山本五十子の決断・外伝 南海の花束

如月真弘

第壱號 壱岐春香 

 光文一六年一二月一〇日、マレー半島東岸クアンタン沖。

 高度三三〇〇メートル。


「シンガポールで行きたいところ~?」

「ラッフルズホテル! 本場のアフタヌーンティー飲んでみたい!」

「あそこは陸軍が接収しちゃうんじゃないかなあ」

「うわ……じゃあ行かない」

「憧れますよねブリトンのアフタヌーンティー。ウェジウッドで淹れた紅茶と、後は段々になった銀のトレイにスコーンとかサンドイッチとかがのってて」

「どうせ陸軍に占領された日からメニューは麦茶とおにぎりだけになるから」

「あるある」


 双発の火星エンジンの振動が、小刻みに身体を震わせていた。

 九六式陸攻の金星エンジンより大型で、馬力は約一・五倍。

 この一式陸攻は、今年の四月に制式採用され生産が始まったばかりの最新鋭中型攻撃機だ。

 新鋭機といっても居住性は良くない。

 空気抵抗を減らすため、九六式陸攻までは胴体下に吊り下げられていた魚雷や爆弾は機内に収納するようになったものの、その際には弾倉のカバーを外すので外気が絶えず流れ込んでくる。

 銃座のための切り欠きからもだ。

 一式陸攻は高度九〇〇〇メートルまで上昇可能だが、機内を荒れ狂う氷点下の風は搭乗員から体力と集中力を奪う。

 今もコクピットと荷室を仕切るキャンバスが、風圧で破れそうな音を立てて――


「ねえ見てシンガポールのガイドブック! この辺に、美味しい麺の屋台あるらしいよ!」

「屋台はちょっと怖いかな、サイゴンでお腹壊したし」

「サイゴンってさあ……フランク人御用達のレストランは高いし、現地の人が行くお店もちょっと微妙よね」

「え、高橋ってインドシナ料理嫌いなの? 美味しいじゃない生春巻きとかフォーとか」

「その生春巻きやフォーに、入ってるのよ! あの何とかっていう臭いの! ええと、パク、パク……」

「パクチーですか?」

「そう、それ、パクチー! 私あれ無理!」

「え? パクチー普通にありじゃない?」

「は? 普通にあれは無いでしょ。何あのムワッとした感じ」

「あのムワッとした感じが良いんだけど」

「ええっ? いや有り得ないから、小日向あんた飛び過ぎで味覚おかしくなったんじゃないの」

「じゃあ多数決とります、この中でパクチーありだと思う人~」

「は~い」

「最初はやばいけど二回目から病みつきになりますよねパクチー」

「内地でも流行らせたい」

「いや待って、パクチー無いから、絶対無いから」

「あの~壱岐隊長、隊長はパクチーあり派ですか無し派ですか?」 

「ちょっとみんなうるさすぎぃ!」


 中隊長兼射爆員の壱岐春香は、ついに飛行帽に巻き付いた伝声管聴音器を外して爆撃席から後ろを振り返った。

 エンジンの振動より吹き込む風より、まず搭乗員がやかましい。


「あのね、敵いるからねシンガポール? 敵機の圏内なのに何でみんな観光気分なの? 死ぬの?」

「いや~死ぬかもしれないので、せめて気分だけでも味わおうとですね」「それより隊長は、インドシナ料理のパクチーについて……」

「わかったから静かに!」

「は~い」

