第参號 山本五十子
「大海令第一号。山本連合艦隊司令長官に命令。一つ、帝国は自存自衛のため、一二月上旬に美国、鰤国、及び陀国に対し開戦を予期し、諸般の作戦準備を完整するに決す。二つ、連合艦隊司令長官は、所要の作戦準備を実施すべし」
黒檀の腰壁と寄木張りの床、重厚なカーテン。巨大な地球儀。帝都霞が関海軍省、通称「赤レンガ」の一室は、薄暗く空気が淀んでいた。
「三つ、細項に関しては、軍令部総長をして指示せしむ。大海令第一号に基づく大海指第一号については別紙の通り。以上ですわ」
濃紺の第一種軍装にまばゆい金の参謀飾緒と勲章を飾った軍令部総長兼海軍大臣・嶋野大将は、奉勅命令を読み終えると、ルージュをひいた口に笑みを浮かべた。
整った顔はほのかに上気し、高揚を感じさせる。
「謹んで拝命します。連合艦隊司令長官は機密連合艦隊命令作第一号に基づき、作戦命令第二号として各艦隊に第一開戦配備を発令します」
連合艦隊司令長官・山本五十子は深く敬礼する。時に光文一六年一一月七日。儀式は終わった。
嶋野は安楽椅子に腰を下ろすと、五十子にも椅子を勧め、自分は黒タイツの脚を組む。
兵学校同期で同階級である五十子に、ここからは楽にして構わないというジェスチャーだった。
「武力発動は一二月八日の月曜日で決まりですわね。週の始めですし、敵も疲れてぐったりしているから奇襲をかけるにはもってこい。ふふっ、山本さんも人が悪いですわ」
「嶋野さん……葦原とハワイの間には日付変更線があってね。葦原時間の八日月曜日は、ハワイ時間だと七日の日曜日なんだよ。日曜日はヴィンランドの艦艇は休みで在泊していることが多いのと、攻撃隊の発艦をする夜中から日の出前まで月明かりが欲しいから月齢二〇日のこの日にしたいって、前に言ったと思うけど……」
「え? そっ、そうでしたわね! 勿論覚えてますわ!」
嶋野はお気に入りの扇子を開くや、顔の下半分を覆い隠す。うっかり上奏してしまった様子だ。ついで五十子を恨めしげに睨むと、
「山本さんは博打好きですわね。たとえ奇襲に成功しても、その日その時間の真珠湾にヴィンランド艦隊がいてくれるかなんて、本当に相手次第……普通こんなのは作戦目標になりませんわ」
嶋野の言うことも一理ある。ヴィンランド艦隊は日曜日に入港して休養をとるのが慣例だが、無論、絶対ではない。
ただし、葦原海軍はホノルルの総領事館に外務書記生というカバーで偽りの氏名を与えた諜報員を送り込み、真珠湾の停泊状況を日々詳細に報告させていた。
何も知らない現地の葦原移民を通じて業者に依頼し、新古品の絨毯の通販やホノルルの迷い犬情報を放送させることで。絨毯や迷い犬は、ヴィンランド軍の艦艇の符丁になっている。
ここまでしても、一二月八日にヴィンランド艦隊が真珠湾に必ずいるという保証にはならない。軍令部が作戦目標の定石としている拠点や資源と違って、艦隊は動く。それでも。
「わたしがポーカー好きだからって、この作戦が博打と言われると悲しいかな」
博打と言うなら、この戦争自体が国の存亡を賭けた、それもかなり分の悪い博打なのだが。
「あのね、嶋野さん。ヴィンランドが今建造中の艦艇は二〇〇隻、葦原は三〇隻。国力が桁違いなんだよ。それでも、どうしても戦うというなら、桶狭間とひよどり越と川中島を全部やるくらいでないといけないんだよ」
桶狭間は敵本陣への奇襲、ひよどり越は普通なら騎馬で下りられない急斜面の突破、川中島は失敗したが別働隊を用いた挟撃。
いずれも敵の意表を突くものだ。
「ヴィンランドは葦原を牽制するつもりで艦隊をサンディエゴからハワイに前進させたけど、逆にこっちも手が届くようになった。全航空兵力でもって敵の全てを叩いて、開戦一日目で勝敗を決める。真珠湾攻撃は、わたしの信念だよ」
認められなければ、連合艦隊司令長官を辞職するとまで言った。
五十子に中央に戻ってこられると困る嶋野が、そう言われると作戦を呑むしかないこともわかっていた。
