第11話 がいしょく
薄暗いが真っ暗に変わってもう何時間もたつ。小枝は途中まで元気に遊んでいるような声を出していたが、さすがにいっこうに変わらない田畑の景色に飽きが回ってきたのだろう、小一時間前からその楽しそうな声が寝息に変わっていた。後部座席に横たわって寝ている少女の様子は、外からその存在を確認されない安心感のもと、寺原に安全運転を許した。
信号なんてほとんどない。ちゃんと歴史を勉強すればこの辺の地域がなぜ計画的に直線形なのかがよくわかるのだろうが、もう遅い。寺原に出来ることはただ法定速度で車を転がすことだけ。それ以上でもそれ以下でもない。
視界に入る光の割合が増えてくれば、それは街に差し掛かった証。彼女はその光に反応してむくりと起き上がる。
「つきましたか……?」
「残念だな、まだあともうひとつ先の街だ」
「ふぇぇ……」
北海道、それも道央のひとつ隣の街といったら、それはつまり数十キロ先の街を意味する。ゆえにまだ何十分も車に乗らねばならず、そんなことは彼女も十分承知のことであり、再び深くない眠りにつくのであった。寺原はそれを見てなんという感情も芽生えず、ハンドルを切ることもなくただ単にアクセルを踏むだけの操作を続けた。
再び小枝が目を覚ましたときが、ついに目的のアパートのある街にたどり着いたときだった。例によってむくりと起き上がると、外の景色に目を輝かせた。もっとも、外の街灯が彼女の黒く澄んだ瞳を照らしただけなのかもしれないが。
「もうひとつの街!」
「あまり揺らさないでくれ、事故る」
「だって、もうひとつの街ってところですよね!?」
「そうだ。お疲れさん。よく眠れたか?」
「はい! 元気いっぱいです!」
「それはよかった」
溢れんばかりの元気が彼女の行動や語気に表れていたから全く心配はしていなかったのだが、寺原は音楽もラジオもかけずに運転していたからか、コミュニケーション、ひいては言の葉そのものを渇望していた。くだらない言葉の掛け合い一つ一つが、彼の生活を一変させていた。何を隠そう、彼は釈放されてからというものの、全くの一人で生活していたのである。社交辞令や挨拶以外にも言語の使い道があったことを今さら噛み締めていた。
ぐー。
いったいどんな他ろの擬音が他に当てはまろうか。狭い車内から聞こえてきたひとつの生理的な音が寺原の耳に飛び込んできた。寺原は自身のものではないことを把握していたので、音の主がもちろん彼女であることに気づいていた。彼にとってそれが三大欲のひとつを満たせという脳からの指令であり、同時にそれは彼に出費の合図を送っているのであった。
「そういえばもうそんな時間か」
「お腹すきました」
彼女はそう言うと、体を横向きに倒した。彼女にとって食というものがどういうものなのか、この生活を始める前と後ではどんな違いがあるのか、そんなことは寺原にさえ十二分に理解されていた。一般的の概念が全くずれている彼女にとって、もはやどんなものを与えたところで感動に近い何かを覚えるのだろう。
では適当にその辺で拾った白菜でもごまかして食わせておけば、寺原にとっての出費にもならず、小枝にとっての不幸なもならないのであるが、それをしないのは寺原の優しさからか、もしくは後の見返りを求める心からだろう。もちろん、今晩のために彼は幾分か豪華な――もちろん彼にとっての豪華なのだが――食事をとることができるくらいには稼いでおいたのだ。
一軒だけ、このどこまでも続く田畑の景色の中にぽつんと建っている建物を知っている。それが寺原の住む地域から目的の地域に向かう間にある集落の始まりを示す。寺原がそれを見つけると、間もなく街の灯りに包まれるようになった。
全国チェーンのファミリーレストランが一軒だけある。もちろん寺原は足を踏み入れたことがないが、それだけでかい店ということは、身元がバレる可能性を低めている。つまり彼にとって現時点での最も安全なお食事処なのだ。木を隠すなら森へ。まさしく。
二名様でお待ちの山口さま――もちろん偽名である――が二人席に案内されると、小枝は真っ先にメニューに手を伸ばした。
「知らない食べ物がいっぱい……」
「小学生なら全部覚えてるぞ。九九より先にな」
その声が耳に入ったかは知らないが、とにかく小枝は物珍しそうに全てのページを見渡すと、突然目を輝かせた。
「これにします!」
「ハンバーグ本当に好きだな」
どことなく小学生のあどけなさが戻ってきている小枝の様子にほっとしながら、やって来た店員に小枝のそれと、寺原は自分用にミニサイズのライスも注文した。
「ここがレストランですか……」
「そうだ。高所得者にのみ許された最高の休日の過ごし方だぞ」
「そうなんですか、じゃあ私たちも仲間入りですか」
「なわけあるか」
そもそも高所得でさえここに来る必要条件でも十分条件でもない。ある程度稼いでいれば普通に食べに来られる。でも小枝はわずかに得意になったような表情をしていたから、寺原は知らない方がいいこともあるのは本当なんだなと、他人事のようにまとめてしまった。
「お待たせしました、目玉焼きハンバーグと、ライスのミニですね」
「すっご……」
別段すごくない。一般に見れば全くすごくない。彼女はこれが工場で一様に作られ、一度冷凍されてから再加熱されたものだということを知らない。それでも、彼女にとってそれが誕生日やクリスマスにさえ与えられない饗であることは間違いなかった。
「いただきます」
小枝はそう言うと、不馴れな手つきでナイフとフォークを手にしてハンバーグを頬張る。もはや、右手でフォークを持っていることに関して何かを言うこともなかった。その幸せそうな動き全てが、幸せとは対局に位置した数年を過ごした寺原にとって、グラフ上のどんな差で表される利潤よりも価値があった。
ずっと、この子と一緒にいたい。守ってあげたい。この笑顔を、声を、身体を――いっぺんに全て、自分で守ってあげたい。そんな感情が彼を支配するのも、全く疑問がなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます