第3話 収穫前夜、夜明け

 おれたちはテーブルについて、灰皿を挟んで対面になっている。


 真っ白な机、真っ白な椅子。真っ白な壁、床、本棚。

 そして、手元の白いコマしかない、チェス盤。盤面も白地に罫線だけ引いたもので、どちらがどちらの駒なのか判別できない。序盤はそれでよかったのだがヨハンが攻め込みおれが守りに入り、後半で巻き返しを図った頃には頭がついているナイトの駒くらいしか所有権が分からなくなっていた。


 溶け込みそうなほどにヨハンは希薄で、その中でもぽっかりとあの縁の青く淵が黒い目がじっと駒に目を落としている。片手の指には煙草をくゆらせていた。


「チェック」


 クイーンをごとりと置いて、ヨハンが低く言った。

「……それ、おれのクイーンなんだけど」

「3手前から僕が動かしていたんだから、もっと早く言いなよ。そういう大事なことは」

「悪い。分かってやってるんだと思った」

「まあ、分かってやってたんだけどさ」


 不承不承、ヨハンは駒を3手前の位置まで戻した。むろん、そこから仕切りなおしても、ヨハンは3つのクイーンを盤上に置いているのだが。どれも、ポーンから成り替わったクイーンだ。3つも置くのはルール的にはありなのか、どうなのか。


「言わなくても僕が止めると思ってた?」

「まあな」

「甘いなぁ……、ちょっと、そのとったナイトは」

「おまえのだろ」

「ちっ」


 引っ掛からないか、とフィルターを唇へあてがう。口元全体を指で覆うようにしてヨハンは煙草を吸う。空いた左の白い指が、同じような乳白色の駒をつまむ。


「何で言わなかったの?」

「お遊びだからな」

「遊びぐらい真剣になれよ」

「真面目にやってる。真剣になれないだけで」

「一緒じゃないの、それ」

「違うさ。真面目にふざけるのがおれのやり口だからな」

「そのくせ随分不自由そうなんだな、ギリコは」

「おれのどこが」

 ふん、と笑うと咥えた先の煙が大きく揺らいだ。

「ふざけている内は真剣に考えなくていいという考えは、あんたの悪い癖だ」

「ヨハンにはそう見えるか?」

「生きることもお遊びで済ますつもりなんだろうな、あんたは」

「おおう。言ってくれるねぇ」

 ずけずけと言われることは嫌いではない。相手によるが。ヨハンのそれは痛快だった。

「……シエラには怒られたがね。『どうでもよしにやるな』と。『自分に課したタスクや仕事には真面目な癖に、こと自分そのものや他人の個人的な情緒面が関わるとなると真剣にならないのは人間的に迷惑だ』とかなんとか」

「はは。シエラらしい言い分だ。彼女は真面目も真剣もない交ぜで遊びがなさ過ぎていけない。が、それは置いておくとして、ギリコ。あててみせようか」


 く、とヨハンの目が細まる。おれ越しに何かを見ようとするように。

「あんたが真に興味を持つのは、人間という種に他ならない。特定対象ではなく、種としての人間だ。如何に思考し、如何に心と呼ばれる機能をもち、如何に他者と関わる中で意思というものを形成しているのか。あんたはそれを開いてみたいと思っているはずだ。人類は身体機能を数値に置き換えることで、開くことなく可視化してみせた。血液・拍動・脳のはたらき……その領域へ踏み入れることで、人間を理解できるのではないかと、あんたは思っていた」


 そんなことはない、とは。

 言えなかった。


「行動や嗜好である程度の思考パターンを読もうとすることで、あんたは人を理解しようとする。だが、足りないと思っている。真の安息は無であることだ。一切の個性を許さないことだ。誰もが他人のことを己のことのように理解できてさえいれば、隣人に憎悪することもない。在るのは、恒久的な安息だ。約束された平和だ。そう思っているから、あんたはこの研究に乗った」


