2 eto...dewdalg.(あなたは……半アルグなのよ)
たとえば風魔術師は風を操るというから、帆船にとってはひどく便利だ。
水魔術は水の流れを操作できるので、帆などなくとも勝手に動く船もありうる。
magyurという動詞の意味を本当の意味でモルグズは実感していた。
魔術師に対する嫌悪や恐怖、憎悪、そしてその裏に潜む憧れを意味する言葉。
いまでこそ魔術師と一般の人々は、なんとかやっているが、いつもそうだったとは思えない。
たとえばイオマンテという国では、いまも魔術師が支配層だという。
逆に魔術師が、地球の魔女狩りのように迫害され、殺された時代もあったはずだ。
地球では、科学者が迫害されるということはまずない。
なぜなら科学技術の生み出す道具はものにもよるが「誰にでも使える」からだ。
魔術の道具にも同じことがいえるが、魔術師は個人の存在そのものが、ある意味では強力な兵器ともなりうる。
道具はあくまで使うものしだいだ。
しかし魔術師は「自らの意思で」魔術を行使する。
知識と魔術を司る神、ユリディン寺院の寺院が魔術師が暴れないように見張っている、とかつてヴァルサから聞かされた。
それはそうだろう。
魔術師が魔術で他者を巻き添えにするようなことをすれば、反魔術感情が人々のなかで高まり、最終的には一般人と魔術師が激突することになる。
やはり、以前もそうしたことがあったとしか考えられなかった。
だからこそ、ユリディン寺院は魔術師の暴走を恐れているのだ。
セルナーダでは人々と魔術師の関係は、非常に危うい均衡の上に成り立っている。
しかし、ある意味では自分の存在そのものがこのきわどい安定を破りかねない。
異世界、すなわち現代の地球を知っている人間を、ユリディン寺院の人々はどう考えるだろう。
しかもこの世界では忌み嫌われているらしい、死の女神の力で招き寄せられたのである。
アーガロスが道を踏み外した魔術師だったことは、まず間違いはない。
だとすれば、自分もすでにユリディン寺院に目をつけられているかもしれなかった。
一体どうすればいいのかわからない。
bamel nadum mav du+selma:suzo cu?(ところで夕ご飯はどうやって食べる?)
ヴァルサの質問の意味がわからなかった。
さきほど宿の主人も、この下で食事が出来ると言っていたのだ。
dubemote?(忘れたの?)
呆れたようにヴァルサが言った。
eto...dewdalg.(あなたは……半アルグなのよ)
すっかり忘れていた。
街にきて少し浮かれすぎたかもしれない。
口のまわりに巻いている布をほどかねば食事は出来ない。
しかし、食堂でそんなことをすれば正体が一発でばれる。
menxav.(すまん)
ongova cod sxupsefma reysile facas za du+selma:suzo colsa.(この旅籠の人たちにここに夕食を運ぶよう頼んでみるよ)
そう告げると、ヴァルサがすごい勢いで扉の外に飛び出していった。
疲れているはずなのに、と素直に感心する。
そういった面倒な交渉は、まだセルナーダ語を片言でしか話せないモルグズの手にあまると、ヴァルサは判断したのだろう。
まったく大した女の子だ。
いままでも苦労続きなのに、しっかりしている。
どこかの「異世界」でのんべんだらりと暮らしていた誰かさんとは、まるで違う。
何人もの女を殺し、かつて愛した年上の女の影を追い求めていた愚か者からすれば、ヴァルサの存在そのものがまばゆく思えるのだ。
ふいに、激しい疲れを覚えた。
寝台に座ったが、シーツの下は麦わらのようだ。
アーガロスの塔の寝台ではもっと上等な寝具が用いられていた。
綿か羽毛かは知らないが、少なくともあの魔術師は睡眠に関してはそれなりのこだわりを持っていたようだ。
アーガロスの悪霊は、果たして今、なにをしているのだろう。
もとの土地に「憑いた」ままということも考えられるが、それも確定したわけではない。
これから先、自分たちはどうすればいいのか。
そもそも、このあたりの地理がまったくわからない。
地図があればいいのだが、前近代的な社会では地図は貴重品である。
ヴァルサに説明してもらう、という手もあるが、と考えているうちに扉が開かれた。
にっこりと少女が笑う。
sxupsefma reysi facas rxe:wozo colle.(宿の人たちがここに料理を運ぶって)
それにしても、と思う。
セルナーダ語、yurfaというのは今更ながら、対人モダリティがきわめて貧弱な言語だと。
モダリティは、ひどく大雑把にいえばある物事に対して話者がどう思うか、主観的な意見を述べるものだ。
たとえば「彼はxxすべきだ」「彼はxxしてはならない」といったものは、このモダリティに含まれる。
さらにモダリティは二つに分けられる。
すべきだ、してはならない、といった「物事に対する表現」を対事モダリティという。
モダリティにはそれとは別に、話者と聞き手の関係を表す対人モダリティがある。
日本語の語尾によくある「だよ」「だよな」「だよね」といったものがそれだ。
日本語はこの対人モダリティが異様なほどに発達している。
おそらく日本の、他者との関係性を常に意識する社会の構造と無関係ではないだろう。
敬語表現というのも、いわば目上の人間に対する対人モダリティの塊のようなものだ。
しかしセルナーダ語はそうしたものが、少なくとも今のところはほとんどない。
そのかわりに対事モダリティは後置詞のようなものを使うことでいろいろとあるのだ。
まとめてしまうと、セルナーダ語は他者との関係性をあまり意識せず、ひたすら自分の主観的判断に頼る言語だと言い換えることもできる。
言語はその社会構造とは無縁でいられないので、このセルナーダの地は「みなが好き勝手なことを主観的に思いながら他者との関係をあまり遠慮しない」という傾向があるかもしれない。
たださすがに言語だけでそんな判断を下すのは、さすがに乱暴過ぎることは理解しているのだが。
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