「……まあ、山本さんがそこまでやりたいとおっしゃるなら」
嶋野は長く伸ばした爪に息を吹きかける。マニキュアの有機溶剤の残り香が、五十子の鼻孔を刺激した。
そのマニキュアの元が、ヴィンランドで大量生産される自動車のために発明された速乾性塗料だと、嶋野は知っているだろうか。
「わたしの個人的な意見は今も正反対だけどね。ヴィンランドとの戦争は避けて欲しい。理不尽なことばかりでみんな不満だとは思うけど、一つ臥薪嘗胆のつもりで」
ヴィンランドとの国力差を言うと、開戦派は決まって「ルーシ戦役では勝てた」と返してくる。
五十子に言わせればルーシ戦役は限定戦争だ。ルーシは革命で足元が揺らいでいた。葦原は覇権国家のブリトンと同盟を結んで援助を受けていた。最後はヴィンランドが仲介してくれて、ルーシと妥協して講和できた。
だが今回はどうか。ヴィンランドは万全で、葦原は孤立している。同盟国は遠過ぎて行き来すらままならないトメニア・ナパロニだ。仲介者もいない。
「ヴィンランドと戦争になって、妥協できずにどちらか滅びるまで戦う無限戦争になったら、葦原はワシントンまで攻め入ることはできないんだから、滅びるのは葦原の方だよ。そうしたらね、今いるわたしたちが死んだり傷付いたりするだけじゃ済まない。子や孫やその先の人達までずっと差別されて辛い思いをする。昔の人達が何代もかけて築いて守ってきたものも壊されて否定されて、二度と戻らないんだよ」
大勢の人が死んで、大勢の人が大切な家族や恋人や友達をなくす……それだけで十分に悲劇だが、戦争に負ければ、国の未来も過去も失う。
「……勿論、ここまで追い込まれたら、もう政治的に難しいのはわかるよ。後は、口の端に上せるのも畏れ多いけど、ご聖断に期待するしかないのかなって」
今の総理は陸軍の強硬派だが、聖上への忠義に厚い人でもある。
その聖上は九月六日の御前会議で、平和を望んだ先々代大帝の御製「よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」をお詠みになり、「余は常にこの御製を拝誦して故大帝の平和愛好の御精神を詔述せんと努めておるものである」と仰せになった。聖上が御前会議でご自分のお気持ちを仰せになるのは異例中の異例だ。「戦争を辞せざる決意の下概ね一〇月下旬を目途とし戦争準備を完整す」とした帝国国策遂行要領への反対であることは明白だった。その前日には陸海軍の両総長が宮中に呼ばれ、戦争準備が主で外交が従ではなく、外交を主とせよとの御諚まであったという。
結果、当初一〇月に開始されるはずだった戦争はここまで延期された。外交は聖慮だ。
「確かに聖上はこの前も、トメニアが勝てなければどうするのかとご心配なさっておられましたけど。トメニアのロンドン空襲でブリトンはだいぶ参っていますわ。海軍が反対してバスに乗り遅れたら、それこそ聖上に申し訳が立たないと思いませんこと? 総理にもそう言ったら、総理ったら嬉し過ぎたのか泣いていましたわ」
嶋野は地球儀を欧州アフリカに回す。
「それはどうかな。ロンドンの駐在武官だった子がこの前帰ってきたけど、空襲されてもデパートは営業しているし、トメニアにはブリトン本土に上陸する能力は無いと言っていたよ。ブリトンの輸送船団も護衛が強化されて、Uボートに沈められる数が減ってきているそうだよ」
「……いざとなればトメニアに頼らずとも勝てますわ。そうでしょう?」
矛盾している。トメニアを頼りにしないなら、そもそも三国同盟など結ばなければ良かったのにと五十子は思う。
「山本さん、こうしている間にも海軍は石油を一時間に四百トン消費しておりますの。平時でも年間三〇〇万トン。陸軍は年六〇万トン、民需は極度の戦時規制をかけても年二四〇万トンで年六〇〇万トン減りますわ。これ以外に連合艦隊が出撃すれば一回だけで五〇万トン。対して備蓄は海軍五五〇万トン、陸軍民間と合わせても八四〇万トン。国内生産は年間僅か三〇万トン。三年目には備蓄が底をついてマイナスですの。企画院は、今すぐジャワ・スマトラ島の油田を占領すれば年間七九四万トンが手に入って石油は回るという計算ですわ。敵の艦隊戦力も時間が経てば増強されてしまうことは、山本さんが先程おっしゃった通り。戦うなら、早く始めないと勝機を逃しますの」
「……」
企画院は内閣調査局と内閣資源局を統合した物資動員・国策立案機関だが、陸軍の強い影響下にある。南方資源地帯を手に入れれば、その資源がそのまま手に入るという見方は甘過ぎる。海上輸送路を潜水艦や航空機に襲われたら守り切れないというのに。
しかし、もはや何を言っても無駄だった。
かつて五十子が海軍次官として赤レンガにいた頃の海軍の主流だった開戦反対論を、嶋野は開戦を前提にした物資の要求にすり替え、反対するどころか戦うなら早くしろと陸軍と政府を急き立てているのだ。
「嶋野さん、お願いだけど。万一開戦になったら、最後通牒の手交は攻撃開始時刻の三〇分前に必ずやってくれるよう、外務省にもう一度よく言っておいてもらえるかな。騙し討ちになったら大問題だからね。そこだけは本当に気を付けて」
「わかりましたわ。山本さんは心配性ですわねえ」
五十子は最後に釘を刺し、嶋野は苦笑して請け合うと、執務机から養命酒のボトルを取り出して五十子に渡した。
「塩澤さんのところのですわ。本当はシャンパンかスコッチを差し上げたいところですけど。でも山本さんは甘い物がお好きですから、丁度良かったかしら?」
養命酒は、五十子や嶋野と兵学校で同期だった塩澤幸子の実家の商品だった。アルコールの入ったれっきとした酒であり、葦原は一九年前から未成年者の飲酒を法律で禁止していたが、養命酒は酒類でなく滋養強壮薬という建前で、未成年者でも飲んでいいことになっていた。
「わあ、ありがとう。わたし、お酒は苦手だけど養命酒は甘いから大好物なんだよ」
「ふふ……山本さんの壮途を祝して」
嶋野は上機嫌だった。
光文一六年一一月一三日。
山本五十子は、サイゴンにいる小澤智里の南遣艦隊を除く連合艦隊各艦隊の司令長官と主要幕僚を岩国航空隊基地に集め、開戦前最後の作戦会議を行った。
「第一航空艦隊は、千島列島択捉島の単冠湾に集結ののち、一一月下旬同湾を抜錨し北太平洋を東進し、ハワイ北方から急速南下。距離二〇〇浬まで接近して攻撃隊を発進させ、停泊中のヴィンランド太平洋艦隊を撃滅します。開戦概定期日は一二月八日ですよお」
連合艦隊戦務参謀・渡辺寿子中佐は、指示棒で太平洋地図の一点を叩いた。
何度も叩かれ、地図のそこだけ凹んでいる。
葦原から三六〇〇浬離れた、ハワイ諸島オアフ島。
「軍令部も同意したそうだし、この期に及んでボクはもう反対しないけど、冬の北方航路での洋上補給は危険過ぎるよ。キミは過去一〇年の北太平洋の一二月の天気の統計を見たかい? 荒天と晴天が二四対七だよ」
精悍な顔を曇らせそう発言したのは、攻撃を担う第一航空艦隊の参謀長、草鹿峰少将だった。
「……そこに敵の油断がある」
寿子の隣から、くぐもった声がした。
この作戦の立案者、連合艦隊先任参謀の黒島亀子大佐だ。
昼も夜も無く私室にこもって作戦を練っていて、こういう会議では説明を寿子に丸投げして寝ていることが多いが、珍しく本人が喋った。
「ヴィンランド軍はハワイ北方の哨戒飛行を取りやめている。上ががら空き、可哀想」
海軍乙女としてあるまじきことに亀子は寝間着姿で、頭もぼさぼさだが、上司である五十子が許しているので誰も注意する者はいなかった。それに寝ぼけていると全裸で艦内を徘徊することもあるので、これでもまだましな格好だ。
「商船も通らない。過去一〇年に太平洋横断した全ての船舶の航路を調べた。一一月から一二月に北緯四〇度以北を航行した船舶は皆無。奇襲するなら、この航路しかない。洋上補給は危険でもやって」
五十子から作戦を一任されている亀子が言い切ったので、この議論は終わりだった。