 と。おれから奪ったルークの駒を、机を支点にして中指で傾け弄ぶ。


「まあ、こんなのことが真に分かるのは、これが夢だからなんだけれど」

「は?」

「夢だ。自覚したまえ、唐科技官。僕は、延髄サーバにいる。ギリコが今、背を預ける壁の向こうで、僕は死んでいる。あんたの失血と体温低下から来る意識低下がみせた、夢だ。サーバは落ちた。実環境のサーバを撃ち抜かれ、UPSが起動するどころか物理破損を受けてしまっては、混線した僕たちの意識はこちらへ帰って来ることはできない。だから、死んでるんだよ、ギリコ。僕の喋る言葉は、ギリコの言葉に過ぎない」


 夢の中で、自分はおまえの見ている夢だなどと言うやつがあるだろうか。明晰夢のようなものか? と思ったが、醒めて欲しい訳ではないのでおれは黙ってヨハンの言葉を待った。


「鏡だと思うとあんたの思考が上手く回らなくなるだろうから。僕はギリコの思う『ヨハン・P・スミス』ということにしておいていいよ。その方が話しやすいだろう」

「酷い自問自答があったもんだ」


 脱力して笑った。

 好きにしゃべってくれよ、おまえが語るのなら、なんだっていい。とおれは続ける。


 死ぬ前の夢にしては、なかなかサービスがいい。


「分かった上で、まだ続ける気でいるの」

 少しヨハンが目を見開く。

「だって、夢なんだろ。前もおまえに言った。仮想上の自分が救われても、自分そのものの現実は変わらねえ。目が覚めたら。おまえが死んでて、おれも死にかけてるんなら、もう少しぐらいいいだろ」

「現実主義は変わらないか」

「おまえの理想主義も」


 いったん、煙を深く吸い込む。


「僕がヨハンではないとしても、興味がないと、あんたなら言うだろうと思っていた」

「それは酷くねえか。10年ぶりに、口を利ける親友に会えた、ってのに」

 不意に本音が零れてしまう。

「いや……何でもねえや。忘れてくれ。夢、だもんな。ヨハンに会えたわけじゃない」


 なるほど。これは意外とくるものがある。ジェニファー・マッケンジーの一件を夢だからと侮ったのは、軽率だったかもしれない。まあ、そんな後悔も今更だが。


「あるいは、他人に無関心でいたことへの罰か?」

「あんたがそう思うのなら」


 ヨハンは新しい煙草に手をのばす。あの日と同じように、自分のライターを差し出すが、おれは受け取らなかった。自分のを持って来ている、と言ってズボンのポケットを探るが、ない。


「あれ……」

「持ってないだろうと思ってたんだけど」

「なんで……」

「さあ。僕は知らないけれど」

「……ということは、おれも、知っていない、ってことか」


 どこかで落としたのか? まあいい。ヨハンからライターを借りることにした。


 しばらくおれたちは無言でチェスの駒を動かし続けた。煙草が短くなるたびに、ヨハンは黙っておれにライターを差し出した。勝敗はどちらでもよかった。のらりくらりと、ヨハンの攻撃を躱し、駒を取ったり取られたりを繰り返した。勝ち負けよりも、夢が覚めるまでの時間が、少しでも長くなれば、それだけでよかった。


「……罰を受けなければならないと思うぐらい後悔していた?」


 唐突に、ヨハンが口を開く。盤の上の駒は、随分と少なくなっていた。急に、何のことなのか分からず、おれは盤から顔を上げると、そのタイミングを見計らったように、ヨハンが続けた。


「あんたが、他人に無関心でいたことに」


 ヨハンは視線を落したまま、駒を進める。


「他人を理解できれば、争いが起きなくなるというのはあまりに短絡的じゃないかとも、あんたは思ってた。理解できるから、陥れたくなる。痛みが分かるということは、それだけ分優しくなれるということとは違うんだよ。どう痛めつければどれくらい痛むのか。卵の割り方を知っているから黄身を取り出すことができる。中身を上手く取り出す方法も、ぐちゃぐちゃにすることも。何をどうすればどうなるか。あんたは知っているはずだ。知っていたから、均された地平を望んだ」

「……………」

「ハーモニクスとは異なるが不文律の共通理解ができる意識階層をもつことができれば、誰もが他人を自分のことのように思い遣ることができる。社会的な不和は消え去る。つまらないいさかいも、民族間の抗争も、宗教の対立も。そうなればよかった。けれど、そんな大きな話の前に、小さな個人間のつまらない諍いさえも、なくすことはできなかった」


