第2話

 気がつくとわたしはあたたかいベッドに仰向けになっていた。ゆっくりと身を起こし辺りを見渡すと、そこは夜に沈み月明かりの照らす洋風の部屋だった。寝室にしては広く、ペルシャ絨毯が敷かれており、隅にはくすんだ化粧台がある。状況が理解できないまましばらくじっとしていると、扉を開けて誰かが入ってきた。


「あら、もう大丈夫かしら」


 それはさっきわたしを路地裏から連れ出した女性だった。その女性は鼻が高く瞳の青い上品な顔立ちだった。きっと外国の人なんだろうけれど日本語には何の癖もなかった。


「これをお飲みなさい」


 差し出されたティーカップには白湯が入っていた。ほんのりと甘くて体の芯からぽかぽかとしてきた。


「その白湯にはおまじないをかけたから、あなたはきっとすぐによくなるわ」


 わたしはそのやわらかい声を聞いて、何か重たいしこりがほぐれるような感覚がした。気づけば頬をひとすじの涙が伝っていた。女性はずっとわたしをやさしい瞳で見つめ、ほほ笑んだままだった。わたしは何かを吐き出したいような気になったけれど、それはぐっとこらえて飲み下した。


「あなたには帰るところがあるのかしら」


 わたしはうつむいていた顔を上げ、その女性をしばらく見つめたあと、首を横にふった。


「なら、しばらくここで休むといいわ。帰りたくなったら、帰ればいい」


 わたしはふと、この女性の正体が気になったけれど、今は聞かないでおくことにした。


 それからまたわたしは眠ったようで、気づけばまたその場に仰向けになっていた。身を起こそうとして気づいたのは、自分の体からすっかり疲れが取れていることだった。よっぽど長いあいだ眠っていたのだろう。


 試みにひとつしかない扉を開けると、広いエントランスの見下ろせる廊下に出た。どうやらここはかなり大きい洋館のようだ。わたしはあてもなくふらふらと、でもひとつひとつ確かめるように歩き、やがて庭へと通じるところに出た。


 庭にはアジサイが咲いていて、それらは月のうす明かりにかすんで幻想的だった。ゆっくりとガラス戸を開け、その広い庭に足を踏み入れ、くねくねとした小路をたどってゆくと、腰を落ち着かせるスペースが現れた。片側のガーデンチェアには白い肌で緑色の髪をした青年が向こうの池の水面を眺めているうしろ姿があった。うなじはきれいに刈り込まれていて、背筋はピンとしていた。


 わたしはおそるおそるもう一方のガーデンチェアに腰かけた。そのときに鳴ったチェアのかたむく音で青年がこちらを向いた。彼は今にも壊れそうな繊細な顔立ちだった。鼻筋や目が細く、口はそこから魂が抜けていくのではないかというくらい、だらしなくうっすらと開いたままだった。


「きみはだれ?」


 想像していたよりも高い声で、だけどやさしい表情で、青年が尋ねてきた。わたしはなんと答えていいかわからず戸惑った。


「きみもソフィーに連れてこられたのかい?」


 ソフィーという聞き慣れぬ名前に、きっと連れてきてくれたお姉さんのことを指しているのだろう、と察し、わたしは首を縦にふった。


「ソフィーはね、なんでも知ってるんだよ。ぼくたちのこれからのことも、なんでも。だからきみがソフィーに連れてこられたのは偶然じゃなく、必然なんだよ。きみはここにいるべき人だ。ただそれだけ」


 そういって青年はにっこりとした。青年の瞳は吸い込まれそうなほど澄んでいた。わたしはちょっと大きめのチェアに脚をぶらつかせながら、青年と一緒に目の前の池の水面を眺めた。水面は波ひとつ立てることなく、静寂に満たされていた。ときどき虫の声だけが響くだけの静かな夜だった。

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