「小日向、ゆっくり高度を下げて。前川、敵戦闘機が来ないか警戒よろしく。萩原は現在地の再確認、奥山は先行索敵機と司令部からの続報に注意して」


 春香の指示に、操縦席に座る主操縦員の小日向と副操縦員の安斎が頷いた。

 その後ろ、航法を担う主偵察員の萩原が机に航空図(チャート)を広げ、電信員の奥山が無線機に向かい友軍機からの甲電波と基地からの乙電波に耳を澄ます。

 副偵察員の前川が七・七ミリ旋回機銃を上空に向けて警戒し、搭発員(搭乗整備員)の高橋はエンジンの計器盤に目を光らせる。

 中攻乗りは家族だとよく言われる。

 同じ海軍航空隊の搭乗員でも、単座の戦闘機乗りはいわば孤高の存在だ。

 空に上がれば何時間もたった一人で航法・操縦・戦闘をこなさないといけないし、仲間とて撃墜数を競うライバル同士。

 目つきからして普通の子とは違う。侍のような気迫があって戦闘意欲が強いとされるA型が向いているらしい。

 それに対し大型機に乗り込むのはO型(洒落ではなくて、帝政葦原海軍では適性検査に血液型が役立つと本気で信じられていた)、おおらかで仲間と和気藹々やれる性格が望ましいとされる。

 一式陸攻の乗組員七人は文字通り運命共同体、全員で一本の槍になって敵陣・敵艦に突っ込む。死ぬ時も一緒だ。

 だからといって、今日は騒ぎ過ぎだと思う。

 とりあえずツドウモ基地に戻ったら、高橋をパクチーサラダの刑にしてやろう。

 パクチー美味しいし。

 なんだかんだで、部下達の会話はしっかり聞いている春香であった。

 ちなみにこの日の春香達の機内食は、主食箱に赤飯、副食箱に卵焼きと昆布巻き、魔法瓶に熱いさつま汁。主計科心尽くしの純和風である。


「北緯四度、東経一〇三度五五分。索敵機が敵艦隊を見たというのは、間違いなくこの付近です」


 航空図を見ながら計算盤を弾いていた萩原が報告する。第一小隊長を兼ねる萩原は、下士官兵で何千人に一人という専修科コースを卒業した優秀な偵察員で、夜間だろうと雲に入ろうと決して航法が狂わない。


「隊長、そろそろ帰りの燃料が足りなくなります!」


 不安げにそう言ってきたのは高橋だ。

 既に南に一一〇〇キロ、雷装した一式陸攻の行動半径に達したため北西に変針している。


「うーん、今日こそは決着をつけたいなあ」


 春香は、機首いっぱいに張られたアクリル風防越しに南海の空を見回した。

 出かける時は快晴だったが、マレー半島に近付くにつれ雲が増していっている。

 昨日は味方の潜水艦が敵艦隊を見つけたものの、情報の確認に手間取り航空隊が出撃できたのは夕方で、おまけに途中でスコールに見舞われた。

 最悪だったのは暗闇の中、一部の機が味方の南遣艦隊それもよりによって司令長官の小澤中将が座乗する重巡「鳥海」を敵艦と誤認して夜間攻撃用の航法目標灯と吊光弾を投下し触接、あわや同士討ちになりかけたことだ。

 司令部から大目玉を食らい、意気消沈してツドウモ基地に帰ってきたのは深夜。来たばかりの飛行場での夜間着陸を全機無事にできたのは奇跡と言って良い。そこから整備の子達が徹夜でもう一度飛べるようにしてくれて、今朝は夜明け前に索敵機を発進させ、その二時間後には春香達も見切り発車した。