 目を伏せて、ヨハンは静かに告げる。


「僕一人のつまらないこだわりで台無しにしてしまった、と、傍目に見れば誰もがそう思うだろうな。僕は健全な精神の持ち主じゃあない。それは、彼女ジェニーが一番分かっていたことだろうに」


 ヨハンは、骨のように白い指でチェス盤の上を示した。

 

 駒は全て消えていた。

 

 代わりに、延髄サーバの推薦状が載っている。基底人格として、恒久的に装置に生体反応が示す意識データを提供し得る精神力とその健全性を保証し、以下の人物を推薦いたします。


 推薦者には、ジェニファー・マッケンジー。調印。

 被験者欄には、ヨハン・ピエール・スミス。


「あんたも見覚えがあるはずだ」


 おれの、見たくなかったもの。ヨハンに最後にあった日に、おれが、食堂へ向かう前に目にしたもの。


「ジェニファー・マッケンジーが、……当てつけのように、おまえを死なせようとしたことを。おまえは受け入れることで何か解決しようとしていたのか」


 穏やかに首を横に振った後、ヨハンはおもむろに口を開く。

「推薦状は拒否権のあるものだった。僕は断ることだってできた。だけど、そうしなかった」


 あの日食堂に来る前、ギリコは僕が被験者に推薦されていたことを知っていた。

 ギリコの夢だからね。ギリコの知らないものは出てこないよ。

 だから、止められるのならその時だったんじゃないかって、思ってたんだね。……自分が止められなかったから、ヨハンは死んだのだと。こんな結末を、迎えてしまったのだと。


「推薦状を見たのは、研究室を出て廊下であいつにすれ違った時だ。……あいつ、おれに、おまえの名前を書いたそれを。見せて来たんだ。これが通らなければ、おれと、おまえを本部に告発すると。急なことで訳が分からなかったし告発が何のことなのかもわからない、本気にしようだなんて微塵も思わなかった。検証課が却下するだろうとも思っていた。仮に通ったとしても、おれは、おまえに、断って欲しかった。承諾するだなんて、思ってなかったんだ。ヨハン」


 言い訳がましい。みっともない。声が震えている。

 おれの弁解を、ヨハンは薄く笑んだまま聞いてくれていた。


「おまえが食堂で最後に言った言葉で、おまえが終わらせてしまうのだと。そこで、死ぬつもりなのだとわかってしまった。おれは他人に興味を持てない、けれど、大事な友達の一人くらいは守ってみせたかった」

 大それた願いだったのだろう。

 自分ばかり大事にしてきたおれにしては。

「時々、思い出すんだ。10年が経っても。あいつが憎いと。もうどうにもならないのに、おまえは、帰ってこないのに。誰かに興味を持たないことは、誰も恨まなくていいことだとおれは思っていた。」

「……あんたの前提条件から狂う話だが。ギリコ、あんたは自分が他人に興味を持てない人間だと本気で思っているのかい」

「ああ。そう思う」

「そう」

「……何か言いたそうだが」

「いや、あんたは興味のない人間の好きな食べ物を覚えておくタイプの人間なのかな、と」

「記憶力にはそれなりに自信がある」

「……そういう問題じゃないんだけど。まあ、いいや、あんたが主張することだから」

「へ?」


 いいよ、なんでもない、と。ヨハン。


「というか、前から思ってはいたんだが、僕以外にこの機関でまともな友達の一人や二人いなかったの」

「え」


 急に痛いところを突かれて間抜けな声をあげてしまった。遅れて、ぽろ、と煙草の灰が零れた。まだ熱を持っていたそれが、推薦状の上に落ちる。じりと紙を焦がすにおいがした。


「……分かっててそういうこと訊くのやめにしねえ?」

「あんたの苦しみは終わったのか、僕はそれが知りたい」

「おれの……」

「あんたの苦しみは終わったのか、ギリコ」


 そもそも、

「あんたの苦しみは、何なんだったんだ、ギリコ・E・唐科」


 ぞくりとした。裏返った内側が目の前に居るような心地がした。自分に問いかけられたように思う。いや、実際にはそうなのか。こいつはヨハンではない。あくまでおれから出てくる言葉に過ぎない、はずだ。底の抜けたような双眸が呑みこむようにこちらを見ていた。


「誰にも、理解されないことでもない。あんたは本心から、他人の理解を放棄している。理解されようともされなくとも、生きていける。半ばあきらめにも似た境地で。だから、理解してくれるだろうと、他人に期待することもなかったはずだ。だから、そこに苦痛を持つこともなかった」


 ヨハンは止めることなく続けた。どこ見るでもなかった、宵闇が、淵が、しっかりとおれを捉えている。


「例えば。正否はさて置き、ジェニファー・マッケンジーが僕に対して否定的なことを言ったとしよう。それに僕が『マウントをとろうとする発言だ』と返した場合、どう思う?」

「ヨハンの発言もまた同様の意味と捉える。一見、否定的な意見に対しておまえが正しいことを言ったように見えている。しかし、正否を考慮しないなら、おまえの発言には偏りがある可能性が高い。それが『マウントを取ろうとする』発言でないとは言い切れない。まあ、その、なんだ。好感をもてない意見だと言えばいいのに、優位に立とうとする行為を否定する行為そのものが、優位性を担保しようとしている、地獄絵図だな」

 延々と続くいたちごっこ。自分の後ろにいかに多くの類似意見を集めるか。結局は数の多さが物をいうことになりかねない。

「ただ一言、おまえの発言が気に喰わないといえば済んだことだ。快・不快の話じゃねえの」

 おれの言葉に、ヨハンは鷹揚に頷いた。

「人間の情動というものは、快・不快から分化していく。そして、実は心地よさよりもそうでない情動の方がより複雑に分化していく。恐怖・悲哀・憎悪・憤怒。人間の進化の過程で危機回避をするために必要だと脳機能が判断してそのような細かいモジュールへと分化していった。だが、大本は快・不快というごく単純な二元論に還る。そして、危機回避の観点からも不快なものは遠ざけるという行為そのものはごく本能的だ」

「誰だって不用意に否定されたくはないし、善い行いをしようとすることは、それが心地のいいことだと分かっているからだ。分かっていながら悪行に走るその時でさえ、快感で裏打ちされている。自分にとって気持ちのいいことであること、他者のために悪でありながらも美徳を貫くことができると己を信じること」

「そして、何らかの苦しみを抱えた状態は、『不快』の情動が限りなく継続しているということに他ならない」


 ヨハンは目を閉じだ。黒い黒い、瞳を。そして、再び開いたときに、おれを、しっかりと見据えた。


「あんたはどうするんだ。ギリコ・エスペラス・唐科」


 どうしたかったんだい、ギリコ。

 優しい声音だった。耳朶に残る声。それでいながら、回答の拒否を許さない、灼けつくようなトーンで、ヨハンは言う。


「あんたは無関心であることを自分に強いてきた。ジェニファー・マッケンジーは、推薦状を見せつけて来たとき、ギリコにこういったはずだ」


 やめてくれ。


「『おまえは何もしなかった』」


 ああ。きっと。ヨハンをそちらへ遣ってしまったおれを見れば。勝ち誇ったようにあの女は言うのだろう。

 善い人になんて、おれはなれない。それは分かっている。


「おれは、おまえに嘘を吐いた。大事にしてくれる人だけ大事にすればいい、なんて。……おれは、誰かを大事になんてできない。前提条件からして、間違っている。大事にされる資格なんて、あるわけがなかった。愛されたくなんてなかった。理解できるはずなんてなかった。中身の仕組みが分かるということは、壊し方を理解するということだから。ぶち壊したくなるようなおれじゃあ、無理だった」


 だから。

 黙ってお前を見送った。

 ヘムロックの言ったとおりに。おれもまた、消極的に、この社会が終わることを望んでいた。それをヨハンが成し遂げることに期待をしてしまった。


「棄民がいくら出ても。どこで誰が飢えて死のうと、爆殺されようと。自分の苦しみとは無縁だから。社会全体が緩やかに死んでいくことを望んだ。何もしなくても、どこかの誰かが社会にとどめを刺してくれるのを待っていた。……そんな自分を含め、人類なんて、滅びた方がいい。おまえだって、そう思っていたんじゃないか」


 ヨハンは何も言わなかった。

 これが理解ではなく決めつけなのではないかという不安が去来した。案の定、ヨハンはゆっくりと首を振って、否定する。 


「残念ながら、僕は結構この社会を愛していた。呪いはしても、災禍はあろうと、棄民が何人でようと。こんな社会だろうと。人類は滅びた方がいいと思っても。消極的だが平和を維持しようとしているこんな世界を愛していた。優しさだけでは誰も救えないから。そうでなければ、箱庭試験に許可など出さなかったとも」

「おまえを死なせようとした奴も、おまえをみすみす死なせるような奴もいた社会を、おまえがどうこうしようとする必要なんて、なかっただろう」

「……みっともないから言いたくはなかったが。できるだけ多くの人を、僕は助けたかった。滅びればいいと思う傍らで。ジェニファー・マッケンジーも、あんたも。同じくらい。僕は助けたかった。緩やかに旧体制にもどろうとしていた、本当は誰もが絶えてしまえばいいと思う世界で。できることなら……友達の1人や2人、守ってみせたかったのさ」


 おれは遂に混乱していた。


「理解がある前提で他人に期待するのは苦痛だと言っておいて、僕は、ギリコに見届けて欲しいなどと身勝手に期待してしまった。それが僕の矛盾だったんだよ。僕を『わかってくれている』だろうと期待を口にして、ギリコに託した時点で。……案外僕の苦しみは、とうの昔に終わっていたのではないかと思うんだ」

「けれど、これは。……おれのみる夢なんだろう、ヨハン。おれの作り上げた妄想だ」

「もちろんこれは、ギリコの夢だ。けれど、納得してくれ。ギリコ。……あんたの苦しみが、終わらなければ。僕の『信用している』なんて言葉で、ギリコの10年を奪ってしまった」


 違う。そうじゃあない。おれは声を出そうとしたが、上手くいかなかった。窒息してしまったように。陸上で鰓呼吸をするには、あまりに苦しい。苦しい。

 誰にも興味がないから。誰のことも本当は分からないから。……頼られる資格なんてない。おれは信じるに値しない。

 何もしなければどうなるか分かっていて、おまえを死なせた、おれなんかを。

 おまえの苦しみを、分かった気になって、死なせたおれを。

 分かった気になって、ちゃんと、死なせてやろうと、傲慢なことを思ったおれを。

 信じているなどと、言わないでくれ。


「別に、中身が分からなくても。信じることはできる。理解できずとも、僕には、あんたは善き人だった。あんたは、僕が社会を少しでも続けようと思うに足る理由だったんだ。命を懸けるに値する理由だった」


 そう言ったヨハンの顔に険はなく、ただただ穏やかで。

 現実ではないんだから。現実じゃあない。おれは自分に必死に言い聞かせたが、水を打ったような穏やかさをヨハンが崩すことはなかった。

 これが、現実だ。と。


「溶け落ちることのない善性は燃え残るんだよ、ギリコ。どうせ人類は遠からず、摩耗する。絶滅する。緩やかに死にゆく社会で、矛盾を抱えながら、それでも滅びの時まで生きていくしかない。多様性を理解しようとして、僕は一元化を図った。けれどそれはつまるところ、一面性のみを許容するということだ。人間の善性も悪性も平らにしてしまえば、文字通り、良くも悪くもなく、安定した社会が築けるか。そんなことはない。目を潰した理由は、何となく気に入らなかったから、それだけさ。ジェニーがシエラに殺してやるなどと言ったのは、シエラのことが気に入らなかったからだ。なんとなく他人を理解することで、僕たちは、なんとなく他人を嫌った。理解しなくていい部分を、腹の底をお互い見せつけ合って、見たくもないものを許容するしかなくなったら、どうしても他者を容認することのできない、不快さを抱え込んでしまった。まあ、だから、結論から言うと、実験は成功してはいたが成果としては失敗だ。狭い狭い、空間で。ちっぽけな領域で。これが、世界規模にまで燃え広がれば、どうなるかなんて、考えたくもなかったが。『』はそれを思いついてしまった。自分がその火種になることができるともね。それは、僕にも思いついたことだと


