第2話 暗殺者と恋と

「勇者リスクを、今日をもって、高級貴族の称号を与える!」


王宮の中にある一番格式の高い「不死鳥の間」で、ラダム国王と大臣、王女や貴族たちが見守る中、勇者として魔王「リムド」を倒し帰還したリスクたちは、休息の時間を与えられぬまま、王族への誓いと国王の「高級貴族」の称号の授与式に参加することになった。魔王を倒した「勇者の剣」を、ネロード・ラダム三世もといこの国の国王に差しだし、そのかわりに、ラダム王家の家紋である「不死鳥の刻印」が中心に刻まれた剣を、王の前でひざまづいた自分の肩に二度ほど当てられ、リスクは下級市民から「貴族」に、今日、なった。

「今日の気分はどうだ?リスク。いや、リスク子爵」

この国の王であるネロード・ラダム三世は、まだ、魔王を殺してきたとは思えない、そんな幼い残照が残る青年の、繊細でひどく脆い顔を上から見つめて、そう言った。

「・・・・・国王様・・・光栄でございます。下級市民出身の貧乏な私を、貴族の仲間に入れていただき、これ以上の幸せは、あるのでしょうか?」

リスクは、国王の顔を下から直視することが出来ず、肩を落とてひざを突いたまま、返事をした。

「顔を上げるがよい。リスク子爵。私の顔が見えるか?」

ラダム国王は、自分の両手で床に目線を落としているリスクの顔を持ち上げると、自分と目線が合わせるように仕向けた。

「あっ・・・」

無理矢理、国王と目があったリスクは、小さな吐息ともため息ともつかない声をあげた。

「今日から貴族なのだ。リスク子爵。貴族として、下をいつまでも見ていたら、他の貴族に笑われるぞ?自信を持て」

「・・・・・国王様・・・」

「・・・・・早く・・貴族の顔になるのだな・・・リスク・・・下級市民であったことなど・・・ここにいる全員が・・・忘れるくらいに・・・」

「はっ・・・はい!」

ラダム国王のその言葉に、涙を瞼の裏に浮かべるリスクは、歓喜と不安を胸に浮かべながらも、決意の声を上げた。

「・・・・・ン・・?・・・・」

リスクは、王の顔を前に少し呻いた。ラダム国王の顔が、少し目の中で歪んだような気がしたからだ。

「・・・どうした・・・?」

ラダムは、額に何重もの皺を横に走らせて、若く精悍な青年の顔をのぞき込んだ。ラダムの額に皺が多いのは、今までの彼の努力と根回しの結果だと思えば、それはリスクにとって、勲章に見えた。

「・・いえ・・・なんでもありません・・疲れと涙で・・・私の目がかすんだ・・だけです・・」

リスクは自分の涙で濡れた目を、指の先で、何度も何度もこすった。

「それはいかんな。このあと子爵たちのために晩餐会を予定しておるのに・・・少し休まれるかな・・・?」

ラダムの、顔にそぐわない気遣いに、慌ててリスクは反論をした。

「そんな。私めのために、晩餐会の開始の時間をずらすなど・・そんな気遣いは必要ありません。」

リスクはひざまづいたまま、後ろを振り返り、同じく王の前でひざまづいていた仲間のマラーナとルシファーに視線の照準を合わせた。マラーナは、リスクの無言の視線に、黙って微笑を返したが、無表情のルシファーの唇が、少し上に上がったのを、リスクは見逃さなかった。

「!?・・・・・・・・」

だが、国王を前にして、リスクの結論は変わらなかった。

「休憩など、我々には必要ありません」

唇を横一文字に結んで、決意の表情を浮かべるリスクの顔は、貴族の顔に変わりつつあった。後ろでルシファーが小さく呻いたような気がしたが、そんなことは、リスクにとって見れば、大した問題ではなかった。リスクの野望の行く末は、目の前のラダム国王の顔色に握られているといっても言い過ぎではなかったのである。彼の頭の中のマラーナとルシファーの影が薄くなっていることに、彼自身はまだ、気がついてはいなかった。

