第弐號 小澤智里

 光文一六年一〇月二二日。


「参謀殿、間もなく一〇〇式司偵の行動半径の限界です!」

「挫けるな池田大尉! 人間の精神力は無限であるぞ!」

「人間の精神力が無限かどうかは知りませんが、飛行機の燃料は有限です。サイゴンに帰れなくなりますよ!」


 発達した積乱雲の合間をぬって、双発の偵察機が一機、マレー半島東岸を南下していた。

 胴体は一目で高速とわかるスマートな流線形。そこに描かれているはずの国章は、暗緑色の塗装で塗り潰されている。


「しかし、この緊迫した情勢下で領空侵犯の偵察なんて、よく参謀本部の許可が下りましたね」

「机上だけでは作戦は立てられん。この辻政信の一点の私心も無い独断である!」

「あー、またですか……」


 操縦席の大尉は風防の隙間から吹き込む寒風に凍る息を吐き、眉毛にできた氷柱を拭った。

 東岸はまだ晴れているが、たった数十キロの西岸では濃い黒雲が激しい雷雨を降らせている。

 気象の目まぐるしい変化はマレーの特色だ。今はこの天候のおかげでブリトンの防空戦闘隊が休んでいることを祈るしかない。


「見えました、コタバルです!」


 シンゴラ・バタニ海岸の南方。シャム王国とブリトン領マレー国境の山の向こう、ケランタン河口が幾条かの支流に分かれて海に注ぎ、陽光を浴びて銀線のように輝いている。

 その先に、二つの巨大な飛行場が見えた。


「降下せよ!」

「危険ですよ!」

「覚悟の上である、行け大尉!」


 仕方なく高度を下げると、凍てつく寒さが次第に和らぎ、最後には汗が出る暑さに代わる。ここが祖国・帝政葦原中津国を遠く離れた南方であることを思い出す。

 鮮明になったブリトンの空軍基地は、設備が整い、滑走路も見事に舗装されていた。大型機がいくつも並んでいるのが見える。


「……なんという大飛行場だ」


 後席の参謀が唸った。


「このコタバルは、シンゴラの脇腹に突き付けられた匕首だ。コタバル飛行場を残したままシンゴラに上陸すれば、我が軍は空襲で覆滅する。どんな犠牲を払ってでも開戦と同時に奪取しなくては」

「参謀殿、そろそろ本当に燃料が!」

「よし、しかとこの目に焼きつけた。偵察終わり、反転せよ!」







 光文一六年一一月一五日。フランク領インドシナ、サイゴン商工会議所。

 葦原陸海軍E作戦協同会議、予備折衝。


「このように、シンガポール要塞は海正面においては絶対堅固に防御されブリトンはこれを『東洋のジブラルタル』などと称しておりますが、背面、マレー半島側の防御はほとんど無きに等しいものであります。また島であるシンガポールには水問題という致命的な弱点があり、半島南端のジョホールバルまで侵攻して水の供給を止めてしまえば陥落させたも同然であります」


 面倒臭そうな男だというのは、一目でわかった。

 会議机の一方に並んだ陸軍幕僚のうち、見知った顔は皆サイゴン暮らしが長い。群れると男臭いのは仕方ないにせよ、彼等はフランク人の社交界でそれなりに垢ぬけて髪を伸ばし、この常夏の植民地に合わせて開襟のゆったりした身なりをしている。

 だが今、黒板に貼られた公刊地図に向かって立つロイド眼鏡の男は頭を完全な坊主に剃り上げ、本国と変わらぬ暑苦しい詰襟服だ。

 辻政信中佐、帝政葦原陸軍・第二五軍作戦主任参謀。

 E作戦――陸軍マレー攻略の作戦教令は、この男によって起案された。

 あのノモンハン事件で中央の不拡大方針を無視して暴走、その後も独断専行を繰り返し台北の研究部に左遷されたはずの危険人物が、何故こうも早く表舞台に。


「……マレー半島はシャム南部からシンガポールまで一千キロ以上あって、途中には数百もの河川が流れていますが」


 机を挟んで陸軍と相対する海軍乙女達の一人、南遣艦隊作戦参謀の寺崎龍子は、少女だからと侮られぬよう努めて低い声を出した。


「ブリトン軍は長大なマレー半島そのものを利用した縦深抵抗を図っているのでは? 橋梁を爆破しながら徐々に後退し、こちらの侵攻を遅滞させている間に各植民地から増援を得、反攻に転じるつもりかと。陸軍は半島縦断にどれだけの期間を要するとお考えですか?」

「七〇日で攻略可能です! 紀元節にはシンガポールを陥としてご覧に入れる。陸軍記念日にはジャワ、天長節にはラングーンに入城です」


 即答。侮られる心配は杞憂だった。この男は他人を侮る以前に、自分に絶対の自信を持っている。恐らく相手が上官だろうとこの調子で弁舌をふるうのだろう。

 だが、この一見カリスマめいた強過ぎる自信が彼の周りの人間に伝染し、心酔させ、その結果ノモンハンでは多くの将兵を無惨な死に追いやったのだ。ここで呑まれてはならない。


「北部シャム国境付近のジットラ・ラインはどうなさるのです? 我が海軍の情報では、ジットラ・ラインは鉄条網・地雷・戦車壕の三重からなる堅固な陣地帯で、機械化された二個旅団が守っています。燃料弾薬糧食の備蓄も豊富です。ここの突破だけで最低でも三カ月はかかるのでは?」

「我が陸軍は、ジットラ・ラインは工事が遅れ未完成であるとの情報を得ています。ブリトン軍が喧伝するほど堅固ではありません」

「失礼ですが陸軍は、第二五軍を五個師団から四個師団に減らしたそうですね? マレーのブリトン軍は最低でも六個旅団、総兵力八万。兵法の常識では、敵地を攻略する場合には守備兵力の三倍を必要とします。しかし現状では戦車、火砲、兵数、いずれもブリトン軍の半分。これでは……」

「四個師団どころか三個師団で足りると考えております。マレー半島は細長く、南北を縦断する道路はたった一本、後は鬱蒼としたジャングルであります。道路と左右のゴム林の幅は僅か一キロ、ブリトン軍が兵力において優勢であろうとも戦闘正面はこの一キロだけ。従って兵力差は何ら意に介する必要無し、常に精鋭な一大隊だけが軍の進路を切り開き、逐次上陸追及する後続によって疲れた先頭大隊を交代させることは容易であります。さらにゴム林とジャングルは白兵の威力が決定的であり、精神力に勝る我が陸軍にとって、これ以上攻めるに有利な地形はありません」

「精神力ですって?」

「左様。戦争とは精神力の強い者が勝ちます。ブリトン軍が六個旅団八万とおっしゃいましたが、その内実はごく少数の白人の将校、残る大多数は有色人種でありながらブリトン兵となることを強いられた寄せ集めの植民地人達で、精神的団結は無に等しい!」


 半眼で睨む龍子を意に介さず、辻は説明を続ける。


「我が第二五軍は本作戦にあたり進軍を速めるため馬匹編制から、自動車と自転車の混合編制に転換しました。特に主力の第五師団は陸軍最精鋭の機械化師団、二〇数年にわたり上陸作戦専門兵団として訓練され、昨今も九州と海南島で演習を繰り返しております。第一八師団は猛将と名高い牟田口廉也中将が率い、炭鉱出身の荒くれ者を集めた精強兵団です。もう一個の機械化師団、近衛師団については実戦経験が無い代わり、本来の任務が任務だけに全国から身元のしっかりした兵士だけが選抜されております。中立国シャム領に入る際にはこの近衛師団を前面に立て、円滑な通過を図ります。また敵が破壊する橋梁の修理については、各師団の工兵隊の増強に加え独立工兵三個連隊を用意しましたので心配要りません」

「進軍を速めるとおっしゃいますが、補給はどうするのですか」

「補給の心配は要りません! 我々は八紘一宇の精神の下、マレー六百万の民衆をブリトンの植民地支配から救う解放軍であります。民衆は歓呼して我々を迎え、進んで物資を供出してくれること疑いありません!」

「はあ……」


 思わず溜息を漏らした寺崎龍子は、配布された資料の先をめくったところで眉毛を跳ね上げた。


「ちょっと待って下さい、何ですかこれ……『第五師団を基幹とする軍主力部隊をもってシンゴラ・バタニ海岸に上陸すると同時に、第一八師団の有力な支隊が海軍護衛の下にコタバルに奇襲又は強襲上陸し、所在の敵を撃破して同地付近の敵飛行場を占領する』って……コタバル聞いてないですよ!」


 シンゴラ・バタニとは、葦原に友好的な中立国シャム南部の海岸であり、開戦前に外交交渉でシャム側の了解を得た後シャム領土を通過して陸路でマレー半島に進軍するのが、かねてから大本営陸海軍部で合意された作戦計画だった。現実にはシャム国の了解を得るのは、開戦と同時か事後になるだろう。計画で「開戦前」となっているのは、陸海軍の両総長が作戦計画を奉上した際、大元帥たる聖上から「中立国を侵すことはならぬ、その計画は考え直せ」と異例の強いお叱りがあったためと聞く。いずれにせよ外交交渉は軍人でなく外務省の仕事だ。

 問題なのはコタバル。ここはシンゴラより南、ブリトン領マレー東北端の要衝。つまり敵前上陸だ。


「コタバル上陸は危険過ぎます! コタバルの海岸線はトーチカが築かれ、ブリトン軍一個旅団が守っているんです。安全なシャム南部のシンゴラにまず上陸して国境地帯を確保、後方部隊を揚陸した後、コタバルは入念な準備砲爆撃を加えつつ第二次に攻略するはずではなかったのですか」


 陸軍だけで勝手にやる作戦なら好きに危険を冒せばいいが、海を渡るとなると話は別だ。誰が上陸支援をすると思っているんだ。よくもしれっと「海軍護衛の下」などと……。


「陸軍としては、従来の作戦計画を修正しコタバル上陸を希望します。シンゴラに主力を上陸させるには、同時にコタバルの敵飛行場を奪取して制空権を手に入れる必要があります」

「制空権なら、シンゴラにあるシャム国の飛行場を利用すれば良いではないですか」

「コタバルのブリトン飛行場は極めて大規模で、シンゴラで利用可能なシャム国の飛行場とは雲泥の差があります。もしシンゴラだけに上陸してコタバルは第二次攻略まで陥とせないとなれば、コタバルの大飛行場群から来襲するブリトン空軍に対し、シンゴラの小さな飛行場しか使えない我が軍に勝算はありません!」