草鹿が部下の参謀達に「こうなったら艦内の通路や格納庫にドラム缶で燃料を積むしかない」と囁いているのが聞こえた。可燃物を規定の場所以外に置くのは危険な軍紀違反だが、寿子は敢えて聞かなかったことにした。
「次に、魚雷の深度の問題は? 航空機から投下された魚雷は、いったん五〇メートルから一〇〇メートルくらいまで沈む。水深一二メートルの真珠湾ではそのまま海底に突き刺さって前に進まない。かといって雷撃を諦めて爆撃だけだと敵主力艦の撃沈は難しい」
「それについては、航空本部魚雷主務部員の愛甲中佐からの報告をご覧下さいねえ。深度の浅い真珠湾でも使えるよう九一式航空魚雷に水平用ジャイロを増設して、尾部には魚のヒレみたいな雷道安定翼を取り付けている最中です。突貫作業でも長崎の工場では一〇本しか間に合わなかったそうで、残りの魚雷はとりあえず『加賀』に積んで、単冠湾に移動する艦内で改修作業をやって、着いてから他の空母に配るとのことですけどお」
改修済の魚雷を使い、真珠湾と同じ水深一二メートルで地形のよく似た鹿児島湾で、艦攻の高度を五メートルまで下げて実験したところ、三本中二本が成功したそうだ。
「三分の二か。うーん……」
「ええやないですか、参謀長」
関西弁でそう言ったのは淵田未央中佐だ。第三航空戦隊の参謀から、元々やっていた「赤城」の飛行隊長に復帰した。
「降格」の真相は、今回の真珠湾攻撃で六空母全攻撃隊の空中指揮に最も適任なのが彼女だからで、搭乗員達からは「総隊長」と呼ばれている。
「源義経は一ノ谷の戦で、ひよどり越に馬二頭追い落として、うち一頭が無事麓に駆け下りるのを見て、二分の一の成功で者共続けと逆落としで平家の陣に攻め込んだやないですか。うちらは三分の二成功したんやから、やれます」
頼もしい言葉だった。彼女達は八月から鹿児島湾を真珠湾に見立てた実戦さながらの激しい訓練を繰り返している。連日超低空で舐めるように飛ぶものだから、鹿児島市民は騒音で怒る者、自分達に会いに飛んできていると勘違いして喜ぶ者と様々だ。
淵田未央はかつて連合艦隊の旗艦「長門」を標的にした夜間攻撃訓練で、回避する「長門」に訓練用魚雷を全て命中させ五十子の目に留まった。当時の一航戦司令官は小澤智里で、二人がタッグを組んだ改革で今の航空艦隊が編制され、それまで各艦隊ばらばらだった空母と艦上機の集中運用、空中指揮統一が実現したのだ。
「奇襲成功の場合は最初に艦艇を攻撃、気付かれて強襲になった場合は最初に飛行場・対空砲台を制圧です。市街地・民間人に対する攻撃は厳禁なので注意して下さいねえ」
寿子は作戦の細部を一つ一つ確認していく。
「本作戦の実施を確定させる暗号電報は、ニイタカヤマノボレです。万一敵に暗号を解読されても意味がわからなくするための隠語ですよお」
暗号とはニ、イ、タ、カ、ヤ、マ、ノ、ボ、レとモールスを打つのではなく、それ自体を五桁の乱数と暗号書に収録された一〇万語の語彙を組み合わせた暗号文で打電する。いわば二重の暗号だ。
「今停泊している佐伯湾を出たら、作戦開始まで無線封止を徹底して下さいねえ。こちらからの指示連絡を受信するだけで、返信はしないよう。無線機は使えないようにしておくことをお勧めします。暗号解読されなくても、電波を発するだけで無線機の癖により艦名が、無線方位測定によって所在地点が敵にわかってしまいますからねえ」
無線封止だけではない。単冠湾への集結も、艦隊で移動せず単艦で行い、企図を悟られないよう注意を払う。
攻撃隊の搭乗員達は別だが、艦艇の副長以下の乗組員には単冠湾から先の目的地は知らせず、防寒服と防暑服とを一緒に渡すので彼女達はどこへ行くのかわからない。択捉島の漁村では、外部との交通・通信を遮断した。
ヴィンランドやブリトンが無線傍受に限らず人間を使った諜報活動をしていても気付かれないように。機密保持の徹底は、奇襲成功への熱意の表れだった。