「よかろう。リスク子爵。王から最初の命を与える。持ち帰った魔王リルドの遺体を、城の地下室に運ぶのだ。これからの研究の対象にしたい!」

「喜んで、その命を果たします。ラダム国王陛下」

リスクの言い方にも、少しづつ、箔(はく)がつき始めていた。



「このお味は、飲んだことはありますかな?リスク子爵?」


晩餐会の注目の的は、やはりこの世界から魔王という「恐怖と不安」を取り除いてくれた、ひとりの若き青年に向けられていた。若き青年は、貴族たちの関心と少しの妬みと好奇心の目に晒されながらも、巧みな戦術眼と習ったばかりのお世辞という処世術を駆使して、なんとか貴族としての無難な対応を心がけていた。それを事前に特訓してくれたのも、マラーナのおかげなのだが。

「私のような下等な出身では、味の良さは、まだわかりません。ですが、これからは、本当の味を、知っていきたいと思います」

自分を一回、下に落としてから、ゼロの定位置に戻し、また周囲の人たちを、上へ上げる言葉は、周りの貴族たちの頭を通して、胸に響きわたる。

「素晴らしい!リスク子爵!何という教養と言葉づかいなのか!あなたは、私たちの本物のお酒の味をわかるのも、時間の問題ですな」

貴族たちは、下級市民出身の若き青年を、貴族として認め始めていた。

「・・・・・・・・・」

黙ってリスクは、笑いながら自分にすり寄ってきた貴族たちを、ゆっくりと観察していた。宝石や金のネックレス、貴金属に囲まれた彼らの欲望の『まぶしさ』に、自分の偏見と差別の心が少し胸でうずいた。

「ありがとうございます。私は貴族になったばかりでまだ何も知りません。またいずれお酒の席で、ご一緒出来る際は、いろいろ教えてください」

満面の笑みを浮かべてリスクの肩を何度もたたく貴族や、唇をへの字に変えた貴族もいる中、リスクは、自分の後方から自分に向けられる一つの視線を感じ、振り返った。

「失礼。リスク子爵と、お話しさせていただいても、よろしいでしょうか?」

瞬きをできないほどの金色の髪の輝き、透き通る青色のサファイヤの瞳、真紅の血の赤色をした形のよいふっくらとした唇、男を惑わせるような胸のふくらみと白くやわらかい肌を生まれもって身にまとった、第一王女のアリサは、そう言って貴族たちの人の波を、何もしないで分断すると、ゆっくりと貴族たちの輪の中心にいるリスクの前に歩いていった。歩き方もそれは優雅で、背筋も足の動きもバランスがよく、美しさと知性を外見で表現できる力、つまり生まれ持った王族としての血統の力を、リスクたちの前で、表現していた。

『これが・・・生まれ持った格差・・・永遠に埋まらない・・永遠にあらがえない支配者としてのオーラ・・・か・・・』

唾を飲み込む音さえも、彼女に、アリサに聞こえてしまうのではないかと思うリスクは、その圧倒的な支配者というオーラの前に、口で呼吸することを、しばらくの間、忘れているようだった。

