第5話 琴葉理子と長距離ランナー
「仕事が終わらない……」
5月。暖かくなってきたが、それでも日が落ちると気温は下がる。
生徒会の仕事は終わらないのだが、下校時間になってしまったので、僕は生徒会室から退室した。
夕陽の沈む校庭に出て、ひんやりした風を吸い込む。
その隣に、すいっと理子さん――僕の彼女である――がやってきて、缶コーヒーを手渡してくれた。
「お疲れさまです」
「ありがとう、理子さんもお疲れさま」
僕たちがやっていた仕事は、春の文化祭の終了作業だ。屋台や喫茶店の売り上げを帳簿にまとめ、過剰な収支が出ていないかチェックする。
ご想像の通り言葉にすれば簡単だが、実行するのは難しい作業だ。文化祭終了からの一週間、僕らはこれにかかりっきりで放課後を過ごすことになる。
「あれ? あの人……」
「ん?」
理子さんが校庭の隅を見つめている。つられて僕もそちらを向けば、ウィンドブレーカーを羽織った男子生徒が目に入った。
陸上部だろうか。それにしては走るでも体操するでもなく、人もまばらな校庭をじっと見つめている。
「七郎さん、あの人は何をしているんでしょうか?」
「さあ? 部活の帰りで友達を待ってるとかじゃないかな?」
「ウィンドブレーカーを着たままで?」
理子さんが疑問を口にする。しかし、その先を考えるには、僕は疲れすぎていた。
「もういいから帰ろうよ。明日もあるんだからさ」
「はい、そうですね……」
それでも理子さんは、何度も校庭の方を振り返って見ていた。
* * *
次の日も、その次の日も、男子生徒の姿は校庭にあった。
着ている服は、ウィンドブレーカー、ジャージ、制服と日によって違った。それでも「彼は陸上部なのだろう」と分かるような、スラリと引き締まった体をしていた。
それとは関係なく、文化祭の終了作業はどんどん進んでゆき、ついに「あと一日で終わる」という段階まで到達した。
その日は朝から雨が降っていて、運動系の部活は体育館内での活動をしている様子だった。
校舎から出て、傘を広げる。なかば習慣となった校庭のチェックをするも、あの男子生徒の姿はなかった。
「……あの人、いませんね」
「そうだね。こんな雨だし、陸上部なら体育館にいるでしょ」
「そうですね。走っているところは一度も見たことがありませんが、きっとそうなんでしょう」
僕らが互いにうなずいて、早く帰ろうと校門の方へ足を向けた時だった。
「おい、アンタら」
「ひゃいっ?」
横合いから声をかけられて、飛び上がりそうになった。
雨の中、傘をさして僕らを待っていたのは、あの校庭に立っている男子生徒だった。
「ちょっといいか?」
「はい、構いません。ここでは何ですから、場所を変えましょう」
「理子さん!?」
いつでも理論派・恐れ知らずの理子さんは、男子生徒に真っ向から言葉を投げた。
* * *
「それで、どういったご用件でしょうか?」
「用があるのはアンタらの方だろ? 最近、いつも俺のことを見てたじゃないか」
「はい、見ていました」
理子さんは平然と答える。まるでこうなることが分かっていたかのようだ。
一方、相手はしげしげ理子さんの顔を見ている。
「アンタ、速水の妹さんか?」
「はい。正確には、いとこです」
「そうだよな、速水の家に行ったとき見たことあるもん。どうしたの、俺に何か用?」
そう言うと男子生徒はドリンクバーのカルピスを、ずずっとすすった。
ここは理子さんの家の近くにあるファミレスである。
平日の夕方、他の客はお年寄りや子供連れの母親ばかりだ。
「……理子さんが場所を変えるなんて言うからビックリしたじゃないか」
「すみません。兄さんのお友達が毎日校庭を見つめていたので、気になって様子を聞いてもらったんです」