「適当なことを言われては困ります、辻参謀」

「適当ではありません! 自分は、この目で全ての飛行場を偵察してきたのであります!」


 辻の発言に、陸軍側も含め会議室がざわついた。開戦前の偵察行為は、当然ながら国際法違反だ。しかも事前に何も聞かされていない。

 この男、また独断専行か。

 呆れ怒った龍子が糾弾しようとする前に、隣から一人の少女が声を上げた。


「山本五十子長官以下、海軍はあくまで非戦を願っている。今も戦争回避のため懸命な外交努力が行われている時に、勝手なことをされては困るよ」


 小麦色の肌をしたその少女の声は、決して激してはおらず険しくもなくむしろ飄々とさえしていたが、場を静めるだけの力があった。 

 すらりと伸ばした背。階級章には太い金線に銀の桜が二輪輝き、鋭角で長く伸ばした前髪は、一筋が右目をかすめている。

 帝政葦原海軍・南遣艦隊司令長官、小澤智里中将。

 その眼光に、辻さえも恐縮して姿勢を正す。


「部下のしたことの責任は私にあります。申し訳ありません、小澤提督」


 陸軍側の中心に腰掛けた大柄な男が、豪傑風の外貌に似合わぬ丁重さで深々と詫びた。

 陸軍第二五軍司令官、山下奉文中将。

 貫禄のある堂々たる体躯だが、細やかで部下思いと評判の将軍だ。その部下思いが災いし、五年前に帝都で起きた叛乱では決起した青年将校達を庇って統制派の不興を買い、出世が遅れたと聞く。

 小澤智里は微苦笑して、首を横に振る。


「とはいえ、辻中佐の案にも一理ある。山下司令官はいかがお考えですか?」

「は……」


 一同の視線が、智里と山下に集まる。


「私も、コタバル上陸以外無いと考えております。理由は、たったいま辻が述べた通りです」

「なるほど」


 智里の長髪で隠れていない方の左目が、山下を真っ直ぐに捉える。


「ご存じの通り、この作戦に海軍は空母を出せません。飛行場を構えるブリトンに対しこちらは航空支援無しの上陸になるが、よろしいか?」

「我が陸軍から護衛の戦闘機を出します! 既に加藤建夫少佐率いる第六四戦隊が、サイゴンに到着しております」


 横から辻が口を挟んだ。


「ほう。一式戦闘機の航続力で、サイゴンからマレー東岸まで往復できるかな? 言っておくが片道切符はやめてくれよ。熟練搭乗員は貴重だ」

「その点は心配要りません! 西のフーコック島を自分が視察したところ飛行場にぴったりな平地を見つけましたので、インドシナ人の苦力二千人を手配して着工したところです。約一カ月で工事は完了し、開戦に間に合うかと。フーコックからなら、飛行距離を大幅に短縮できます」


 智里に対する辻のその発言に、陸軍側の幕僚達が再びざわつく。第二五軍の航空主任参謀が血相を変えて、


「何も聞いてないぞ! 本国の決裁は?」

「本国は予算を出し渋って審査に時間がかかります、正式な決裁を待っていたのでは間に合いません」


 その本国では今日から第七七回臨時国会が召集され、臨時軍事費特別会計三八億円が争点になると言われている。北方事変勃発以来の臨時軍事費総額は二六二億円に達しており、ほとんどが公債支出だ。公債発行限度額を二二六億円に改め、今年度は一一一億円分を発行するらしいが、批判も多く、開戦を控え中央は計画外の支出に神経質になっている。


「フランク総督府に工事の許可はとったのか!」

「とっていません、外交交渉なんてやっていたら間に合わないでしょう。勝敗に関わるのです、自分が独断でやらせて頂きました。非難は甘んじて受けます」


 航空主任参謀が頭を抱え、気まずい沈黙がざわめきに取って代わる。蒸し暑い室内で、扇風機のカタカタいう音がやけにうるさく響いた。

 やがて、小澤智里がその口元に皮肉めいた笑みを浮かべた。


「優秀な部下をお持ちのようで羨ましい」


 だが、その笑みはすぐに消え、凛然とした表情にとって代わる。


「こうして向かい合って座っていますが、私は海軍と陸軍で垣根を作るつもりはありません。もし戦うなら緒戦で圧倒的な勝利をおさめ、早い機会に有利な停戦に持ち込めることだけを願っています。従って、迅速なマレー・シンガポール攻略のためコタバル上陸がどうしても必要だと陸軍が希望されるのであれば、協力しない理由はありません。検討のため、暫時猶予を頂きたい」

「ありがたい。何卒、宜しくお願い申し上げます」


 山下はそう答えて、智里に対し再び巨躯を折る。

 大男の将軍と美貌の提督は、最後にがっちりと握手をして別れた。


 円柱が並ぶ白亜の商工会議所を出ると、強い陽射しに思わず目がくらむ。

 頭上の椰子の木からは、葦原では聞いたことのない南国の鳥達の鳴き声。

 龍子は軍帽を目深にかぶると、颯爽と歩く智里の長身を追って公用車に乗り込み、マジェスティックホテルへ向かうよう運転手に指示した。この後の予定はフランク総督主催のパーティーだ。


