第肆號 一二月八日

「陸軍第三飛行集団より入電、敵哨戒機撃墜。パンジャマン島沖二〇浬です」

「先行する伊五六潜水艦より気象報告。『コタバル沖二〇浬、天候ハ曇リ、風速七、波高一、上陸ニ支障ナシ。二〇四〇』」


 光文一六年一二月七日深夜。

 南遣艦隊旗艦・重巡「鳥海」羅針艦橋。

 右舷窓際の椅子に腰かけた南遣艦隊司令長官・小澤智里中将は、ポケットから銀の懐中時計を取り出した。

 艦橋内は照明を消しているが、作戦日決定の理由の一つになった下弦の月に照らされるおかげで、文字盤を見るのに苦労は無かった。

 きっかり五分進ませているので、五分引けば現在時刻だ。

 日付は一二月八日に変わろうとしている。


「寺崎中佐。本国からは、その後何も?」

「……は。二日に受信したニイタカヤマノボレ一二〇八以降は、何も」


 作戦参謀・寺崎龍子中佐は、横に立つ通信参謀と視線を合わせてから、首を横に振った。

 何も、といっても、真珠湾のヴィンランド艦隊の在泊情報や、出動部隊を激励する電文は連日送られてきている。

 智里が訊ねているのが、外交交渉妥結による作戦中止命令の有無であることは、その場の全員が暗黙のうちにわかっていた。


「そうか」


 智里は、懐中時計を握りしめた。

 南遣艦隊赴任が決まった自分に山本五十子が持たせた、大切な恩賜の銀時計だった。

 時計の本当の持ち主は今、瀬戸内海・柱島泊地の戦艦「長門」で同じ月を見上げて、何を思っているだろうか。

 まだ開戦前であり、連合艦隊司令部から無線封止を言われていたが、智里は敢えてその原則に背き、陸海軍の航空部隊に無線で指示して、接近してきたブリトン軍PBYカタリナ飛行艇を撃墜させた。

 コタバル上陸の成否は、奇襲ができるかにかかっている。

 ここで触接されてブリトンに企図を悟られたら上陸は不可能と考えた、智里の決断だった。

 上空を護ってくれたのは、陸軍一式戦闘機七機。「エンジンの音轟々と隼は往く」と歌われる、加藤建夫中佐の第六四戦隊だった。

 シャム湾上空は濃霧と積乱雲が渦巻き、昼でも空中分解の恐れがある。フーコックから航続距離ぎりぎりの決死の夜間荒天飛行で、三機が未帰還となった。


 一二月四日に海南島・三亜港を出航した陸軍第二五軍輸送船団一八隻と海軍南遣艦隊二一隻は、カマウ岬を過ぎた七日朝からいったん北上してシャム・バンコクへの進駐目的と見せかけた後、七日正午シャム湾南方の海上で偽装航路をやめ分散。

 佗美支隊五五〇〇名を乗せた陸軍輸送船「淡路山丸」「綾戸山丸」「佐倉丸」の三隻は海軍第三水雷戦隊の護衛を受けてコタバルに直進した。

 徴用前はニューヨーク航路で活躍していた「淡路山丸」はじめ、いずれも優秀な高速貨物船だ。

 

 一二月七日午後一一時三〇分。

 駆逐艦、掃海艇二隻と駆潜艇一隻が、航路を掃海しながらコタバル沖泊地に進入。

 軽巡「川内」で上陸支援の指揮を執る第三水雷戦隊司令官の橋本信代少将は、コタバルの灯火を視認した。

 ブリトン領マレーの北の玄関、ケランタン州州都であるコタバル。

 月明かりがマレー半島の山々の稜線を静かに照らし、ツンバット港の灯台は通常通り規則正しく明滅している。

 駐屯するブリトン軍第八歩兵旅団が気付いている様子は無い。

 続いて、サバク河河口沖に輸送船三隻が横陣で投錨。第三水雷戦隊が周囲を円を描いて警戒する。


「泛水!」


 橋本は号令を発した。

 輸送船の檣頭に発光信号が灯り、大・小発動艇二〇隻が海面に降ろされ、輸送船の舷側に並んだ。

 東北からの強風と波浪に容赦なく揺さぶられ、舟艇は木の葉のように浮沈する。

 演習なら即中止になる波だった。


「第一次上陸部隊、舟艇への移乗を開始! 海軍陸戦隊は移乗を支援せよ!」


 駆逐艦「綾波」「磯波」から、武装した海軍乙女を乗せた内火艇が輸送船に近付く。

 上陸作戦に協力する、南遣艦隊に編制されフランク領インドシナの防衛にあたってきた第九根拠地隊及び第一一特別根拠地隊の陸戦隊だ。

 「川内」の艦橋から見守る橋本に、艦長の島崎大佐が囁く。


「今回の支援対象……第一八師団、佗美支隊。炭鉱出身の兵が多く、荒っぽくて喧嘩っ早い、暴行・掠奪の恐れがあるとの事前情報ですが……」

「そういったことは杞憂だろう。少なくとも、海の上ではな」


 答えた橋本の視線の先。

 潜水艦の報告よりずっと高い、三メートルを超す荒波の中。多くの男性将兵が海に転落していた。

 月明かりが照らす海面が、あちこちで派手に輝いている。その輝き一つ一つが、転落し溺れている兵士の立てる水飛沫だと気付いた陸戦隊の少女達は戦慄し、急行した。

 通常の輸送船から舟艇に将兵が乗り移るには、泛水後に母船の舷側に垂らされた縄ばしごを伝って舟艇に乗り込まなければならないのだが、重たい装備を背負った身体で縄梯子から手を離し、逆巻く波に浮沈する舟艇に乗り移ることは容易ではない。