「ただし。目下ワシントンで行われているヴィンランドとの外交交渉が妥結した場合、作戦期日の前日午前一時までに、出動全部隊の引き揚げを命じます。その命令を受領した時は、たとえ攻撃隊の母艦発進後であっても直ちにこれを収容、反転帰投して下さい」
午前九時から始まり午後三時までかかった長時間の会議の最後。説明を締めくくる寿子の言葉に、後ろに控えている第一航空艦隊の参謀達がざわついた。
「えっ、途中でやめるのは無理では」「部下達の士気に関わるし、発進させた攻撃隊を呼び戻すなんて現実問題……」
不満の声は、第一航空艦隊司令長官として前列に座っている少女に対しての、半ば突き上げだった。
「うっ……うええーん! そんな、無理ですぅ!」
第一航空艦隊司令長官・南雲汐里中将は号泣した。
水雷戦が得意で航空戦は素人なのに、年功序列の海軍人事でやらされた、本人も嫌々のポストだった。
同じ水雷畑出身でも小澤智里などは素早く順応できて今や航空主兵論者だが、南雲は飛行機が苦手なまま、特に真珠湾攻撃の実施が決まってからは精神的に参ってしまっていて「えらいことを引き受けてしまった」「断れば良かった」と周囲に弱音を漏らしてばかりと聞く。
「ボクも無理だと思う! 汐里さんの出かかった涙を途中で止められないのと同じさ! ああ泣かないで汐里さん!」
南雲の唯一の心の支えといって良い参謀長の草鹿が慌ててフォローするが、草鹿の言葉通り、一度泣き出した南雲は簡単には泣き止まない。
「うう、ぐすっ……そもそも上手くいく自信が全然無いんですぅ。夜も眠れなくて、しょっちゅう峰ちゃんを起こして迷惑かけてて……これ以上不安なことが増えたらと思うと……魚雷発射管に入りたいですぅ! うえええーん!」
「よくも汐里さんを泣かせたな! キミ達GF司令部の言うことはいつも無茶苦茶なんだよ! というわけで一度出動したらもう中止はできない、終わり! 閉廷! 皆、武運長久を!」
草鹿が軍服の上に羽織ったマントを翻して席を立とうとした、その時だった。
「もしこの命令を受けて帰ってこられないと思う指揮官がいるなら、ただいまから出動を禁止します。即刻辞表を出して!」
始まってからずっと沈黙していた五十子の一喝が、会議室に響き渡った。
皆、静まり返った。南雲すら泣き止んだ。
かつてない激しい口調だった。大きな瞳は、今は全員を射貫くようだ。そばで仕えている寿子も、五十子が声を荒げるのを今まで聞いたことがなかった。
まなじりを決してから、数秒後。五十子は我に返ったように微笑んだ。
再び口を開いた時、その声はいつも通り優しく柔らかで、しかし決然としていた。
「ここまできたら、この戦争の回避が難しいのは、わたしもわかってる。全滅覚悟の厳しい戦いになる。みんな、わたしに命を預けて欲しい」
幕僚達が一斉に背筋を伸ばす、衣擦れの音。
五十子はその一人一人と目を合わせながら、
「この時のために、みんなが辛い練習を重ねてきたのも知ってる。こんなに頑張ったんだもの、それがたとえ人の命を奪う戦争でも、舞台に立ちたいよ。わたしだってそう。勝って故郷の人達に喜んで欲しい気持ちが、心のどこかにある……でもね」
五十子の故郷は越後の長岡だ。維新の際、旧幕府側について戦いに負け、長岡は官軍に焼かれ五十子のご先祖も戦死したり処刑されたりしたと、前に聞かされたことがあった。
葦原にはその後も、旧幕府側についた地域への差別が最近まで残っていた。だから五十子が聖上に親補されて長官になった時は「朝敵といわれた越後から連合艦隊司令長官が出た」「いそさんは越後人士の誇りだ」と故郷の人々から大層喜ばれたし、五十子もそんな故郷の人達を大切にしてきたのを知っている。
その一方で、負ける戦は絶対にしてはならないという五十子の強い思いは、故郷の歴史が少なからず影響しているのだろう。
「わたしたち海軍乙女が今日まで育てられ、続いてきたのは、ただこの国の平和を守るためだよ。みんな、そのことをどうか忘れないで。これはわたしの命令であり、願いだよ」
