8 tsozos(鍵)

 ヴァルサは、アーガロスを殺したいほど憎んでいる。

 そしてモルグズは、この状況を脱したい。

 となれば、やるべきことは一つしかなかったが、問題は相手が得体のしれぬ魔術師である、ということだ。

 地球での記憶はほとんどないが、まさか自分が魔術師と本気で戦うことになるとは思わなかった。

 一歩、間違えれば逆に殺される。

 あるいはもっと酷い運命が待ち受けているかもしれない。

 だが、さりげなくアーガロスがどんな魔術とやらを使うのか尋ねても、ヴァルサは言葉を曖昧にするばかりだ。

 ただ、彼女にはもう、こちらのアーガロスに対する殺意は伝わっているだろう。

 ヴァルサは、いざというときは味方になってくれるに違いない。

 すでにアーガロスの殺し方も考えている。

 我ながら奇妙なのは、殺人を目論んでいるのに精神的な抵抗がまったくない、ということだった。

 なにか、おかしくはないだろうか。

 アーガロスは、三人の生贄を捧げて死の女神とやらに異界の知識を求めたらしい。

 つまりは悪人だ。

 しかし、だからといって「殺してしまえ」という発想に普通の人間がいたるだろうか。

 それとも、すでに思考そのものがこの世界のものに近づいているのか。

 そのとき、扉がゆっくりと開けられた。

 真紅の長衣をまとったアーガロスが、ゆっくりとこちらに近づいてくる。

 

 cuchato ci tom sxuulzo cu?


 いまならこの言葉の意味もほぼはっきりとわかる。

 cuchatoは二人称に活用した「話す」もしくは「言う」だ。

 その後ろのciというのは、物事が可能なことを意味する。

 cuはたいてい文末につき、疑問形であることをしめすが単に語尾をあげることで省略されることもあった。

 つまり直訳すると「お前はお前の知識を話せるか?」ということになる。

 

 cuchav ci.


 「話せる」と、あえてアーガロスにむかって小声で囁いた。

 苛立ったように、魔術師がこちらに近づいてくる。

 そうだ。もっと、近くによれ。


 cuchaar nan ca:ritse.


 これは推測だが、たぶん「大きな声で話せ」とでも言っているのだろう。

 それでも囁き続けるモルグズに、さらにアーガロスは顔を近づけてきた。

 背筋に電流でも流されたような衝動とともに、体が勝手に動いた。

 あの大きな、牙のごとき犬歯で、思い切り老人の首筋に噛みついたのだ。


 gaaaaaaaaaaaaaa!


 鉄と塩辛い味が口の中に広がっていき、顔に湯を浴びたようになった。

 魔術師の首から大量の血が噴出している。

 生物としての構造上、心臓から脳に血液を送り出す必要があるので「この世界の人間」にも頸動脈があるという想像は間違っていなかった。

 とはいえ、これはなかば衝動的な行動でもある。

 血の味は、悪くなかった。

 まさか、自分は吸血鬼にでもなったのだろうか。

 

 dewdalg...ned...to..eto,..alg....alg......


 意味不明の言葉をつぶやいたアーガロスの体がびくびくっと幾度か痙攣し、やがて動きが止まった。

 アンモニアの匂いがさらに強まったのは、彼が死んで失禁したせいだろう。

 モルグズは笑った。

 魔術師といっても、意外とあっさり死ぬではないか。

 高らかなモルグズの哄笑が地下に響き渡るなか、ヴァルサが魔術師の死体の頭を、いきなり蹴り始めた。

 よほど感情的になっているらしく、聞き取りが不可能なほど素早く罵声らしいものを叫んでいた少女は、やがて肩で息をしはじめた。

 しだいに表情が恐怖に歪み始める。

 とんでもないことが起きた、と理性で理解しはじめたのだろう。

 あるいは、人が殺されるところを見たのは、初めてなのかもしれない。


 a...a......


 取り返しのつかないことをしてしまった、というような顔をした少女は、いきなり言った。


 savuur li!


 踵を返し、血まみれの長衣の長い裾をひきずるようにしながら扉を開けて外に出ていく。

 急に不安に襲われた。

 考えてみれば、彼女が自分を開放してくれるとは限らないのだ。

 あるいは、このまま逃げ出してしまうかもしれない。

 自分の迂闊さを呪った。

 そもそもアーガロスというのがこの世界でどのような立場にあるかも、まだわかっていないのに、半ば発作的に殺してしまった。

 ひょっとしたら、ヴァルサはもう戻ってはこないかもしれない。

 あるいはこの世界での官憲のようなものに、通報することもありうる。

 中世的世界に警察が存在することは考えにくいが、ここは異世界なのだ。

 まったく地球の常識が通じないことも考えられる。

 それからの時間がひどく長く感じられた。

 アーガロスの周囲に撒き散らされた鮮血が、しだいにどす黒く変色していく。

 だが、小さな、そして確かな足音のようなものが開け放たれたままの扉の向うから聞こえてきた。


 ers tsozos!


 少女は顔に返り血を浴びたまま、誇らしげに手にした小さな金属の棒のようなものを取り出した。

 たぶん、あれは鍵だ。

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