「そしたら速水のやつ、直接アンタらと話せってさ。まあ、話すことはあんまりないけどな……」
そう前置きすると、男子生徒はぽつぽつと語り出した。
なんてことない話だった。陸上部で一緒に駅伝をする仲間と、休日にバーベキューをしに近くの山へ出かけたのだそうだ。
テンションが上がってきて、バーベキュー場近くの沢で水遊びをしていたら、一人が岩にむしたコケで足を取られ、転倒してしまった。
あわてて病院に連れて行ったが、足を骨折しており、その人は駅伝に出られなくなってしまったのだそうだ。
「代わりの選手はいないんですか?」
「いるけど、そういう問題じゃなくてな。アイツは陸上部のエースだった。その足を折った責任は誰が取るんだ、って犯人捜しが始まって……バーベキューを提案したのは誰だってところまで行っちまったんだよ」
「あなたが提案したんですか?」
「妹ちゃん、ズバズバ切り込んでくるなあ」
男子生徒は苦笑すると、そうだよ、とうなずいた。
「気にせずに走るべきです。あなたは何も悪くない」
「そういう問題ですらないんだよ。人のうわさや誤解や、そういったモノ全部が嫌になったんだ。そうしたら、あんなに陸上に打ち込んでいたのが嘘みたいに走りたくなくなったんだ。校庭を眺めていたのは、そういうワケ」
俺の話はおしまい、と男子生徒は二口めのカルピスをすすった。
たしかに簡単な話だ。しかし彼の気持ちを考えると、割と複雑な話だと思った。
彼は陸上が嫌になったのではない。嫌になったのは人間関係であり、それは良くある話である。こうした事がきっかけで仕事や趣味を辞めてしまう人も、少なからずいると思う。
いわば彼は、陸上部員の見せた醜悪なエゴに幻滅したのだ。
だから僕なんかには、かけられる言葉がない。それでも走れなんて、とても――
「それでも」
「えっ?」
理子さんは――理論派で、人の訴えを斬らずにいられないステキな彼女は――男子生徒を真っすぐに見て、こう告げた。
「それでも、あなたは走るべきです」
「どうして?」
「種目は駅伝なのでしょう? 駅伝であれば、繰り上げスタートは良くあることだと聞きます」
「繰り上げスタート? あの体力お化けの高橋が? あり得ない」
「あり得ます。その人は既にリタイアしているのです」
そんなことを言う理子さんは、まるで神託を告げる巫女のような神々しさで。
僕と男子生徒は、二人してポカンと彼女を見つめるしかできなかった。
「走ってください。でないと、あなたもタスキを渡せなくなります」
男子生徒は、黙ってカルピスのコップを見つめていたが、やがて残りを一息に飲み干した。
「心配してくれてありがとう、妹ちゃん。そっちの男子もな」
「私の名前は琴葉理子です。できれば、そちらで呼んで頂けると助かります」
「そっか、名前言ってなかったな。俺は三年の白木敬助だ。よろしく」
二人は名乗りをかわすと、揃って僕の方を見つめてくる。
「えっ? ああ、名前ですか。僕は七海七郎です」
「理子ちゃんの彼氏?」
「はい、そうです」
「ちょっとは照れろよ」
そういうと白木先輩は、二人とも正直でよろしい、と笑ってみせた。
校庭を見つめていた時とは別人のような、吹っ切れた笑いだった。
* * *
翌日の放課後、文化祭の終了作業は無事に完結した。
「これで、ゆっくり休めるね」
「いいえ。もうすぐ中間試験がやってきます。生徒会の作業は勉強時間を圧迫しますから、私たちは頑張って勉強しなければなりません」
「たはは……理子さんは厳しいね」
生徒会室を退室して、良く晴れた校庭を見渡す。
そこに校庭を見つめる人影はなく、走り込みをする陸上部の「いちに、いちに」という掛け声が、青い空へと吸い込まれていった。
了
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