第10話 ひっこし
車のエンジンはかかった。実はこの車も近くの老夫婦に戴いたものだ。年よりは免許を返納しないとね、とかなんとか言ってくれたのだ。免許は持っていた。もともと車がないと移動に苦労する地域だが、そんなもん軽トラさえあればおちゃのこさいさいだ、というのがそのおじいさんの言葉だった。結局、犯罪歴があるなんてのは五年前のニュースをよほど覚えているか履歴書を見ない限りはわからないのである。寺原はじつは地域住民から好かれていたのだ。もちろん、寺原にもその自覚はあった。だから、都合の悪くなったときはすぐに便りにした。
しかし、借り物なので昨日乗ったとしても今日動くか不安だったのだ。それだけ確認すると部屋に戻った。
小枝が外食をするのはもちろんはじめてのことであった。小六なめんなとはよく言っているが、それでも中身は小学生。小枝は寺原の口から出掛けることを宣言されるのを今か今かと待っていた。寺原はそれを全身で感じ取っていたが、出発については人が減ってきた頃合いを狙っていかないと万が一のことがあるので、少し遅くなってから出ることにしていた。目的地までは距離にして百二十キロほどあるが、それが二時間でたどり着くのがこの北海道のよさである。出発まではあと二時間と計画していた。
小枝はとうとう待ちきれなくなったか、何か暇潰しをしたいと訴えるようになった。ちょうど寺原も時間の空き方に辟易していた頃だったので、じゃあ散歩にでも出掛けよう、と提案した。黙って出ていくわけにもいかなかったので、どうせ大家には一声かけるつもりだったし、ついでにこの街を離れるいいきっかけになるだろう。五年も暮らせばその街にも愛着はわく。
時刻は五時前。まだ明るい。夏場の暑さはいくぶんか落ち着いてきている、実に散歩にぴったりの気温であった。
「大家に挨拶に行ってくるから、少し待ってろ。絶対出てくんなよ」
「はーい」
小枝はもう自分の立場を十二分に理解していた。もちろん、誘拐してくれと頼み込んだのは他でもない彼女自身であったが、彼女は寺原の状況を鑑みることができたのだ。要は、寺原における性癖と世間体のバランスの見極めが大事なのである。
自分の部屋は二階にあったが、大家は一階の角部屋に住んでいる。大家は寺原に犯罪歴のあることを知らない。
貧乏そうなのに、次の家はあるのか? 友人が貸してくれると。それはよかった。持つべきものは友達だよ。漏れ聞こえてきた台詞はそれで間違いなかった。小枝は最後の一フレーズだけしっかりと心にとどめておいた。持つべきものは友達だよ。本当にそうか?
「行くぞ」
寺原の声に、小枝はすぐに家を飛び出した。やっぱり、結局心は小学生なのである。
「隣町とは言えど、市は一緒だろ?」
「そうですね」
「生まれてからずっとか?」
「そうですね」
散歩、といっても特に見せるものはない。これが例えば横浜なら、やれこれがランドマークタワーだの、やれこれがコスモワールドだの、少し歩けば山下公園やら横浜スタジアムやら、とにかく観光名所でまみれているのだが、炭鉱一本で成長して、閉山と共に厳しい過疎に見舞われているこの都市にはもうそんなに見るところも残っていない。特にこの辺りは畑と田んぼしかないし、次の家はキロ単位で離れている。
が、小枝にはそれで十分だった。
「これはなんですか?」
「じゃがいも」
「これは?」
「玉ねぎ」
「これはなんです?」
「大根」
「これはお米です!」
「正解」
なんだろう、学校で最近習ったとかだろうか。この女の子はやけに作物に興味を示した。まあ、こんだけ色々なものを育てる畑がある地域は他にはないと思うし、ある程度テンションが上がるのは分からなくもないが、それにしてもこの子の喜びかたは常軌を逸していた。
「どうしてそんなに畑を見るのが楽しいんだ?」
率直に訊いてみたかった。寺原も小枝もその光景には慣れ親しんでいるはずだった。そしてさらに彼より小枝の方が長くこの地にいる。が、寺原はもうこんなのどかすぎる光景には飽き飽きしていた。元都会っ子にはコンビニのない生活に慣れるまでに大変な苦労を要した。
小枝は寺原の問いに少し考えるそぶりを見せた。そして歩きながら、畑を眺めるようにして口を開いた。
「畑になってる野菜とか、田んぼにできてるお米は、絶対に誰かの役に立ってるじゃないですか」
小枝の答えに、寺原は、そうか、とだけ呟くように残すと、小枝の手を引いた。側に寄った。もう彼には正義の欠片もないのに、寺原はどうしてか小枝を放ってはおけなかった。
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