第5話

 アトリエは白の大理石を基調とした、まるで宮廷の一室のように広くすばらしい場所だった。そこには人のかたちをした立派な彫刻がいくつも無造作にならんでいて、でもどの彫刻にも顔が欠けていた。あるものはみごとな肉体美を輝かせながらも顔はのっぺらぼうになっていたり、あるものは首から上がなかったり、なかには目が口のところにあったりなどこの世のものとは思えない奇怪なものまであった。


「ぼくはね、ずっと神さまにお願いしているんだ。どうかきちんとした人を彫らせてくださいって。でもからだはきれいに彫れても、顔だけはいつもどうしてもうまく彫れないんだ。ちょうど、焦点があわなくてぼやけてしまう感じかな」


 わたしはそばにあった男性の彫刻の隆々とした胸筋を撫でながら、リズに自分でもよくわからない共感を覚えていた。


「ねえ、お願いがある。きみをモデルにして、きみの顔を彫らせてくれないかな。きみの顔を見ながらだったら、もしかしたらぼくにも、ひとの顔が彫れるかもしれない」


 わたしは唐突なお願いに戸惑い口をつぐんだ。するとリズは両手を合わせて、必死に頼み込んできた。


「ぼくはこれまで、神さまにどうか、ぼくを救ってくださいって、お祈りしていた。いつもささやいてくる悪魔をどうか追い払ってくださいってね。すると神さまはぼくにこういうんだよ。ひとの姿を彫りなさいって。でも、ぼく、ひとってよくわからないんだ。もちろん、ここに暮らしているのはひとだよ。ソフィーだって、ぼくだって、きみだってひとだよ。だけどね、あるときふと思ったんだ。”ひと”ってただのことばにすぎないんじゃないかって。ほんとうはもっと得体のしれないものなんじゃないかって。そう思ったとたん、急にわけがわからなくなって、それ以来ぼくは、今度は、ひととは何か教えてくださいって、必死にお祈りするようになった。そうしたら、きみがここに来て、教えてくれたんだ。きみは気づいていないだろうけれど、ぼくはきみを一目見た瞬間に、ひととはなにかを教わったんだ。だから、ぼくはきみにとても感謝しているんだ。本音を話すとね、できることなら、ぼくはすこしでもきみといっしょにいたいんだ。顔を彫らせてくれなんて、うそ。いっしょに時をすごすための口実さ。あ、でも、彫りたいのはほんとだよ。ああ、だめだ。きみをまえにすると、うまくしゃべれないや」


 リズはあたまを抱えこみ、低くうなりだした。


「だめだ、また悪魔が来るよ」


 わたしはとっさに、リズの手を取った。リズと見つめ合う。彼の顔は近くで見ると、右にすこし歪んでいた。


「わたしはまだ、モデルになるとも、ならないとも言ってないわ。どうしてそうやってすぐに、ひとりで頭を抱えこんでしまうの。悪魔が来たなら、わたしもそばでいっしょに苦しむわ。だからだいじょうぶよ。それにわたしも、あなたの気もちがなんとなくわかるの。もしかしたら、わたしたち、ここで会うよりもずっと昔に会ってるんじゃないかって、そんなことさえ思うわ。わたし、あなたのモデルになるから、元気を出して」


 リズはそれを聞いてふっと肩の荷が下りたようになった。それからわたしは、リズの用意したイスに座り、楽な表情をして、と言われたので、力を抜いた。そうしたら自然と笑みがこぼれた。笑ったのなんて何年ぶりだろう、と自分で自分におどろいて、そのままリズを見つめながらほほ笑んだ。


 リズと過ごすふたりきりの時間は、ことばを交わすことが少なくても、お互いのことを知るのに十分なものだった。困ったように前髪をかきあげる仕草や、真剣なまなざしをわたしに注ぐ表情を見て、わたしはリズがとても誠実であることを知った。そしてときどき見せるはにかみには、彼の人なつっこさがにじみでていた。そして気づけばわたしは、リズのとりこになっていた。


 夜、寝るときも、リズのことを想っては胸を痛めた。わたしにはだれにも打ち明けられない秘密がある。それを知ったらみんなこわくて逃げてしまう。だってわたし自身がこわいんだもの。それはわたしに刻みこまれた、決して消すことのできない愛の証。でも、リズとひとつになりたいと思ってからは、この刺青がまたズキズキと疼きはじめた。リズはこのわたしの背中を見てなんて思うだろう。リズもこわくて逃げてしまうんじゃないか。そう思うと、リズとひとつになりたくてもなれないもどかしさが胸のうちであばれるのだった。

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