 見ていただろう? とヨハンは首を傾げる。


「燃え落ちるべき悪性を濃縮した空間が出来上がってしまった。つまりは、ね、ギリコ」

「ああ」

 その


「おれも、おまえも。燃え落ちるべきだ。見届けるさ。それが、おれに出来る最後の仕事だろう」


 だから。と、おれは言葉を継ぐ。


「毒のある麦は、灰になければならない」

「そういうこと。あんたは自分にできることをした。あんたが逃がそうとした、職員の生き残りも、生かそうとした人たちも。すべてを理解して、生きようとしている」


 ヨハンは優しく言った。見て来たかのようだったが、自分の夢なら、何ら不思議なことはない。


「けれど、野に火を放つということは、全て燃えてしまう可能性を持つということだ」


 おまえは、可能性に期待するのか?

 理解できない、賭けに。

 見えない善性に。

 それでいいのか、と問いかけた。


「信じているからね」


 人間という生き物を、僕は信じている。

 そうして、ヨハン・スミスは笑った。満ち足りた笑顔だった。

 だが、いくら頭で理解が及んでも、おれは酷く狼狽えていた。言葉にできない苦しさを、確かに抱えていた。すべてが自分の中身から出てきた言葉なのだとしたら、薄っぺらに思えてならなかった。けれど、ヨハンがそう語るのなら、もしかすると、本当にそうなのかもしれないと思えた。それでいいのだと。


 人の善性が燃え残ることを。ただ信じる。


 そのために。これから、自分がこれから、目が覚めて、どうなるのかも。どうすればいいのかも。

 けれど、決心がつかなかった。


「いきなよ、ギリコ」

 ぽつりとヨハンが促した。


 どこへ、と。かけたおれの声は情けないくらい震えている。

 ヨハンは、ふっと大きく塊で煙を吐き出し、それが薄まる頃合いになって、まだ長い煙草を灰皿に押し付けた。墓標のようだった。


 もうわかっているだろうに、と。色の薄い唇が動く。

 すぐに会えるか、とおれは尋ねた。

 答えが返ってくることはなく――――、白い視界がまばゆく、光に包まれていく。

 溶け落ちるように。

 燃えて、なくなるように。





 


 ……油の焼ける臭いが、まだ残っている。……自動消火装置が機能したのだろうが、通路からはまだ炎の残り香が零れている。……眠ってしまっていたらしい。ラボの中は非常灯の緑で足元だけがぼんやりと照らされている。スプリンクラーの水で全身びしょぬれで、身震いした。そうでなくとも、空調の止まった山間部のラボなど冷え込んで仕方がない。


 壁伝いに立ち上がる。ふらつく。頼りにした壁が、ぬるりと滑る。……自分の血だ。身体で遮られていたところだけ、べっとりと濡れている。足元は血と灰が混ざって汚いピンク色をした水が溜まっていた。自分と。それ以外の沢山の人の血。立ち上がりつつ、打ち遣られたAKを拾い上げた。やたらに重く感じる。湿っているが、まだ使えるだろうか?


「あー……マジきっつい」

 意識が残って動けるだけでもよくやってるぞ、おれ。えらい。


 誰にでもなく笑い、ポケットをまさぐるが、ライターがない。どうせ官給品だから価値のあるものでもないが、おれのシリアルが入っている。……どこで、落としたんだか。近くで倒れ込んでいる機関員の手に鈍く光る物があった。ライターが握られている。顔は……ちょっと、誰だか分かりそうもない。名札を見ようにも、視界が霞んで見えない。いいや。いいか。


「ちょっと借りてくわ」


 AKを小脇に挟んで、煙草を取り出す。身体の陰になっていたのか、煙草は乾いている。ラッキー。


 ……まだやることがある。

 行かないと。


 半開きのまま止まってしまった自動ドアから身体を通路に出す。煤けた臭い。消火剤の臭い。それに入り混じった、死の香り。とっくに非常ベルは止んで、向こうの区画では銃声が響いている。踵のすり減った革靴で、おれは自分の研究室へと歩き出した。足取りは、酷く重かった。


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