「東洋のパリ、か」


 車窓を流れる優雅な街並みを眺めながら、智里が口の端で笑う。

 俗に「サイゴンのシャンゼリゼ」と呼ばれるカチナ通りに入るとノートルダム大聖堂のネオゴシックの尖塔がそびえ、ギュスターヴ・エッフェルが設計した中央郵便局、オペラ座、高級デパートや洒落たテラス席のあるパリ風カフェが連なる。

 円筒形のケピ帽をかぶったフランク人警官が、物乞いのインドシナ人を警棒で追い払っていた。

 その横を、葦原の陸軍兵士を満載したトラックが通り過ぎていく。

 進駐から三カ月。フランクと葦原はここインドシナにおいて奇妙な共生を続けていた。

 南方資源地帯への橋頭保として、葦原がこの地を欲したように。本国がトメニア第三帝国に降伏したフランク領インドシナ政府も、植民地維持のために葦原の力を必要としているのだ。


「……植民地支配を擁護しておいて、何が解放軍でしょうか」


 苦い思いで龍子が呟く。智里は、上着のポケットからおもむろに銀の懐中時計を取り出した。


「この銀時計は私の南遣艦隊赴任が決まった折、山本長官から賭けポーカーに勝ってせしめたものだ」


 唐突な話の振りに、毎度のことながら龍子は戸惑う。山本長官といえば海軍乙女の実戦部隊でトップに立つ、連合艦隊司令長官・山本五十子大将のことだ。

 一艦隊参謀、中佐に過ぎぬ龍子には遠い雲の上の存在だが、とにかく賭け事が強いと聞く。その山本五十子を相手に、智里は賭けで勝ったらしい。

 秒針がこちこちと進む時計の文字盤を見る上官の左目は、いつも皮肉めいているのに、その時だけどこか愛おしむような暖かい光が宿っていた。

 智里は言葉を続けた。


「私の癖で、この時計は五分進ませている。故にこの時計は、二四時間で一度たりとも正しい時間を指すことはない。一方で壊れて止まっている時計なら、少なくとも一日に二度は完璧に正しい時間を指す。従って、進んでいる時計と止まっている時計どちらが正しいかというと、止まっている時計の方が正しいということになる」

「え、それは確かにそうかもしれませんが……」


 五分進んでいようが、役に立つのは動いている時計の方ではないのか。そう言いかけた龍子は、智里の左目に再び皮肉の色が戻っていることに気付く。


「つまりは絶対的な正しさなんてものに価値は無いのさ。ヴィンランド合衆国を見たまえ。反植民地主義を唱えながらハワイを力ずくで併合したし、外に向かって自由と民主主義を掲げながら国内では公然と人種差別がある。だが世界の大勢はそんなの構いやしない。正しさとは相対的なものなんだよ」


 小澤智里が南遣艦隊の司令長官に着任してまだ日が浅いが、彼女はいつもこんな調子で龍子のよく理解できないことを喋る。


 車が停まる。「サイゴンのシャンゼリゼ」で一際見事なコロニアル様式の建物、マジェスティックホテル。

 ステンドグラスの天井から燦然と輝くシャンデリアが吊り下がるホールには、フランク人と葦原人の紳士淑女達が、シャンパングラスを片手に集まっていた。

 皆正装だ。こんな時軍人は軍服で済むから楽で良い。

 龍子がそう思った矢先、胸元が大胆に露出したイブニングドレス姿のフランク女性が、輪の中心を抜けてこちらに駆け寄ってきた。


「Oh, Chisato, mon amiral! Merci d'etre venu ce soir!」


 フランク女性は智里に抱きつくや左右の頬に情熱的なキスを浴びせ、何やら聞き取れないフランク語で歓迎してくれる。

 智里は苦笑いを浮かべてフランク女性の豊満な胸からやんわり距離を取り、


「Bonsoir, Mademoiselle Decoux.お招き頂き光栄です」

「Oh! どうかJacquelineと呼んでクダサーイ! Saigonの暑さには慣れましタカ? ここでは私のことは本当のお母さんだと思って頼って下さいネ!」


 ふう。龍子は少しほっとした。

 葦原語が喋れるなら、最初から喋ってくれればいいのに。

 このご婦人がフランク領インドシナ総督、ジャクリーヌ・ドゥクー。

 元はレ・フィーユ・ド・マリーヌ、フランク極東艦隊の提督を務めた中将である。

 成人して海軍乙女を続けられなくなったところで、インドシナ総督の地位を手に入れたというわけだ。

 平時なら穏当な天下り先だが、昨年から本格化した欧州大戦でフランク本国はトメニアに敗北、トメニアに協力するヴィシー政権が成立。それまで同盟国だったブリトン連合王国が一転して敵となり、フランク領インドシナは孤立した。

 風前の灯火と思われた植民地を維持すべく戦争には弱いが外交ではしたたかなフランク人が選択したのが、葦原の進駐を受け入れ防衛を肩代わりしてもらうことだった。


「今夜はGrand CruなChampagneを用意しまシタ! 私の故郷Bordeauxのrougeもとっておきを。憎いBritonのせいで本国からの輸入が途絶えてしまった貴重品、葦原のお友達のために特別デース」