五十子が話し終えた。
切々とした言葉が、皆の心に残った。
「山本長官、すまなかった」
草鹿峰が立ち上がり、五十子に深々と頭を下げた。
「言うまでも無く、ボク達は皆、山本長官を尊敬している。真珠湾攻撃も最初反対だったけど、いったん引き受けたからには全力を尽くす覚悟だ。ボクが最初反対したのは、失敗する可能性が高いと心配したからで、この戦争自体については……ボクの口からは何も言えない。でも……トメニアなら総統、ヴィンランドなら大統領のせいにできるけど、ボク達は誰が決めたかもはっきりわからないまま、気が付いたらここまで来ていた。ボクは鈍感だし、司令長官と参謀長という立場の違い、責任の違いもあるんだと思うけど、山本長官や汐里さんの悩み苦しみを分かち合うことができていなくて辛い。でも山本長官の命令はしかと承った。命令があれば、作戦の途中でも中止する。外交交渉が成功することを、ボクも汐里さんも最後まで願っているよ」
草鹿が珍しく少し良いことを言っている間。
連合艦隊参謀長の宇垣束少将は、メモをとるふりをしながらプライベートな書き物をしていた。
作戦説明のため起立していた寿子からは丸見えだった。いつも仕事中に書いている、「藻女録」とかいう私小説風の日記だろう。今日も会議中一言も発言は無かったし、聞いているかも怪しい。
亀子が練って寿子が事務全般を固めて回っている作戦に今更下手に口を出されても厄介なので、内職をとやかく言う気は無いが、連合艦隊司令部に後からやってきて、周りに挨拶もろくにしないこの参謀長のことが寿子はあまり好きになれなかった。
かつて中央で志を同じくしていたはずの五十子を裏切り、開戦を決定的にした三国同盟の賛成に回って、そのことで嶋野に気に入られ、ここでは五十子の監視役としているだけで、参謀長らしい仕事は何もしていない。
ふと、書いている文章が目に入る。
――もう引き返せない。
――みんな死ぬ。あたしも死ぬ。
寿子ははっとして、書き手の顔を凝視する。「鉄仮面」の綽名がある宇垣束は、その時も無表情のままだった。
「おめでとう!」「この後慰労会どうする?」「岩国の『深川』か~」「微妙」
会議後は勝栗とスルメが配られ、一同ラムネで祝杯をあげて記念撮影をした後に解散となり、基地近くの料亭で開かれる慰労会に向かうため三々五々退出して行った。
五十子はなかなか立ち上がろうとしない。
座ったまま、帝都から持ち帰った養命酒をちびちびと舐めている。
「Why don't they know 13th is bloody bad luck day? ……何がめでたいものですか」
ブリトン語混じりの変わった喋り方でそう毒づきながら五十子に歩み寄ってきたのは、おさげの髪に眼鏡の海軍乙女だった。
井上成実中将。米内光姫が海相で五十子が海軍次官だった時の海軍省軍務局長で、三国同盟・開戦に最も強硬に反対してきた五十子の盟友だ。
航空主兵論者の筆頭格でもあり、かつて五十子も歴任した航空本部長に就くと基地航空兵力の重要性を説いた「新軍備計画論」を提出したが、辛辣な戦艦無用論、さらにヴィンランドと交戦した場合の戦争形態の考察として「ヴィンランドは葦原軍を殲滅し葦原全土を占領可能」と過激過ぎることを書き、不利な譲歩をしてでもヴィンランドとの交渉を妥結させるべきだと説いて回ったせいで煙たがられ、海軍中央が開戦の方針を決める前に本国から遠い南洋トラックの第四艦隊に飛ばされた。
艦隊といっても少数の艦艇しか与えられておらず広大な南洋に対し明らかに戦力不足、開戦後に予定されるウェーク島攻略を担うことになっているが、独力で成功できるとは期待されていない。
任地が遠いせいで本国の会議や図上演習にも顔を出せず、今日が、彼女が第四艦隊司令長官になって初めて出席できた連合艦隊の集まりだった。