「どうしたのかしら?リスク子爵?」

「・・・・・・・・」

数センチという距離まで自分に顔を近づけてきたアリサが、自分の表情を伺ってきた。どうやら、彼女には、嘘はつけないらしい。

「・・・アリサ王女様・・・・し・・・失礼しました。あまりにも・・・その・・・緊張してしまい・・・」

間近にいるアリサに目もろくに合わせられず、視線の照準を外し、床ばかりを見ているリスクを見て、アリサは、周囲に視線を拡散させた。

「ホラ・・・あなた方・・・何をしているのです!」

アリサの聞いたこともない大きな声に、一瞬、時が止まる貴族たち。

「・・・・・・アリサ王女・さま・・・?」

「何を?・・というのは・・・?」

事態がよく理解できない貴族たちは、一斉にアリサに向けて視線の照準を向けた。

「ホラ・・・何を呆けているの・・・?さっさと散りなさい!あなた方が質問責めをするから、リスク子爵が疲れているでしょう!」

そのアリサの言葉に、思わず床から視線をあげるリスク。

「いや・・アリサ王女・・・これは・・・」

リスクはそう言って飲みかけの赤ワインのグラスをテーブルに置く際、着ていた貴族の白い制服の端に、赤い小さなシミがついた。

「あなたたち!ここから席を外しなさい!私の言うことが聞こえないのですか!?」

アリサのさらなる怒った顔も、さらに美しかった。

「・・・リスク子爵・・申し訳ありません。アリサ王女・・・私たちは・・・これで・・・」

怒りが跳ね上がり、もの凄い剣幕で貴族たちをリスクの前から引きはがしたアリサは、単なる美女ではないと、そんな風にリスクは、この時、思った。

「ようやく、二人で、お話が出来るようになりましたね。リスク子爵」

白のワイングラスを片手に、水色のドレスを身に纏ったアリサが、ゆっくりと優しくリスクに微笑む。よく見るとアリサのドレスの肩の部分の肌が露出し、胸も大きく開いていた。気分が落ち着いたリスクには少し目にあまったが、それでもその妖艶なデザインのドレスが下品に見えず、嫌みがなく、娼婦という感じもしなくて、よく似合っていた。

「ええ・・・本当に・・・」

リスクに取り入ろうとする貴族たちを追い払ってくれたアリサに感謝の言葉を言うのも忘れ、アリサの『二人で』という言葉に、少し舞い上がっていた。不思議と周りの貴族たちの視線や騒音も、自分の耳には、聞こえなくなっていった。

「・・・リスク子爵は・・・赤ワインを飲んでらっしゃるのね・・・・好きなんですか?」

アリサはイタズラ猫のように目を少し細めながら、リスクを見た。

「今日、初めて飲みましたが、癖がありながらも好きな味です。これから、たくさん飲んでいきたいと思います」

「あら!アハハッ」

「ハハッ」

アリサと一緒に、笑いながらも、何がおもしろかったのだろうと考える、もうひとりの自分が、リスクの中にいた。

「あら?」

「どうかしたのですか?」

アリサは、リスクの制服の中に潜んでいた白のYシャツの右下の端に何かを見つけたのか、自分の両足を屈折させ、かがむようにそれをのぞき込んだ。

「!?アリサ王女さま!」。

突然の王女のお戯(たわむ)れに、心臓を跳ね上げるリスク。彼女のペースに飲み込まれ始めている自分自身は、男として不甲斐ないと思いながらも、リスクは悪くない気分であった。彼女はリスクの白のワイシャツに、赤いワインのシミがあるのを確認すると、自分が持っていた白ワインを口に含み、その赤いシミに向かって、唾を吐くように少しずつ吐き出して、白で赤を中和し始めた。

「・・あっ・・・」

リスクは見てしまった。自分が真上から、アリサをのぞき込む形になったこの状態で、肩を出し、胸の上をあけたドレスを来た、アリサの胸の谷間を。白く透き通るようなその柔らかい健康的な肌色とアルコールで少し赤みががった形のよい大きな胸を。それは、リスクの目の網膜に焼き付き、視覚を通して脳に記憶され、そして男の部分を、刺激していった。