 ジャクリーヌの言葉に合わせて、黒服の給仕が泡立つシャンパンを二杯運んでくる。龍子は慌てて、


「え、でも私達は二〇歳未満で……未成年者の飲酒は法律で禁止されています。申し訳ありませんが」

「オヤ? Francにそんな法律は無いですヨ? それともここは、もうFrancの領土ではなくなってしまったのデスカ? 困りマース私まだ失業したくないデース」


 冗談めかして大袈裟に両手を挙げるジャクリーヌ。その表情に、龍子はしかしドキリとする。

 陽気で人懐っこい婦人の仮面に隠れた、老獪な政治家の一面が覗いた気がした。


「これは部下が失礼を。無論、フランク領インドシナでは貴国フランクの法が適用されます。寺崎中佐、頂こう」


 智里が飄々とした態度でグラスを受け取る。成り行きを見守っていた参加者達に微笑みかけ、シャンパングラスを掲げると、


「フランクと葦原の友情に乾杯」「Sante!」


 龍子も仕方なく酒杯をあおった。喉を焼くピリピリとした刺激に思わず咳き込みそうになる。


「うー、からい……」

「カライ? アー、Non DosageのBlanc de Blancsですからチョト辛口デス。料理が魚介だから、甘口のChampagneと合わせると口の中が生臭くなってしまうんですネ。料理とお酒mariageしてることが大切デース」


 よく聞き取れないが、魚介に辛口のシャンパンが合うらしい。

 給仕が料理を運んできて、銀の覆いを外していく。前菜はキャビア、カスピ海に棲むチョウザメの卵。ルーシからの輸入ルートは辛うじて残っているようだ。


「メインはこの地で獲れたヤシガニのキャベツ包みデース。ごめんなさいネ、Francの料理をつくろうにも本国からの輸入ができないとこんなものしか……homardが恋しいデース」

「ジャクリーヌ、我々葦原人は地産地消を尊びます。フランクの食材が無くても工夫次第で美食は楽しめると思いますよ」

「デース! 戦争では負けてしまいましたガ、料理ではFrancが世界一デス!」


 智里とひとしきり盛り上がってみせると、主催者のジャクリーヌは他のゲストの歓待のため立ち去った。

 龍子がシャンパングラスから口を離したところで、


「あはっ、小澤さんそこにいたんだ~」


 どこか無邪気な少女の声。

 振り返ると、今度は同じ葦原人の海軍乙女。だが、現れた彼女の髪は色素が無く、海軍乙女が夏に纏う二種軍装よりも白い。


「近藤長官……!」


 近藤迦具夜中将。

 この白髪の少女が第二艦隊司令長官にして、南遣艦隊の上位にあたる南方部隊総指揮官だ。


「聞いたよ~。南遣艦隊の旗艦に重巡洋艦が欲しいって、山本長官におねだりしたんだって~?」


 近藤は目を糸のように細くして、にこにこ笑っている。


「ええ、第二艦隊から『鳥海』を頂こうかと。低速の練習艦では、艦隊の指揮は執れませんのでね」


 智里はいつの間にかグラスを空にすると、歩いてきた給仕のお盆から新しいシャンパンをかすめ取った。顔色は全く変わっていない。

 智里が着任した当初、南遣艦隊は艦隊とは名ばかりで、旗艦である練習巡洋艦「香椎」と海防艦「占守」、水上偵察機六機と設営大隊しかいない小規模な部隊だった。

 これでは来たる南方作戦にとても対応できないので連合艦隊司令部に戦力増強を要請した結果、重巡四隻からなる第七戦隊、軽巡「川内」と四個駆逐隊一四隻からなる第三水雷戦隊、潜水艦一四隻からなる三個潜水戦隊、特設水上機母艦二隻からなる第一二航空戦隊、そして中型攻撃機を有する基地航空隊の第二二航空戦隊が急遽加わることとなった。

 問題は旗艦だ。「香椎」は礼砲を装備した非戦闘目的の練習艦で、速力一八ノットしか出ない。開戦まで時間が無いため合同での図上演習も出動訓練もできない寄せ集めの艦隊で、統率するためには智里が陣頭指揮を執る必要があり、高速で重武装の旗艦が不可欠だった。

 面白くないのは戦力を引き抜かれる側だ。「鳥海」だけでなく、第七戦隊の重巡「最上」「三隈」「鈴谷」「熊野」も元は近藤の第二艦隊所属である。


「小澤さん、いいんだよ無理しなくて~? 東洋艦隊の相手は私の第二艦隊に任せて、小澤さんはサイゴンのホテルでのんびり指揮を執ってるといいよ~。あはっ」


 近藤迦具夜は海軍兵学校を首席で卒業したエリート中のエリートで、軍令部参謀として三国同盟・開戦を推進した。小澤智里や山本五十子にとっていわば政敵だ。龍子は思わず後退る。


「重巡はあげても良いけど、『金剛』と『榛名』は渡さないからね~。ブリトンは戦艦を送ってくるらしいよ~?」


 一一月二日にブリトンは、戦艦「プリンセス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」をシンガポールの東洋艦隊に派遣するとマスコミに対し大々的に発表した。

 特に「プリンセス・オブ・ウェールズ」は今年就役したばかりの最新鋭艦で、本来トメニア第三帝国の戦艦ティルピッツに対抗してブリトン本国に温存されていたのを、ウィルヘルミナ・チャーチル首相の強い意向で引き抜かれている。

