5.

 何やら朝から急展開である。まだ人の少ない教室で席につくと、水咲さんは写真を片手に小声で話し始めた。

「この子可愛いでしょ。あたしの弟なの。目元が似てるってよく言われるんだ。今、難しい病気で入院してて、もう3年は経ったかな。11歳で、でも入院が決まった頃には10歳まで生きられるかどうかって言われて。この頃容態悪くてさ、お医者さんが言うには小学校卒業できるかどうか危ういんだって」

視線の先に少年の笑顔を捉えながら、水咲さんは伏し目がちに話を続ける。

「弟、貴史っていうんだけど、入院前は小学校の吹奏楽でクラリネット吹いてたんだ。これは入院直前にあった演奏会の時の写真。大事な演奏会だからって毎日練習頑張ってた。たっくん、あ、貴史のことね、クラが大好きで、小学校卒業したら自分の楽器買ってもらう約束もしてた。こないだのアンサンブルの曲、演奏会でたっくんが吹いてたのと同じ曲なんだ。もちろん後輩が上手くなったのも嬉しいけど、セカンドの子がどうしてもたっくんと被って……朝から重たい話してごめんね、でも兄弟のこと、ほかの人にはあんまり言いたくなかったの」

 水咲さんは絞り出すように言いきると口を噤んだ。涙をこぼすまいと、歯軋りがするほど奥歯をかみしめていた。

「話してくれてありがとう。朝からその、ごめん。つらい話させちゃって」

「いいの。兄弟の話振ってくる人にいちいちこんな話できないし、これでまた、勉強頑張れる。たっくんみたいに苦しんでる子を助けたいって、再確認できた。たっくんの主治医さんにはやめとけって言われたけど、あたし、医者になってみせる。将来、凛の受診料は割り引いてあげるかもね、あははっ」

 タイミング良くチャイムが鳴り、水咲さんはセンター試験の過去問を、僕はノートを取りだして机に向かう。話の前より晴れやかな表情を見せてくれたことが救いだった。

 翌日から水咲さんは学校に来なくなった。定演が終わったら家と塾で受験勉強に専念すると水咲さんからも聞いていたし、難関大を受験する3年生は毎年この時期になると学校に来なくなるそうだ。会って話をする機会は減ったが、僕は水咲さんが教えてくれたアドレスでメールのやり取りを続けていた。水咲さん曰く「凛とは友達だからこれからもお話しよう」とのこと。

「楽器を介さずに話せる人、家族以外では凛が初めてなの」

 そう言って水咲さんはおもはゆそうに笑っていた。

早くも鳴き始めた蝉が、眩しい日差しに輝いている。高校生最後の夏は、案外なんの感慨もなく始まってしまった。

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