 昨日のように敵艦隊発見の知らせを聞いてから出撃したのでは、間に合わないと考えたからだが……


「こうなったら、余計な物を捨てて機体を軽くするしかありません。燃料節約です!」

「捨てるって何を?」

「まず服を脱ぎます」

「無いわ~」


 また始まった部下達の小話をよそに、春香は下方、高度二五〇〇メートル付近に広がる雲海に目を凝らす。


「あ、何か光った」


 右前方、積雲の切れ間。

 春香が指差した方向に、萩原がすかさず双眼鏡を向ける。


「ブリトン軍のウォーラス水偵が一機、低空を飛んでいます。隊長、これはもしや」

「うん、当たりだね」


 あのウォーラスは、恐らく対潜哨戒中。

 小型の水偵が、こんなところを単機で対潜哨戒……間違いない、あれは敵艦の搭載機だ。

 後を尾ければ、敵の艦隊に辿り着ける。


「小日向、第一中隊にバンクをお願い」

「えっ、一番槍譲っちゃうんですか? 隊長が見つけたのに」

「後詰めも大事な役目だよ」


 三一〇号春香機は、離れて飛ぶ第一中隊の指揮官機に向けてバンクを振る。しばらくして指揮官機の方でも敵機を見つけたらしく、バンクを振り返すと降下に入った。

 すかさず第二中隊が続く。

 春香は、直属の第一小隊列機に手で合図を送った。

 翼を連ねて飛ぶ二番機機長の桜井、三番機機長の本田は、共に北方事変から戦ってきた仲間だ。

 彼女達も他の中隊を先行させたことに少し不満そうな顔だったが、合図に従い春香機の後ろに単縦陣を作る。

 さらに後続する第二小隊と第三小隊で一本棒になる。この合わせて九機が、第三中隊長である春香の配下。

 春香達が属する鹿屋航空隊は、開戦前に台湾で九六式陸攻から一式陸攻に全機更新している。

 虎の子の部隊が南方に進出したのは他でもない、一二月二日にシンガポールに到着しブリトン連合王国海軍東洋艦隊に配備された新型戦艦「プリンセス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」に対抗し、開戦となればこれに痛撃を与えるためだ。

 鹿屋航空隊の一式陸攻二六機は全機雷装。この他に本山航空隊から九六式陸攻二六機うち雷装一七機・爆装九機、美幌航空隊から九六式陸攻三三機うち雷装八機・爆装二五機。あわせて八五機からなる大攻撃隊がこの海に展開している。


 春香機の前方、第一中隊が敵水偵を追尾しつつ緩やかに高度を下げる。その左に第二中隊。春香の第三中隊は右についた。

 雲に入る。風防の外が灰白色に塗り込められる。

 厚い雲だ。経験の浅い操縦士なら上下左右の感覚が無くなり空間失調症に陥る危険があるが、小日向は慣れたもので計器と己のカンを頼りに操縦桿を大胆に押し込んでいく。

 高度八〇〇メートル。

 唐突に、視界が一面のコバルトブルーに変わる。


「見えた!」


 前方距離約二〇キロ、海面に白波を立てて進む二つの大きな艦影。

 艦橋や煙突が艦中央に、まるで城の天守閣のようにそびえている。明らかに戦艦だ。

 接近して高度を落とすにつれ、艦影が鮮明になっていく。

 横幅が太く艦橋ががっしりしているのが「プリンセス・オブ・ウェールズ」、その右舷後方、横幅が細くて艦橋が三脚檣なのが「レパルス」だろう。

 周囲には護衛の駆逐艦が三隻。

 前方を飛んでいたウォーラス水偵が、慌てて空域を離脱していく。今頃になって尾行に気付いたらしいが、もう遅い。


「ふふっ、道案内ありがとう」


 敵艦隊の上空に、春香が一番恐れていた戦闘機の姿は無かった。もしブリトン空軍のバッファロー戦闘機が直掩していようものなら、重さ八〇〇キロ以上の魚雷を抱えてスピードで劣る上に雷撃中は回避行動ができない攻撃機は恰好の餌食となるところだった。開戦と同時に行われたマレー半島北東部への上陸作戦で、敵の飛行場があったコタバルを占領したのが効いているのだろうか。

 現在の高度三〇〇メートル、敵艦隊との距離一六キロ。視界は良好。妨害する敵機もいない。訓練通りに雷撃できる。

 春香は伝声管の送話口を手に取った。


「みんな聞いて。打ち合わせ通り、第一中隊は『プリンセス・オブ・ウェールズ』、第二中隊は『レパルス』、私達は最後に見比べてどっちかダメージの少なそうな方を雷撃するよ」