 南部フランク領インドシナに進駐した葦原に対する牽制だ。


「金剛型は旧式で元巡洋戦艦です。『プリンセス・オブ・ウェールズ』の相手は分が悪いでしょう。兵学校では戦艦で戦艦の相手をすると教わりましたが……私なら基地航空隊と潜水艦で弱らせた後に、水雷戦隊の夜戦でとどめを刺しますがね」


 智里は飄々と、小皿に盛ったキャビアを純金製のスプーンで口に運び、ねっとりとした食感を楽しんでいる。

 近藤に貼りついていた笑みが歪んだ。


「はっきり言わないとわからない? 出しゃばらないで欲しいかな~って」


 初めて開かれた近藤の赤い瞳を、智里は静かに見返す。


「近藤さん、貴女にそもそも艦隊を運用する資格は無い。GF先任参謀だった時の、あの事故を忘れたとは言わせないぞ」


 そのまま二人はすれ違う。龍子は数秒間啞然としていたが、仕方なく上司の方を追いかけた。


「よろしいのですか。近藤長官にあのような……」


 近藤は海軍の南方作戦指揮系統トップだ。智里は肩をすくめて、


「私とて聖上より親補され長官職にある。上陸地点の判断も、山本長官は私に一任している」


 上陸地点。龍子の頭は懸案に引き戻される。

 陸軍が求めてきたコタバルは危険な敵前上陸だ。


「陸軍の言うこともわかります。コタバルの飛行場をブリトンが自由に使い続けて空襲してくるのと、開戦劈頭に葦原が奪取できるのとではその後の進軍の難易度が全く変わってきます。ですが……」

「陸軍だけではないさ。半島を南下する陸軍への東岸からの物資補給を妨害しようとブリトン東洋艦隊が出てくれば、これを撃滅するのは海軍の仕事だ。その時にコタバルが陥ちていれば、敵艦隊は戦闘機の上空掩護を満足に受けられない。『プリンセス・オブ・ウェールズ』も裸同然だ」

「……! そこまでお考えでしたか」


 来たるマレー東岸沖での決戦においても、勝敗を左右する制空権の要はコタバルにあるというわけだ。

 だが、コタバル上陸を実行することになれば海軍が負うのは、艦艇による陸軍輸送船団の護衛だけではない。

 ラ・メール症状。男性は海水に拒絶反応を示す。

 その海水に晒される中で陸軍男性将兵を「揚陸」するためには、海軍乙女が上陸用舟艇に同乗して支え、橋頭堡を確保せねばならない。

 上陸支援に欠かせない海軍陸戦隊の兵力は限られており、上陸必須な島嶼の攻略、フィリピン、グアム、そしてジャワ攻略のために温存し、対するマレーは中立国シャムから地続きで攻略できるので時間がかかっても陸軍のみで行って欲しいというのが海軍の定石戦略だ。

 しかし、本当にそれで良いのだろうか。

 開戦が不可避となった原因は、ヴィンランドとブリトンの葦原に対する石油の全面禁輸措置だ。それ以前からの経済制裁で、葦原国民がどれだけ困窮してきたか。ジャワの油田をはじめ南方資源地帯の確保には、帝政葦原中津国の存亡がかかっている。南方最大の海の要衝であるシンガポールを抱えるマレーを後回しにして、果たして達成できるのか――


「外の風に当たりたくなってきたな。夜店巡りと洒落こむか」


 智里は唐突にそう言って、鋭角に伸ばした髪で隠れていない方の左目を、いたずらっぽくウインクさせた。

 一転、パーティーを中座するためフランク総督のもとへ向かう上司の颯爽とした背中を、龍子は再度慌てて追った。






 

 光文一六年一一月一七日。陸海軍E作戦協同会議が開かれる前日の、最後の予備折衝が行われた。

 協同会議は、帝都の大本営陸軍部(参謀本部)から中佐参謀の竹田宮殿下をお迎えして厳粛に行われるもので、その場で陸海軍作戦協定が締結される。いわゆる「シャンシャン」で、議論は無い。

 実質的な協定の中身は、それまでに詰めておく必要があった。


「開戦後にシャム国のシンゴラ飛行場を拡張するため、第五師団から歩兵一個大隊と監督する工兵一個小隊を同地に残すことにしました。攻略の第一線を担う第五師団にとって後方に四分の一もの歩兵を残すことは断腸の思いですが、迅速な攻略に制空権、航空支援は欠かせません! 軍需品の揚陸も、飛行集団を最優先とし……ごほっ!」


 第二五軍作戦主任参謀・辻政信中佐はこの日も絶好調……ではなかった。

 顔が赤い。丸い黒縁眼鏡の奥の眼も血走っており、地図を指し示す腕は、時折震えている。声もおかしい。


「辻参謀、大丈夫ですか。顔色が悪いようですが」


 南遣艦隊作戦参謀で同じく中佐の寺崎龍子は、念のため気遣いの言葉をかけた。

 興奮して紅潮したりギラギラしたり震えたり感極まって泣き出したりするのは全て辻政信の常であり、何日も折衝を重ねて辻ウォッチャーになってしまった龍子だから気付ける微妙な違いではあったが……。


