第3話 あいさつ
小枝にとって、それはもはや新しい経験であった。バスタオルというものを見たことはある。祖母は毎日風呂に入るからだ。ただ、着替えをすることは一ヶ月に一回程度だし、何よりそのあと暖かいお湯を浴びるということが記憶の外だからである。少しテンションが上がっていた。
風呂場の扉を開けた。お世辞にも広いとは言えないが、小枝にとってそれは十分すぎる空間であった。おそらく四畳あるかないか程度のサイズだが、彼女にとってそこはもはやシャワーを見ても使い方がわからない世界なのである。
お湯が張ってあった。暖かい。小枝は右足の先を浸けてみる。同じく温かい。そのまま足の裏を浴槽の下に付けようとしたとき。
「先に体流せよ。お湯汚れんだろ」
一人の男が同じ空間に入ってきた。
「先に流すのがルールなんですか?」
「俺んちはそう何度も水を入れ換えられないんだよ。貧乏だからな。申し訳ないけどそれも一週間使い回してる。かなり臭いんだぞこれでも」
「そうなんですか……」
「お前のほうが臭いけどな。服からも臭ってたからあとでコインランドリー行くぞ。余計な出費かけさせやがって」
寺原はそう言うと、小枝に浴槽の縁に座らせるように指示した。
「ほんっと、くっさいなあ……」
「女の子に向かってくっさいくっさい連呼はやめてくださいよ」
「いやくっさいよこれ」
小枝は恥ずかしそうにうつむく。寺原は乱雑にその細い腕をつかむと、力任せにごしごし擦った。
「痛いです」
「うるせえ、黙ってろ」
二の腕からひじ、指一本一本まで、時に乱雑に、時に丁寧に洗っていく。次は左。そして足も。足の裏なんてこの世のものと思えないくらいに臭かった。でも寺原は洗った。
「背中向けろ」
言われて彼女は百八十度振り向こうとする。
「あー待て、足流してからな。狭いからうまく反転できないだろ。石鹸おとしてから湯船に足浸けとけ」
小枝はなんでも言われた通りにする。感じたことのない強さを肌に感じているのもそうだが、単純にこの体を洗うということの心地よさを体感しているのだ。
「あざだらけじゃねえか……」
「言われ慣れてます」
背中の真ん中に大きなあざがあるほか、各所に小さいのが転々としている。本当にかわいそうなほどボロボロの身体を、しかし寺原は一心に洗う。
「流すぞー」
一通りスポンジを当て終わり、シャワーを浴びせる。小枝は本当に気持ち良さそうに「ふわぁー」と一つ甘い息をついた。その声は寺原の内なる心を呼び覚ますのに十分だったが、彼はそれを押し込めた。
「次、髪行くぞ」
寺原は女性の髪を洗うことにも長けていた。もっとも、シャンプーやトリートメントには細心の注意を払って選んでいたのだ。過去形であるのは、彼が最後にそれを使ったのが捕まる前だからである。久々の感触だった。
「痒いところは?」
「痒くないところがないですよ」
「それもそうか」
寺原は慣れた手つきで少女を綺麗にしていった。ボサボサだった髪を生き返らせることにのみ集中した。
「よし」
シャンプーを流し終わると、本能からだろう、小枝は髪をふるふる振った。水しぶきが寺原にかかる。寺原は当初着衣であったが、この一連の作業で全体が濡れてしまうのを察した彼は背中を流す前に上半身を脱いでいる。しかし、結局ズボンも濡れていた。
「洗顔は自分でやれ。やり方わかるか? これを顔に塗って流すんだぞ」
「わかりました」
まさかそんなことも知らないのだろうか。彼女は慣れない手つきで洗顔料を手に取ると、乱雑に顔に塗り広げ、目を閉じたままシャワーヘッドを探し当て、無造作に顔を流した。
「ぷはー」
ふるふるふる。また水しぶきが寺原にかかった。寺原は仕方がないのでズボンも下着も脱いだ。もちろん、仕方がないとは彼の体裁である。全身を洗い終わるまで抑えておいたものがここで爆発してくるのだ。
「ありがとうございます。湯船も浸かっていいんですか?」
「もちろんだ。だが、俺は今一つ恩を売ったぞ?」
「はい。恩を買いました」
「じゃ、わかってるな?」
小枝は数瞬考えた。そして何かに気づくと、一瞬顔をしかめてから、いつもの無愛想な表情に戻った。この、少女がどうということのないことに対して大きなものを差し出すことを決意する瞬間が、寺原にはたまらなく魅力に感じられるのだ。
「わかりまし――」
寺原は唇に吸い付いた。「ん」に濁点をつけたような声をあげたあと、彼女はどこで覚えたのか知らないが舌を相手の口の中にねじ込んだ。久しぶりの熱い感触を感じた寺原はそこで理性が吹っ飛んだ。小枝の両腕を首にかけられながら、寺原はその華奢な身体を自身に密着させた。双方の不規則な声が室内にこだましていく。
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