「いけないわ!」

「!?」

そのアリサの言葉に、正気に戻ったリスクは、慌てて目の照準を、胸からアリサの顔に合わせた。

「申し訳ありません!」

とっさにアリサに無礼をわびたが、アリサはきょとんとした顔で、リスクを見ていた。

「?あなたは悪くないわよ?この赤いワインのシミがとれないから、本当にいけないなと思って・・」

「へ?」

アリサは、リスクが胸を凝視していたことに、気がついてはいないのだ。

「は?ハハッ・・・そうですね・・・今日中に洗濯をしないと・・いけないですね・・・」

照れを隠すように、リスクは、アリサに目を合わせる。

「え?リスク子爵は、ご自身で洋服を洗濯しているのでございますか?」

以外という顔を、リスクに向けるアリサ。

「ええ・・一人暮らしを始めたばかりで・・うまく出来ませんが・・なんとか・・・」

男らしく『出来ている』と嘘をつき、話を盛ることもリスクには出来たが、素直に出来ていないと話したのは、アリサのまっすぐな目に、嘘がつけなかったからだ。

「まあ・・・でもその年で独立されているなんて・・・しかもあの魔王を倒したリスク様を・・・私は尊敬いたします」

アリサは、リスクがひとりで洗濯が出来ないことなど、大した関心を示さなかった。

「ハハッ・・・たまたま運が良かっただけです。仲間にも助けられましたから・・・」

そういってリスクは、周囲を見渡したが、ルシファーもマラーナの姿も見あたらなかった。

「・・・あいつら・・・ワインでも、おかわりしに行ったのかな?」

リスクは、アリサに聞こえるか聞こえないかの小さな声で、独り言をつぶやいていた。

「どうかしましたか?」

アリサは、リスクの独り言に、反応した。

「いえ」

「リスク様の出身はどちらですか?今は、どこにお住まいになっていますの?」

アリサは、次々と、リスクの情報を聞き出してきた。

「ああ・・・・それはチバーリという、自然が多い場所で・・・」

「まあ!素敵!」

自然というキーワードにアリサは反応した。

「いえいえ。全然、田舎ですよ・・今は、城の近くのモーテルの二階を契約して短期間で借りてる状態で・・・これを機に近くに引っ越そうかと」

「素晴らしいですわ!是非、城の中に来てください!」

アリサの声は、一段と高くなる。

「城下町に、いい物件があります」

「本当ですか!?しかし・・・」

リスクは、眉をひそめた。

「大丈夫です。私が何とかします。そうすれば、お母様もこっちに呼べるでしょう?」

「!?どうしてそれを?」

リスクは、アリサの目を疑心の目で見た。アリサの目は、相変わらず、濁り一つなくリスクの視線を受けても堂々としていた。

「リスク子爵のお母様が、リスク様たちが魔王討伐に旅立ったあと、城に連絡をしてきたのです。息子を頼みますと。独りである私のことは一切、気にするなと」

「・・・・母さん・・・」

リスクは、少し涙を目にためていた。

「リスク子爵、あなたは立派です。その成果に報いることは、今度は、私たちの番です。城下町で、あなたと母が暮らしていける場所を提供いたします」

「ありがとうございます。アリサ様」

飲みかけの赤ワインを、テーブルの上にそっと置いて、リスクは自らの膝を折り、永遠の忠誠をアリサに誓うのだった。

「それと・・・」

子供のように微笑むアリサの目の前の笑顔があれば、今のリスクには、他に、何もいらなかった。



「あの・・・白ワインおかわりもらえますか?」

マラーナは、すでに赤く上気した頬を顔全体に身にまとい、給仕役の老紳士に、自分の空のグラスを向けた。

「おい、それで何杯目だ?」

マラーナの後ろで、ルシファーがため息と同時に言葉を混ぜた。

「五杯目」

マラーナは、ルシファーの方に顔を振り向かず、一気に白ワインを自分の体の中に口から流し込んだ。

「お前・・・何やってんだよ」

「ワイン飲んでる」

無言で、六杯目の白ワインのおかわりを、給仕に目線だけで送ったマラーナ。

「女の方がお酒好きなんだな。知らなかった」

ルシファーは、まだ一杯目のビールを、半分しか飲んでいない。

「女とか関係ないよ。私が好きなだけ」

六杯目のワインの半分を飲み干し、さらに顔を赤くしたマラーナの視線は、ある一点に向けられていた。

「お前・・・・何、見てんだ?・・・・ああ・・・そうか・・」

ルシファーは、自分で質問して、自分で納得していた。

「なに、ひとりで納得してんの?気持ち悪い・・」

不機嫌さを増したマラーナがルシファーに訪ねる。

「リスクのやつ、うまくやってんのな」

「・・・・・・・」

ちょうど、マラーナたちの視線の先では、リスクとアリサが、談笑している最中であった。

「・・・・なにやってんの・・リスクは・・・・」

マラーナは、ワインを飲むペースが、少し落ちてきた。

「・・・なに不機嫌になってんだよ?」