「はっ! 悪寒がして熱が四〇度ですが、このぐらい平熱であります!」


 怪鳥のような甲高い巻き舌でそう吠えた。会議室がざわつく。


「……デング熱かマラリアじゃないだろうね」


 南遣艦隊司令長官・小澤智里中将が呆れ半分な声を出した。

 陸軍内でも浮いている辻が作戦計画をほぼ一人で起案していて、この一カ月不眠不休、彼の直属の部下達も視力低下や神経衰弱になっているという噂は海軍にまで届いていた。

 辻の極端な禁欲主義により、酒はおろか一切の娯楽もご法度らしい。


「休ませた方が良いと思うが。山下司令官?」

「申し訳ありません。彼の熱意に負けまして」


 第二五軍司令官、山下奉文中将が詫びた。

 熱意ではなくて熱病なんですがそれは……龍子は出かかった突っ込みを危うく引っ込めた。

 陸軍は伝統的に北のルーシ連邦を仮想敵とし、北方・シベリアを予想戦場とした訓練・準備をずっとしてきた組織だ。「戦法即ルーシ」とさえ呼ばれる。作戦用の地図も北方では陸軍が独自に十万分の一の正確な地図を作っていた。それが一八〇度向きを変え、南方の熱帯での作戦をこれだけの短期間で準備するのだから、誰がやってもしんどいだろう。

 聞けば辻は左遷されていた研究部で熱地作戦の基礎資料収集を任されたことがきっかけで、今回の作戦に返り咲いたという。同様に左遷された者達と僅かな予算で、早くから南方資源地帯の攻略を想定し、民間の専門家も招聘してまずはジャングルやスコールといった言葉の意味を知るところから始め、熱帯における兵団の編成、装備、戦法に兵器の取り扱い、衛生と給養、さらにはマラリア対策や、南方住民の特性に配慮した占領地行政まで網羅した研究を半年かけて積み上げて、中央から再評価されたのだ。


「続けます。現在マレーにおいて、総兵員数も火砲も戦車もブリトン軍が上回っている中で、唯一上回っているのは航空機の数であります。我が陸軍の情報では、ブリトンはマレーの戦闘機の数を誇大に報道させていて、実際の配備は遅れています。これは、ブリトンは本国の防空に手一杯で植民地を後回しにせざるを得ないのと、東北季節風の時期たる一一月から来年三月までは、我が軍の侵攻は無いものと想定しているからです。我が軍には機先の利があります!」

「代わりに、予想上陸海岸一帯には約三メートルもの波が打ち寄せていますよね。上陸時、大発動艇でも転覆の恐れがありますよ」


 陸軍将兵の身を案じてそう発言したのは、第三水雷戦隊司令官の橋本信代少将だった。現在南遣艦隊に属する三水戦は、軽巡「川内」を旗艦とし「吹雪」はじめ重武装の特型駆逐艦で構成される。コタバル上陸が実行されることになれば智里の指揮の下、彼女が上陸支援を担う。


「ただでさえ輸送船団は海南島から熱帯の海を四日間の航海……陸軍の皆さんはラ・メール症状に加え、蒸し暑くて飲料水も少ない船旅で衰弱していることでしょう。それにコタバルでは飛行場を占領するまでの間、敵機の空襲が予想されますが……」

「多少の犠牲は覚悟の上であります! 緒戦は損害を出さないよう慎重にという海軍のご主張は定石かもしれませんが、緒戦においてこそ大胆果敢に奇襲の利を収め、敵の戦意を劈頭において破砕すべきなのです。上陸さえしてしまえば、敵兵と入り乱れての混戦になり空襲もできなくなります。海軍の艦艇は、上陸の第一次が始まったら退避して頂いて結構! 迷惑はかけません」


 辻の言葉に、橋本信代は色をなし、机を叩いた。


「海軍も陸軍も無いですよ! これは葦原の未来がかかった戦いです。上陸が成功するなら、我が三水戦は全滅したって構わない。海軍だけ損害を恐れていると思われるのは心外です!」


 勇敢な水雷屋である橋本らしかった。智里が無言で頷き、辻もこれには恐れ入った様子で頭を下げた。


 休憩に入り、海軍側出席者に用意された別室。

 ラジオで本国国会での新総理の施政方針演説が流れている。


〈……常に平和を欲する帝国と致しましては、隱忍自重、忍び難きを忍び、耐え難きを耐え、極力外交交渉に依りまして危局を打開し、事態を平和的に解決せんことを期して参ったのでありまするが……肇国以来の国是でありまする平和愛好の精神に基づき、帝国の存立と権威とを擁護し、大東亜の新秩序を建設するため、今なお外交に懸命の努力を傾注している次第でありまして……〉