 機内の空気は、先程までとは打って変わって張り詰めている。

 ここにいるメンバーは北方事変の渡洋爆撃に参加した水平爆撃のベテランだが、海上での敵艦雷撃はこれが初めてだ。

 当初は、東洋艦隊がシンガポール軍港内に停泊中のところを爆撃するという話もあった。

 低空で敵艦に肉迫しての雷撃は、高高度から行う水平爆撃よりはるかに危ない。

 さっきのみんなのはしゃぎっぷりは、不安の裏返しだ。


「よし決めた! 魚雷を命中させられたら、そのラフ何とかホテルでお祝いをしよう。私がみんなにアフタヌーンティーをご馳走してあげる!」

「ええっ、本当ですか隊長!?」「ラッフルズホテル超高いですよ!」「いや、値段以前に陸軍が……」

「大丈夫! 泳げない陸軍がマレーに上陸できたのは海軍のおかげなんだから。当然使わせてもらうよ」


 少女達から歓声が上がる。

 春香は笑って、


「鹿屋航空隊ここにあり! 私達の力で敵戦艦を必ず航行不能に追い込んで、後続の水上部隊にきっちりバトンタッチしよう!」


 この時、春香は目前に迫った敵戦艦を撃沈できるとまでは考えていない。

 一昨日の真珠湾攻撃で南雲機動部隊がヴィンランド戦艦多数を沈めたというニュースは既に耳に入っているが、あれは「据物斬り」、停泊中の戦艦を奇襲したタラント空襲と同じ事例だ。

 他にも老朽化した練習戦艦が航行中に空襲で沈められた前例はあったが、速力・装甲・対空兵装が第一線クラスの戦艦を作戦行動中に航空攻撃のみで沈めることは不可能というのが、当時の世界常識だった。

 対空砲火で弾幕を張りつつ高速で回避行動を続ける艦に爆弾を命中させるのは至難の業だし、魚雷も多くはかわされてしまうだろう。命中しても、戦艦は砲戦を想定しており装甲は分厚い。

 春香は大艦巨砲主義者というわけではないが、日向に乗り組んでいた時期もあり戦艦というものがいかに堅牢かよく知っていた。まして「プリンセス・オブ・ウェールズ」は海軍大国ブリトンが威信をかけて建造し、今年の一月に就役したばかりの新型戦艦だ。

 しかし、沈めることが無理でも浸水で動きを鈍らせたり、戦艦の弱点、舵やスクリューを壊して航行不能に追い込んだりすることはできる。

 念頭にあるのは、兵学校で教わった漸減邀撃作戦。一式陸攻も、元はそのために開発された機体だ。

 現在、ブリトン東洋艦隊に対抗できる葦原の水上戦力としては、重巡「愛宕」を旗艦とし高速戦艦「金剛」「榛名」を有する近藤中将の第二艦隊と、重巡「鳥海」を旗艦とする小澤中将の南遣艦隊がある。

 いずれも昨日の捜索で燃料を切らして補給のため北のカムラン湾まで後退しているが、今は全力でこちらへ向かっているはずだ。

 さらに散開している潜水艦部隊も、いずれ集まってくる。

 ここで春香達が敵戦艦にダメージを与えて足止めできれば、後から来る水上部隊か潜水艦が止めを刺してくれる。春香はそう信じた。


 先行する第一中隊が、敵艦隊に近付いていく。

 不意に、空中にぽんぽんと不吉な黒点が湧いた。

 砲弾の炸裂煙だ。敵の対空砲火が始まったのだ。

 戦艦の舷側にずらりと並んだ高角砲から一斉に赤い閃光がきらめいたと思うと、空がみるみるうちに爆炎と硝煙に覆われる。海面に落着した砲弾の破片が、おびただしい水煙を上げる。今まで見たこともない熾烈な対空砲火だ。


 ここへ攻撃をかけるのか。


 春香は背筋がぞくりと粟立つのを感じた。

 至近距離の爆発の連続で、第一中隊の各機が木の葉のように揺れている。

 しかし味方は怯まない。

 第一中隊指揮官機が翼を左右に力強く二度振った。「全機突撃」の合図。

 第一中隊・第二中隊は海面すれすれまで高度を落とし、「プリンセス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」に肉迫する。

 訓練時の高度二〇メートルよりさらに低く、プロペラが海面を叩くのではないかと思えるくらいの超低空を這う。危険だが、こうすれば俯角のとれない敵高角砲の弾に当たりにくい。