ルシファーの、ビールで上気した唇が、そう言う。

「不機嫌になんかなってない!」

ドンと、手に持っていたワインを大きな音を立ててテーブルの上に置くと、マラーナは、リスクたちから視線を外した。

「・・・それ・・・不機嫌じゃん」

「・・・・・・・・・・・」

何も言わず、マラーナは話題を変えた。

「私たちの立場って、どうなるの?」

「どうって?」

「・・・・貴族に・・・なれるの?」

その時だけは、マラーナの言葉は、シラフだった。

「・・・・・・・・・・・」

「ねぇ・・・私たちも、リスクと一緒に魔王を倒したメンバーなのよ!」

「・・・・そうだな・・・・」

ルシファーは、そっと右手に持っていたビールをテーブルに置くと、周囲の人間の動きを確認してから、マラーナの耳に自分の口を近づけた。

「俺たちは・・・下級市民のまま・・・らしい・・・」

ルシファーは、小声で、そう呟いた。

「!?」

絶句したマラーナは、ワイングラスを、手から滑り落とさせた。

「ガッシャン!」

周りの貴族たちが、怪訝な顔と視線を一斉に、マラーナたちに向けた。それはリスクとアリサも例外ではなかった。

「何でもありません!ちょっと酔っただけで!すぐ片づけますんで!」

ルシファーが大きな音に驚いた周囲にすかさずフォローをし、給仕役の人とすぐに、床に粉々に砕けちったワイングラスとマラーナの感情を拾い集める。

「・・・・どういうこと・・・?」

精神の糸が切れたマラーナが、割れたガラスの破片を拾うこともなく、ルシファーにつぶやいた。

「貴族のお偉いさんたちは、俺たち下級市民が自分たちと同じ身分になるのが気にくわないんだろ?魔王を倒したリスクひとりでも、そうとう揉めたらしいぜ?」

「・・・・・・・・・」

身分社会の差別の残るこの世界で、たとえ人類の驚異を除くような成果を出したとしても、認められない自分たちの理不尽さを、マラーナは唇を噛みしめることで、表現した。

「国王がそういう連中を一喝して、リスクを貴族に承認することが、昨日の夜遅くに決まったくらいだからさ。」

「え?式典の前日に?」

目を丸くしてマラーナがルシファーを見る。砕けたグラスの破片を給仕役の人にすべて渡したルシファーは、ようやく自分の体を起こして

「お偉いさんの体裁やプライドが邪魔しているんだろ。俺たちは討伐の成果報酬をもらえるだけで、ありがたいじゃないか」

と、マラーナに言葉を付け加えた。

「でも、対した額じゃないわ。あのお金・・・一生、食っていけるお金じゃない」

マラーナは、以外とそういう部分では計算が早かった。

「言うねぇ」

ルシファーはそう言って、飲みかけのビールを口の中に流し込んだ。ビールの苦みが、口の中だけでなく、体中に染み渡るのが、いつもよりも、長く、深く感じた。

「貴族のリスクに何とかしてもらおうよ。私たちの・・・」

「あいつにか?無理無理。すぐに俺たちのことなんか忘れて、女遊びをし始めるぜ?ホラ、あんな感じで」

ルシファーの鼻の先では、アリサと笑いながら談笑をする、顔を赤くしたリスクがいた。

「リスクはそんな人じゃない!」

マラーナはルシファーを、勢いよく睨みつけた。

「・・・・・なぁ・・・・・」

ルシファーは、マラーナに睨みつけられながらも持っていたビールを飲み干すと、マラーナの視線を合わせないように、おつまみを口に入れながら

「あいつのこと・・・好きなのか・・・?」

「!?」

と、ついに核心をついた。そしてマラーナは、ルシファーを睨みつけるのを、もう、止めた。

「・・・・・・・・・・・・」

「図星か!?」

核心を突いたつもりのルシファーも、完全にマラーナの気持ちを理解していたわけではない。

「魔王を倒すまでは、自分の気持ちを隠していたんだけど・・・ね・・」

目を細めるマラーナの頬は、赤く染まったまま、それがアルコールの性かどうかは、ルシファーにはわからなかった。

「そう・・だったの・・かぁ・・・」

ため息のような、吐息のような言葉を口から吐くルシファー。

「・・・・・・別に貴族になったからとか・・・大金持ちになったとか・・そういう理由で好きになったわけじゃ・・・ないよ・・」

「わかってる」

「でも・・・いいのか・・・?」

「なにが・・・?」

「もう・・・魔王は倒したんだぜ・・?俺たち・・・」

ルシファーは、いつのまにか、赤ワインが注がれたグラスを自分の右手に持って、ゆっくりと中にある赤の海に波を立たせていた。

「・・・・・・・・・・・」

「・・・想いを・・・伝えなくて・・・いいのか・・・?」

「・・・・・・・・・・・」

「ホラ・・・リスク子爵は・・・横が空いた・・ぜ・・?」

マラーナは、床に伏せていた視線をリスクの方向に合わせた。さっきまでアリサ王女と談笑していたリスクは、テーブルにおいてあった赤ワインを一口、口に含むとワインをおいて、歩き始めた。