「五十子、大変なことになったわね。工業力が桁違いの相手に。What a whore! なのに、あの嶋野ときたら。帝都に寄った時すれ違ったけどニコニコしていて、ちっとも困った顔じゃなかったわ」
「嶋野さんはね……」
五十子は何か言いかけて、首を横に振った。
「今更誰が良い悪いと言っても始まらないよ、成実ちゃん」
「五十子……」
「みつ先輩が言ってた。自分達はナイアガラ滝の手前で流れに逆らって舟を漕いでいたようなものだって。これが天命なのかな。定めなのかな……」
久しぶりに会えた盟友に向けられた、五十子の声は悲痛だった。皆の前では気を張っていたのだ。
成実は立ち尽くし、眼鏡の奥の瞳を揺らめかせ、五十子に何か言おうとして、しかし言葉が出なかった。
代わりに五十子のトレードマーク、赤いリボンの髪飾りに手を伸ばし、リボンをぎゅっと締めて結び目を整えた。
恐らくは昔いつもそうしていた、自然な動作。
ただ、その手は微かに震えていた。
帰りの飛行艇の時間があり、慰労会にも参加せず井上成実は去った。
「しゅぴー……しゅぴー……」
広い会議室は、五十子と寿子、突っ伏して寝ている亀子のいつもの三人だけになった。
「ヤスちゃん、将棋さそっか」
五十子が、「長門」から持ってきた将棋盤を置き、駒を出して並べ始める。
「ほら、ヤスちゃんも」
寿子は、料亭での慰労会に遅れますよと言いかけて、五十子の笑顔を見てやめた。向かいに座って、一緒に駒を並べて先手を貰う。
五十子と寿子の将棋は、いつもは五十子が四回くらい立て続けに勝って寿子が音を上げて終わるのだが、ごくまれに寿子が善戦することもあり、この日がそうだった。
大抵は低気圧が近付いているとか天気が不安定な時で、そういう理由で体調を崩し易い人はラ・メール症状を早く発症すると聞いたことがあって寿子は密かに心配していたが、今は外は晴れている。
「長官、ブリトンがシンガポールに『プリンセス・オブ・ウェールズ』と『レパルス』を配属させるそうですけど、こちらも戦艦を増やさなくて大丈夫でしょうかあ? 第二艦隊の近藤長官から、第一艦隊か山本長官直率の戦艦を借りたいと内々に打診が来てるんですよお」
「相手が戦艦と張ってきた手に、こっちも戦艦と張るというのはね、持ち駒が互角の人がする将棋だよ。葦原は、歩で王を取る将棋を考えなくちゃいけないからね」
「となると、陸攻の航空攻撃でしょうかあ」
「そうだね。ただ、流石に航空攻撃だけで『プリンセス・オブ・ウェールズ』の撃沈は難しいかな。大破かな。とどめは智里ちゃんの艦隊が夜戦で」
「あれえ、航空主兵論の長官らしくないですねえ。増派する鹿屋航空隊は新型の一式陸攻ですし、私は陸攻だけで撃沈できると思いますよお」
「えへへ、じゃあ賭けようか。わたしが負けたらラムネ一〇ダース、ヤスちゃんが負けたら一ダースでどう?」
「良いですよお」
将棋を指しながら会話しているうちに五十子が次第に元気そうになってきて、ほっとした寿子は、時計を見て慌てた。
「長官、そろそろお時間が……」
流石にメインの五十子が慰労会に行かないのはまずい。
「むっ、まだ勝負はついていないよ!」
「そんなこと言ったって、これもうお互い詰まないですよお。私の方が駒が多いですからあ、こういう時は将棋大成会の規約では駒が多い方の勝ちなんですよお」
「それはおかしい! 大成会ルールでやるって約束した覚えはないよ!」
「そうですけどお」
勝負事になると、五十子は本当に厳しい。
「勝負はどうしてもつける。敵国の戦意を喪失させて初めて、戦争は終わるからね。駒をどれだけ取ったかという局地的な勝ち負けじゃないよ」
遊びの言い合いの何気ない言葉に、寿子はしかし、五十子の脳裏からこの戦争のことが片時も離れていないことを感じ取った。
結局、慰労会に遅れてもらっては困る寿子の側が参りましたと言い、早期講和した二人だった。
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