 代わりに、戦艦のそこかしこにハリネズミのように装備された対空機銃が火を噴いた。

 猛射の中、先頭を行く指揮官機は「プリンセス・オブ・ウェールズ」に衝突するぎりぎりのところで、魚雷を投下し機首を上げた。

 単縦陣を組んだ後続機も次々と魚雷を放ち、「プリンセス・オブ・ウェールズ」の上ぎりぎりのところをすり抜けていく。

 投下されたのは、新型の九一式航空魚雷改二。

 空中姿勢安定板を装着し、さらに入水後のローリングを修正する加速度制御システムを備えた画期的な魚雷で、荒れた海に高速で投下しても向きが逸れたり海底に突き刺さったりすることなく、狙った方向に確実に進む。頭部炸薬量も従来の魚雷より増量され、喫水線下の防御装甲を貫通できる。

 投下から約二〇秒後、「プリンセス・オブ・ウェールズ」の右舷に立て続けに白い水柱が上がった。


「命中、四発です!」


 副偵察員前川の上擦った声。

 戦艦の艦橋よりも高く水柱が屹立する様は、まるで絵画に描かれた葦原海海戦だ。

 「プリンセス・オブ・ウェールズ」は船体が傾き、動きが鈍っている。

 かなり浸水しているようだ。変針せず左に旋回し続けているところから見て、舵やスクリューをやられた可能性もある。

 一方の「レパルス」は、海面に複雑な航跡(ウェーキ)を描き、未だ三〇ノット近い高速で魚雷を全て回避し続けている。

 こちらの攻撃隊に艦首を向けるよう回頭を続け、横っ腹を決して見せず、なかなか射点をつかませないのだ。艦首は被弾面積が最も少ない上、艦首波により魚雷は左右いずれかに逸れてしまう。

 「レパルス」の艦長は相当な手練れだと、春香は見て取った。


「よし、私達は『レパルス』をやろう! 北西から回り込んで!」


 気付かれないよう所々に浮かぶ断雲に身を隠しつつ、南下する「レパルス」の右舷を狙う。

 雷撃は敵艦の側面に魚雷が当たるよう艦首から一五~九〇度の射角で、距離八〇〇メートルの位置に自機を持っていく。最良の射点につけるかどうかが勝負だ。

 逆に「レパルス」にとっては、いかに攻撃機側の射点を外させるかの勝負。今も艦首を左右に振るジグザグ航行で、攻撃隊にフェイントをかけている。


「流石ロイヤルネイビー、敵ながらやりますね」


 双眼鏡を構えた萩原が唸る。


「私達の先生だからね」


 ブリトンはかつて葦原の同盟国であり、海軍の師であった。

 春香が過ごした海軍兵学校の校舎はブリトンから運んだレンガで建てられていたし、校内にはネルソン提督の遺髪が大切に祀られていた。

 教本はブリトンから輸入したもので、ブリトンのテーブルマナーを習い、ブリトンの歌を歌った。

 本国ではこの戦争を、ブリトンのアジア支配に終止符を打つ植民地解放戦争だと喧伝している。多くのブリトン人が、葦原人を含めた有色人種を差別していることも知っている。それでもブリトン海軍に特別な思いを抱いてしまうのは、その伝統を受け継いだ葦原海軍乙女の性(さが)か。


「あっ! 『レパルス』、右へ大きく回頭します!」


 春香達の目の前で、「レパルス」は一気に北西に旋回した。

 第二中隊の放った魚雷が、例によって艦首ぎりぎりをかすめていく。相変わらず見事な操艦だ。

 しかし、さすがの「レパルス」艦長も、断雲を盾に北西に回り込んでいた春香の第三中隊まではカバーし切れていなかった。今、春香と直属の第一小隊の正面に、「レパルス」の左舷が見えている。