 新総理は、前の内閣で陸相の時には開戦を求める強硬派だったはずの人物だが、今日の演説には「平和愛好」「外交努力」さらには「聖慮」といった言葉が散りばめられている。

 大命降下に際し聖上から直々に戦争回避の御諚があり、姿勢を一八〇度改めたという噂は本当のようだ。

 ひょっとすると、自分達がここでしている準備は全て徒労に終わるかもしれないという淡い期待が鎌首をもたげたが、そう甘くないと、龍子は気を引き締めた。

 外交交渉は相手がある話だ。ここ最近ヴィンランド側は、原則論を唱えるばかりで妥協の意思がまるで感じられないと聞く。


「……小澤長官、少しよろしいでしょうか」


 折衝中はオブザーバーとして一言も発していない、大本営海軍部(軍令部)作戦課から派遣されてきた三代中佐が智里に近付いてきた。


「陸軍にとってはこのE作戦が山なのでしょうが、海軍はZ作戦が山です」


 全く日に焼けていない青白い肌が、智里とは対照的な軍令部参謀だった。軍令部総長・嶋野大将の側近の一人だ。無表情のまま抑えた声で、


「GF(連合艦隊)の山本長官は開戦しても早期講和したいとおっしゃっていますが、嶋野閣下は、この戦いは長期戦になるとのお考えです。緒戦で一隻たりとも損害を出さぬようにと……危険なコタバル上陸などしなくても、マレーは時間をかければ陸路だけで陥とせます。陸軍主導のこの作戦で、海軍があまり無理をする必要は無いかと」


 海軍のZ作戦とは、真珠湾攻撃である。

 南方資源地帯を確保するには、先にハワイ真珠湾のヴィンランド太平洋艦隊主力を壊滅させておく必要がある。真珠湾を叩かずに南方に進軍すれば、長く縦に伸びた葦原の補給線をヴィンランドが横から突いてくる。いや、葦原本土を攻撃されるかもしれない。紙と木でできた葦原の都市は空襲に対して脆弱だ。帝都は三度も四度も丸焼けになる……そう主張して開戦劈頭、機動部隊の全力を投入しての真珠湾攻撃を訴え、容れられなければ辞職するとまで言ったのが山本五十子だ。

 軍令部は本来、真珠湾攻撃に反対だった。

 太平洋を渡ってくるヴィンランド艦隊の戦力を潜水艦や航空機の攻撃で徐々に削り、最後はルーシ戦役の葦原海海戦でバルチック艦隊を倒したように葦原の近海で待ち伏せて主力艦同士の艦隊決戦を挑むという「漸減邀撃」が、軍令部の参謀達が長年温めてきた作戦である。

 作戦を決める権限は本来軍令部にあり、決められた作戦に沿って艦隊を指揮するのが連合艦隊司令長官なのに、その連合艦隊司令長官が辞職を盾に迫ってきた真珠湾攻撃に押し切られ、せめて他の作戦では戦力を温存したいのだろう。

 智里はしばらく黙って三代を見据えた後、聞き返した。


「今のは三代個人の意見か? それとも軍令部としての指示か?」


 淡々と喋っていた三代が、初めて言葉に詰まった。歯切れ悪く、 


「それは……あくまでお願いベースではありますが、嶋野閣下のお考えに沿って、我々軍令部で研究した総意と受け取って下さって構いません」

「ならば嶋野さんの捺印なり署名なりした紙を持ってきたまえよ」

「それはできません」

「まあ、そうなるな。陸海協調を唱える嶋野さんが、陸軍への支援に手を抜けなどと、公に言えるはずがないからな」

「それは小澤長官の邪推です。そういうお考えは控えて頂かないと」

「聖上より私が親補された際、嶋野さんも侍立していた。マレー方面での陸海軍の調整は私に一任すると言われたぞ。責任を現場に押し付けておいて、果ては記録に残らないよう口頭でご指導か。軍令部参謀は気楽なものだな」

「誤解があるようですが、嶋野閣下のお考えは……」

「詭弁を聞くのはうんざりだ。帰りたまえ」


 飄々とした普段の智里とは違う底冷えのする声に、三代参謀は凍り付いたようになった。


「……今の中央は、嶋野大将の威を借る輩が跳梁跋扈している。吐き気がするな」


 三代が部屋を出て行った後。智里は龍子に言い聞かせるように呟いた。


「参謀が立てた作戦でも、指揮官の名前で判子が押され世に出る。辻は悪目立ちしている分、あれでもまだましだ。常に誰かの名を借りて、自分の名は一切表に出さずに現場を操り、責任を押し付ける参謀が海軍に何と多いことか。君もああならないよう気を付けろよ」

「はっ」


 折衝が再開される。この日、小澤智里は最終的に陸軍のコタバル上陸に同意し、代わりに輸送船団の航海護衛から上陸までの段取りは海軍一任を取り付けた。

 翌一一月一八日、陸軍第二五軍と海軍南遣艦隊は、陸海軍作戦協定を正式に締結。コタバル上陸は第一八師団から歩兵一個連隊と砲兵一個大隊を抽出した佗美浩少将率いる佗美支隊五五〇〇名が、三隻の輸送船団に乗船して行うこととなった。

 作戦期日は真珠湾攻撃と同じ一二月八日。奇襲が必要なのはコタバルも一緒なので同時攻撃が理想だが、協議の結果、真珠湾が優先と決められた。

 ただし、期日までに外交交渉が妥結すればどちらの作戦も中止となる。

 その夜は両司令部合同の懇親会が開かれた。日頃不仲とされる陸海軍が宴席を共にするのは異例である。

 辻はシンガポールを陥とすまでは酒を断つと言って渋茶だったが、他の皆は冷えたビールで乾杯した。

 智里は隠し芸として「サイゴンの花売り娘」を歌い、日頃の近寄りがたさに似合わぬ明るい美声と見事な振り付けで陸軍を驚かせた。

 死地に向かう佗美支隊の将兵への、智里なりの励ましだった。

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