3.

「凛!来てくれたんだ、ありがとうっ」

 定期演奏会当日。早めに会場につくと、リハーサルを終えてスタンバイまでの暇をつぶしていた水咲さんとばったり会った。

「あたし今日ソロ吹くんだー、ちゃんと見えるとこで聴いてて」

「おおー!頑張ってね、前の方で聴いとく」

「約束だからねっ。あ、そろそろ袖行かなきゃ、じゃあまた!」

 一息に言いたいことを言いきると、水咲さんは楽屋へ走っていった。派手な靴音と、水咲走っちゃだめでしょー、と笑う部員の笑い声が遠くに聞こえた。

 僕は約束通り、ステージの後列が見える前方の席を探しに客席へ急ぐ。


 僕の音楽経験といえば昔ピアノを習っていた程度のもので、吹奏楽部の演奏は今までは運動会で遠巻きに聞いていただけだ。ホールで聴くのはこれが初めてだった。

 ステージ上の水咲さんは普段とは別人のような威厳を放っていた。彼女の奏でる音色はあまり前には出てこない中低音ながら、きちんと僕のところまでその存在感が伝わってくる。時に勇ましいトロンボーンはいつもの水咲さんのイメージとは程遠いが、ステージ上の姿を見ると納得してしまう。水咲さんの奏でる音色はかっこよくて、どこか優しくあたたかい。

 曲の途中で水咲さんが起立した。本番前に言っていたソロパートだ。賑やかだった合奏が、穏やかな空気に一瞬で変わる。伸びやかな音色が水咲さんの瞳の色と重なる。どことなく寂しそうな、ふとした時に見せる瞳だ。ほの暗い旋律のせいかもしれない。水咲さんが泣きそうな顔だからかもしれない。ひとつの楽器の音色にここまで釘付けになったのは、初めてだった。あっけに取られている間にソロが終わり、水咲さんは一礼して再び合奏の一員になる。驚くほどまとまったユニゾンで曲が終わると、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。


「水咲さんすごかったよ、すごい格好よかった」

 終演後、ホールのロビーで水咲さんを探して声をかけた。

「ありがとう。こんな大役、なかなかないから緊張しちゃった」

 少し涙目の水咲さんは、それでも健気に笑顔を崩さない。

「水咲ってばクラリネットアンサンブルでボロボロ泣いちゃってー、3部の水咲泣き顔で映ってそうだよね、DVD楽しみー」

「そ、そんなことないよー!可愛い後輩の成長が嬉しかっただけだもんっ」

「そういえばクラの2年で水咲のご近所さんいたねー」

 水咲さんのうしろからそんな会話が聞こえてきた。この演奏会が終われば3年生は引退だという。これから水咲さんは受験勉強に専念することになるのだろう。

 そろそろ勉強しなきゃ、なんて呑気なことを考えながら僕は自宅へと急いだ。

 水咲さんのトロンボーンがもう聴けないのは寂しい。僕を釘付けにしたあの音色を、もっと聞いておけばよかったなんて後悔さえしそうになった。

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