 そして遅れてついてきた第二小隊と第三小隊は、さらに右舷へと回り込んで春香達と反対側から「レパルス」に対峙した。

 期せずして、第一小隊と残る二個小隊で「レパルス」を挟撃する形になったのだ。

 萩原が叫ぶ。


「目標との距離一五〇〇、高度二五!」

「小日向! 距離八〇〇まで近付けちゃって! 速度二三〇ノット!」

「了解!」

「高橋! 無理させるけどエンジンよろしくね!」

「はい!」


 春香機を先頭に、第一小隊三機が突っ込む。

 隊長の春香が自ら雷撃手を務める。操縦席のさらに前、全面アクリル張りの風防だけで空と隔てられた機首爆撃席。

 足元の照準器は水平爆撃用なので、今日は使わない。雷撃用の照準器もあるが、この距離なら目測の方が早い。


「距離一三〇〇、高度ニ〇!」


 間近に迫った「レパルス」は、味方の金剛型戦艦によく似ていた。昨夜の同士討ち未遂事件を思い出し攻撃を躊躇しそうになるが、この艦はブリトンの国旗を掲げている。

 春香は魚雷投下スイッチに指をかける。後少し。


「距離一〇〇〇、高度一五!」

「一〇まで潜って!」


 「レパルス」の対空機銃が、噴煙を吐き出した。

 ブリトンが誇るヴィッカース社製二ポンド八連装ポンポン砲。発砲の反動で自動装填される仕組みで、ラッパのような銃身がリズミカルに動き、一分間に八百発もの四〇ミリ榴弾を撃ち出してくる。

 赤い曳痕が中空を刻む。春香機の周囲で時限信管が作動し、いくつもの火焔の花が咲いた。至近距離で炸裂した破片が機体表面に当たってガンガンと嫌な音を響かせる。

 敵の射撃は正確だ。恐らくは優秀な射撃指揮装置と連動している。葦原の機体は航続力や速力と引き換えに防弾性が皆無だし、いったん雷撃進路に入ると命中率を高めるため投下までほぼ等速直線で飛び続ける必要があり、回避ができない。直撃しないことを祈るしかない。


