ヨハンは唇だけを曲げて笑ってみせた。瞳は依然、黒々と死んでいる。
「ま、それでも別にいいけどね。おれのいないところで何を言っていようがおれの耳で聞いたわけじゃねえし。だからそれはおれに言われたことじゃねえ」
「皆がギリコみたいに割り切ることができればいいんだろうけど。サムあたりはジェニーの件についてはジェニーの味方をする気みたいだしな」
「へえ。あのサムエルが」
「サムにあたられてムカついたから、いないところでムカついたってジェニーに言ったらあいつサムにチクったみたいで。やっぱ悪口はプライベートに留めるべきだな」
「ガキかよ」
あほくさ。とおれは灰を落とす。
「三つ子の魂百まで、というのだろう。あんたの生まれた国では。……あいつらが延髄サーバの仮想環境ベースに選ばれたのが不思議でならないな。愛すべき善良な市民様の基準というのは、僕には推し量れない」
「はん。同感だが、ここでその善良な市民様を皮肉ってるおれらもそれなりに適合したんじゃないのかね。ま、技官のおれらに席はあるとしても極小数だからありえねえよ。――で、おまえと、えっと……検証課の誰だっけ。最初にジェニーと揉めた奴」
シエラのこと? とヨハンは首を傾げた。
「あいつは? 延髄サーバのベースに選ばれなかったのか」
「選ばれたよ。だから、同期の僕だけ居残り。……上は、僕に限っては大人しくしておいてほしいようだ」
「まあ、おまえは理想の人格には程遠いだろ。そして、一般的な思想の持ち主でもない」
「異常者ということに自覚のある異常者さ。それを自分で触れ回ることなんて悪手はとらないけど」
「真にやべーのはおめえみたいなやつだろうとおれは思うね」
冗談めかしておれは言ったが、ヨハンは大まじめだった。
「……だから勢いで、ジェニファーの目を潰したのかもしれない」
厭に真剣に呟くのだから、おれはつい大仰に溜息を吐いてしまう。
「けれど目潰しは夢だ。おまえは現実にいる。おまえの天敵ジェニファー・マッケンジーは今日も健全に病んでいる。とっととどうにかなっちまえばいいのにどうにもならないまま、ギリギリの領域で社会生活を営んでいる。それはおまえもだし、多分おれもだが。そしてここは延髄サーバの中じゃあない。外だ。現実だ。ヨハン、おまえ、休んでないんじゃないのか」
「『あなた疲れてるのよ』って?」
古いB級ホラー映画みたいだ、とヨハンは笑った。だが現実なんてそんなもんだ。陳腐に見えるものほどずっとおれたちに身近で、美徳や洗練されて洒落たものほど縁遠い。
夢に自己投影なんざするもんじゃあねえよ。
そう言い放ったおれに、ギリコは現実主義なんだよ、とヨハンが反論する。
「現実がなければ夢もクソもあるか。仮想上のおまえが救われたとしても、おまえそのものの現実は変わらない」
ずいぶんとヨハンは痩せさらばえていて、すっかり目の下の隈が濃くなっている。
「ヨハン、最近ちゃんと眠れてるのか。飯は。……酒、はきついな、その体調だと。リゾットぐらいなら作ってやるぞ。そうだ、おまえ林檎すきだったよな。コンポートにでもするから、ヨーグルトとかと併せて食えよ。とにかく消化の良いもの食って、ちゃんと寝ろ」
聞こえているのかそうでないのか、上の空で、うん、と生返事をされてしまう。
「おまえな」
あきれたおれが一度ヨハンの肩を掴もうとしたところで、ぎょろりと、目が、合った。威圧された訳でもないのに、反射的に動きを止めてしまう。
「たまに思うんだ。彼女は僕を恨んでいたのかと」
ぼそりとヨハンの口が動く。伏した目が、コンソメスープの辺りを捉えていた。
おれは素直に椅子に座りなおし、
「……おまえに悪意があったのなら。何をしたかは知らんがね」
「聞かないでいてくれるんだ」
「楽しい話じゃねえだろ、それ。そういう時は大抵、おまえも悪いしそいつも悪い。おあいこに悪い。どっちかが善いなんて言ったってどんぐりの背比べだ。サムエル・スピアーズのことだってそうだ。シエラ・ディンバーのことだってな。ジェニファー・マッケンジーのことに限らない。おまえは、無意識に誰かを呪い続けた。きっと、愛されたって呪う」
「僕は本当はサムが嫌いだった。上手くいっている内は調子に乗るのに上手くいかないとなると人にあたる。偉くなったつもりの人間なんて、僕は嫌いだ。というか、僕は」
「誰のことも別に好きじゃない」
「そう」
「おれにここまで腹を割って話すのは、おれが影が薄くて友達の少ない変人で、職場でもおれの言うこと為すことに信用がないから言い触らすこともなければ、そこまで他人に興味がない都合のいい人間だから」
「自覚があって助かる」
「おまえってやつは本当に。どれか一つでも嘘であってほしいもんだがね。可愛さ余って憎さ百億倍みたいなリアクションだってことを、おれに対しては期待したいもんだ」
「でも僕があんたを信用してると言ったら?」
「気持ち悪いね、ゾッとする」
そらみろ、とヨハンは肩を揺らして笑った。やっと、緊張がほぐれる。
「……僕はあんたのことが多少なりわかる。あんたも僕のことを多少なり理解してくれる。それだけで、十分だ。100%の相互理解なんてどれだけ相思相愛の人間でもありえない。僕らはそれでいいはずだし、それだから人間だと言える」