 舟艇が波の上に上がりきって、沈もうとする瞬間に手を離すと、落下する身体と沈下する舟艇が合わさって怪我をしないのだが、浮かび上がる時だと捻挫の恐れがある。

 それ以前に最も恐ろしいのが、海に落ちることだ。

 「神州丸」や「あきつ丸」など、船内で兵士を上陸用舟艇に移乗させられる「陸軍特殊船」と呼ばれる揚陸艦も存在したが、数が少なく、最も危険なこの作戦に投入することを陸軍はよしとしなかった。

 兵士達は四日間、畳一枚の狭さに三人で寝て、酷暑の船内で飲み水を制限され、食事はバケツで配られる麦飯と沢庵と味噌汁だけ。そしてラ・メール症状により朦朧としている。


「くそ……こんなところで……」


 ラ・メール症状で失神寸前のまま海に落ち、泳ぐこともできず沈んでいく陸軍兵士の手が、しっかりと掴まれ、引き上げられた。

 陸戦隊の海軍乙女達だった。


「私達が責任をもって上陸させます!」

「『敷波』到着まで後二一分! 『浦波』到着まで一七分!」

「救出を急いで! コタバルのブリトン軍が気付いたら、こんな好機逃さないよ!」


 第一次上陸部隊の移乗は困難を極め、海水と兵士達が嘔吐する吐瀉物にまみれて、夜明けが近付いていく。

 陸戦隊の少女達は、油紙で梱包された陸軍の重機関銃や火砲をクレーンで舟艇内に吊り降ろす作業も代行した。

 日付が変わって一二月八日午前一時三五分。第一次上陸部隊一三〇〇名がようやく、二〇隻の舟艇に移乗を終えた。

 輸送船の舷側に、赤三つの灯火が掲げられる。


「発進!」


 発動機の唸りは、風と大波の砕ける音にかき消される。ある時は波に沈み、ある時は波頭に乗り上げながら、上陸用舟艇は白波を蹴立て前進する。

 やがて、舟艇の底がガッと音を立て、乗り上げる感触。

 真っ先に白い波の中に身を躍らせた海軍陸戦隊の少女は、靴の底で砂を踏みしめて快哉を上げる。


「浅いです! 皆さん、このまま陸へ!」


 海岸の椰子林には、トーチカと鉄条網からなる堅固な水際陣地が築かれていた。

 目指すブリトン空軍の飛行場は海岸から約二キロ。その間にはケランタン河の分流が天然の濠となっている。


 不意に、灯台の灯火が消えた。


 代わりに複数の小型ロケットが空に発射され、砂浜がまばゆく照らされる。

 敵の信号弾、照明弾だ。

 ブリトン軍のトーチカが、猛然と火を噴いた。

 先陣を切って上陸した少女達が、ばたばたと倒れる。


「コ部隊〇二一五第一回上陸開始、有力なる抵抗あり!」


 コタバル上陸より優先という取り決めだった真珠湾攻撃は、この時まだ始まっていない。

 攻撃隊を指揮する淵田未央は夜間発着・夜間攻撃に自信があり、当初は夜間発艦の予定だったが、一一月二三日になって参謀長の草鹿峰が、荒れた北方の海で重たい魚雷を抱えての発艦はただでさえ危険で夜間は無理と判断、黎明の発艦に時間を遅らせたためだった。

 真珠湾攻撃隊がフォード島ホイラー飛行場に爆弾を投下する一時間一〇分前。

 一二月八日午前二時一五分、コタバルでの戦闘が開始された。


 午前二時四五分に発進した第二次上陸部隊が第一次を上回る犠牲を出しながら上陸を果たした午前三時三〇分、コタバル飛行場からブリトン軍のハドソン双発爆撃機四機が飛来。急降下爆撃と機銃掃射を開始した。

 輸送船団の一次退避を申し出た海軍第三水雷戦隊に対し、陸軍佗美支隊は上陸完遂を主張。

 最後の第三次上陸が生き残った舟艇で逐次行われる中、「淡路山丸」に爆弾が命中、揚陸物資の燃料弾薬に引火し火災発生。「綾戸山丸」と「佐倉丸」にも爆弾が命中し死者多数。

 二度目の空襲でさらに爆弾三発を受けた「淡路山丸」は航行不能になり放棄。今次大戦において最初に戦没した商船となる。

 護衛の第三水雷戦隊も橋本の指揮のもと対空砲火で応戦し、敵一機を撃墜した。


 海岸でも死闘が続けられていた。

 鉄条網に鉄線鋏を持って近付いた海軍陸戦隊の工兵が地雷で吹き飛び、轟然たる爆音と砂煙が起こる。

 その屍を乗り越え、他の工兵が鉄条網を破ったところを、敵機が機銃掃射を浴びせる。

 地獄だった。

 容赦なく撃ってくるトーチカに対し、ある者は銃眼に手榴弾を投げ込み、ある者は自らの身体を躍らせて銃眼を塞いだ。その一瞬に、砂を掘って伏せていた陸軍将兵達が一斉に突進する。

 手榴弾が飛び、閃光と爆発音、鬨の声と悲鳴が交錯し、硝煙の中で銃剣が閃く。

 歩兵連隊長と砲兵大隊長は重傷を負い、支隊長の佗美少将も自ら軍刀をふるい突撃した。

 ラ・メール症状、強風と波浪、強固な陣地、鉄条網、地雷、コタバル飛行場から飛び立った敵機の空襲……佗美支隊と海軍陸戦隊は一〇〇〇名以上の死傷者を出しながら、八日午後一一時三〇分、コタバル飛行場の占領に成功。翌九日午前一一時、コタバル市街を占領した。

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