「距離八〇〇、高度一〇! 隊長!」


 風防の外、炎と煤煙からなる濃密な弾幕が、一瞬だけ開けた。「レパルス」の船体に、手を伸ばせば届きそう。

 距離六〇〇。


「テーッ!」


 春香の号令で、小日向が操縦席の魚雷投下スイッチを押した。

 爆管に点火するパン!という音。機体が一気に軽くなる。魚雷が抱締索を外れ自由落下を始めたのだが、春香からは見えない。

 その時春香に見えていたのは、「レパルス」の甲板で対空機銃を撃つブリトンの少女達だった。

 高高度からの水平爆撃では見ることのない、敵兵の姿。水飛沫でずぶ濡れの雨合羽に鉄兜、そばかす混じりの顔。

 見開かれた青い瞳と目が合う。その時、彼女達は何を思っただろう。自分は、どんな顔をしていただろう。

 一瞬だった。

 小日向が機首を上げ、視界は蒼穹に転ずる。


「飛び越えて!」


 ここで旋回したら蜂の巣にされる。

 全速力で直進し、「レパルス」の上を突っ切るのみ。

 際どくかすめたとほぼ同時に、後ろを見張る前川から報告。


「魚雷、水中に突入! 真っ直ぐ進んでます!」


 直後、機が左に旋回したので、春香からも自分の放った雷跡が見えた。

 良かった。制御システムのジャイロが正常に作動している。内部の燃料と高圧空気の混合ガスが高エネルギー燃焼を始め、魚雷は四五ノットの高速で進んで行く。

 その先には、「レパルス」の長い左舷舷側。そして。


「命中!」


 海を引き裂くような轟音と共に、一際高い水柱が上がった。

 「レパルス」が大きく揺れ、はっきりと左に傾く。


「やった」


 思わず笑みが零れる。皆、この瞬間のために厳しい訓練に明け暮れてきた。


「お見事です隊長!」


 小日向の喜びの声に春香が応えようとした、その時だった。


「隊長、二番機と三番機がっ!」


 前川の悲鳴。

 風防越しに左を見た春香は、凍り付いた。


 春香機の後に続いて魚雷を投下した二番機が、右翼のつけ根に被弾していた。


「桜井!」


 みるみるうちに片翼が折れ、桜井機は長い炎の尾を曳き、きりもみしながら海面に激突する。


 その後ろ、本田の三番機は両翼が火を噴いていた。ポンポン砲にやられたのだ。

 一式陸攻は主翼が燃料タンクになっている。

 防弾は無い。

 一度火がついたら、もう助からない。


「本田、機首を上げて! 脱出を!」


 届かぬと知りつつ、春香は叫んだ。

 炎に包まれた座席で、本田と彼女の部下達は春香に対し笑顔で敬礼を送っていた。

 空中で爆発。

 破片が降り注ぎ、海面に波紋をつくる。


「ああ……!」


 今朝、同じ基地の食堂で仲良く朝食をとった仲間が。

 その前の晩には一緒にサイゴンの夜店に繰り出した友が。

 北方事変からずっと戦ってきた、熟練の搭乗員が。

 七人と七人、一四人が一瞬で。

 中攻乗りは運命共同体だ。

 死ぬ時も一緒だ。


「隊長、二番機と三番機が投下した魚雷、二本とも命中です」


 萩原の冷静な声で、春香は辛うじて中隊長としての自分を取り戻す。

 左舷にほぼ同時に魚雷三本が命中した「レパルス」は、急速に復元力を失い、転覆しつつあった。

 攻撃した側である春香にとっても、それは驚くべき光景だった。前座に過ぎないはずの航空攻撃で、戦艦が沈んでいく。

 数秒前までの世界の常識が塗り替えられようとしている。

 しかし春香には、時代が変わる現場に立ち会えたという感慨は無かった。

 転覆する「レパルス」に向けて、敵の駆逐艦が二隻急行してくる。


「攻撃しましょう! 魚雷は無くても、まだ機銃が撃てます!」


 副偵察員の前川が、目を真っ赤にして言った。

 萩原が制止しようとするのも振り切り、


「お願いします隊長! 二番機と三番機の仇を!」


 三番機の搭乗員の中には、前川の同郷の幼馴染がいた。

 春香は機首の七・七ミリ旋回機銃を、そっと握り締める。

 尾部には二〇ミリ機銃だってある。駆逐艦相手なら損害を与えられるだろう。

 まして生身の人間に機銃掃射すれば木端微塵だ。

 転覆した「レパルス」の周囲の海面に、大勢のブリトンの少女達が浮かんでいるのが見えた。

 制空権は完全にこちらにある中で、二隻のブリトン軍の駆逐艦はわき目もふらず身を挺して救助に向かってくる。

 魚雷投下の瞬間に顔を合わせた、敵国の少女達を思い出す。

 春香は首を振った。


「……そんなことしても、私達の仲間は喜ばないよ」


 前川はうなだれ、やがてすすり泣きが漏れた。

 日頃は得意の動物の真似でみんなを笑わせたりするような、明るくて優しい子だ。

 萩原が、後ろからそっと無言で前川を抱き締める。

 春香は席を立つと、皆に湯呑を配り、携帯航空糧食のサイダーをついで回った。

 無事に雷撃を終えた第二小隊と第三小隊の六機も、春香機の周りに集まってくる。

 艦尾から沈む「レパルス」を見ながら乾杯した。

 味方機の電報は最初「『レパルス』沈没、『プリンセス・オブ・ウェールズ』は攻撃続行の要あり」だったのが、数分後には「『プリンセス・オブ・ウェールズ』沈没」に変わった。

 敵戦艦は二隻とも沈んだ。

 シンガポール防衛の要であったブリトン東洋艦隊はここに壊滅したのだ。


「奥山、ツドウモ基地からのビーコンは受信できてる? 萩原はどう?」

「ばっちりです!」「ビーコンが無くても、基地までご案内できますよ」

「高橋、帰りの燃料はもちそう?」

「はい、何とか!」

「そっか。……それじゃあ、帰ろう」


 光文一六年一二月一〇日。

 開戦から二日。まだ誰もが、始まったばかりのこの戦争に慣れていなかった。

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