「だから理解しようと努力するし、理解されようと言葉を尽くす」
「努力を怠り言葉を省くのも個人の勝手だが、勝手をしておいて誰も自分を理解しようとしないなどとのたまう人間は僕は大嫌いだ」
「私怨を感じる発言だな」
ジェニファーか、とおれは片眉を上げたがヨハンは答えなかった。理解しなくてもいいということなのかもしれなかった。
「期待を寄せておいて理解されないことが苦しいということは、おれにはわかるがね」
「あんたにわかるのか」
「そうじゃなきゃおまえのプロジェクトに乗らねぇよ」
言わせんなよ、とおれはぐったりしたスパゲティを巻くのを再開した。
「ギリコ」
「うん?」
すっかり冷めたスパゲティを頬張る。栄養だけは摂っておきたい。
「あんたは、誰かから理解されたいと思うか」
「いや。されてもされなくてもどっちでもいいや」
「……そこまで他人に興味がないか」
「うん」
「断言するんだな」
「おれは大事にしてくれるやつだけ大事にする。そいつのことがわかってりゃいいし、まぁ、あと贅沢言うならそいつがちょびっとおれのことわかってくれてたら嬉しいかな。それ以上何を期待するってんだ」
「……そう、なんだ」
「おれのことを大事にしてくれねぇやつに期待してもな。疲れるだけだぜ?」
残りのスパゲティを掻きこむおれを、ヨハンは不思議な生き物でも見るかのように首を傾げていた。
すっかり冷えたコーヒーを口にする頃になって、やっとヨハンが口を開く。
「ともあれ、一足先にギリコに報告しておこう。延髄サーバの箱庭試験の話がきた」
「本当か……とは言っても、嬉しい話、とは」
「ああ。手放しに喜ぶようならさすがにぶん殴ろうかと思っていた」
箱庭試験を行えると言うことは……十分な数の被験者が集まったということに他ならない。
「西方の棄民から。被験者は飢餓を免れるという名目だが、同意書にサインした保護者の多くは口減らし目当てだ」
「それが、100人か」
「シミュレータで十分なのではないかと上には進言したが、上層部は焦れている。完全な人間性のみで構築された社会の完全性を証明する方法を。だから、それに等しい犠牲が僕は必要だと思っている」
「必要な、犠牲……?」
「100人の無辜の子供の人格を僕はこれから否定しようとしている。その個性を無為にしようとしている。ならば、機関からも犠牲を払うべきだ。箱庭試験の実施が覆らなければ、それだけの犠牲を機関に強要する」
「おまえ……本気で言ってるのか」
あの。
人ともしれないヨハン・スミスが。
大真面目な顔で、人道的なことを言っている。……のか?
「ギリコにも、協力してほしい」
「は? ……おれのような真人間に『人格提供』をしろって?」
「あんたが真人間なら誰もがガンジーになれる」
「世の中が少しはマシに見えるだろう?」
「……少しは、生きやすくなるのかもね」
「え?」
「なんでもない。まあ、あんたに『人格提供』なんか頼むもんか。物理的手段での『人格提供』、ねえ。シエラが出した案がもっとも効率よく安定した数値を叩きだしたけれど。よくもまあ、あんな『真人間』がこんな提案ができたんだと僕は内心震え上がったりなんかして。……時期がくれば分かると思うよ。けれど、ギリコには。見届けて欲しいんだ」
厭に真摯だった。そのくせ、うっすら幸せそうに笑うのだった。らしくもない。ヨハンらしくない。
予感めいたものを感じさせるのには十分だった。
「ヨハン。……おまえ。死ぬつもりなのか」
「まさか。僕は僕にできることをするだけさ。いつだってそうだよ」
「そこは説明してくれなきゃ分からねぇし、暗に肯定してないか」
「さあ」
にっこりと、ヨハンは笑った。それだけで、答えとしては十分だっただろう。
空になった皿にフォークを置いた音が、やけに食堂に響いた気がした。
「頼むよ、
結局、コンソメスープには手を付けず、ヨハンはがたつきの大きな椅子から腰を浮かした。やたらに骨ばった指にしか、目がいかなかった。
「僕は行くよ。検証課に呼ばれているんでね。それじゃあ」
さっさと席を離れようとするヨハンを呼び止める。
「サーバの稼働、おまえは立ち会うんだろう」
「多分ね」
「……実施者なら、おまえだって見届けなくちゃいけない」
「これでもラボの端くれ、技官員の末席を汚す身だ。……ケツくらいもつよ」
お前はそのあとどうするつもりなのかと尋ねたら、きょとんとした顔でヨハンは、
「どうもしないよ」
と言った。真っ黒な瞳に吸い込まれそうだった。内を見ると滑落しそうな闇が広がっている。彼は平均化するに値する精神ではなかった。統計で棄却されるべき人格だ。極端な善人でも、極端な悪人にも当てはまらないが、極端に人間的ではなかった。生身の人間であったにも関わらず。流動する毒のような男だった。
「ギリコのいるラボは、僕にとっては多少なり地獄から遠い場所だったよ」
おれがヨハン・スミスを見たのは、それが最後だった。
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