「リスク!」

マラーナは、小さく呻いた。私の声で、彼が気がついてこっちに歩いて来るのかもしれない。そんな淡い恋心が、マラーナの小さい身体の中で、どんどん大きくなって、彼女を突き上げてきた。

「・・・・・・・ッツ!!」

しかし、マラーナとルシファーの予想に反して、リスクは、こちらに足を運ばず、お酒のおかわりもしに行かず、外のテラスの方向に向かって行った。

「・・・・・・・・・・」

「・・・・外の風でも・・・あたりに行ったのかな・・・?」

わざと、マラーナの耳にも聞こえるように、ルシファーは言った。

「・・・・・・・・・・」

「あそこは・・・夜は・・あまり人は寄りつかない場所だぜ・・?幽霊や変なものがでるって、噂が多いから・・・」

「・・・私たち下級市民は・・・入れるの?あのテラスに・・・」

ルシファーの目を、まっすぐ見つめるマラーナの決意の目が、すぐ、ちかくにあった。

「さあ・・・?でも・・・俺が何とかするよ・・・」

抽象的に、マラーナの背中を押すルシファーに、マラーナの心は決まった。

「ありがとう!優しいのね。ルシファー」

ルシファーの両手をつかんで、感謝の言葉を伝えるマラーナ。苦笑いを浮かべるルシファー。そしてテラスに消えていったリスクを追って、マラーナは、ゆっくりと、だが確実に歩いていった。途中で水を飲むことも、忘れずに。

「がんばれよ。マラーナ」

彼女の小さな背中が見えなくなるまで、手を振るルシファー。彼女が夜の闇に消えた瞬間、

「・・・・・チッ・・・・」

吐き捨てるように、小さく、彼は自分の唾を床に吐いた。ただ、それだけで、あった。



分厚い装飾された外扉を開けると、テラスには、以外と冷気があたりに漂っていた。夏の夜は、蒸し暑いと勝手に思いこんでいたリスクにとって、意外な寒さの歓迎は、自分の身体の調子を狂わせていた。

「クシュン!」

鼻からそんな軽快な音を出したリスクは、一瞬にして酔いが醒めると、風邪をひくわけにはいかない自分自身を感じ、部屋(なか)へすぐに戻ろうとした。とき、ふと夜の空を見上げた。

「あっ・・」

今日は、何故か、満月であった。真っ黒な夜の海の中で、それは陽炎のようなオレンジ色の光を放ち、昼間の太陽の影武者として、この世界の闇をたったひとり、照らしていた。それは白亜の満月しか知らないリスクにとって、幻想的で、そして背中の神経を震わせていった。

「あんなに白く美しい顔をするお前も・・・たまにそんな顔をする時が・・あるのだな・・・」

彼は、月の別の顔を知った自分を幸運だなと思い、その幸運を背負って部屋へ戻ろうとしたその刹那の時、自分の背後に、殺気と悪寒が同時に襲ってきたことを、すぐに関知することができた。それは、幾多の戦場や死闘を駆け抜けてきた、戦士だけが身につくことが出来る、スキルであったかもしれなかった。

「!?」

咄嗟に、自分の身体すべてを、殺気を放ってくる正面に軌道修正(むきなお)し、自分の所持している武器を、殺気から視線を外さずに、手だけでひとつずつ、確かめる。

『正面の木の陰にひとり、ベンチの影にひとり、左横の石像の影にひとり』

長時間、夜の闇にいたせいか、目が闇に異常に慣れていたリスクは、正確に敵の数を把握することが出来た。そして自分の視線のギリギリの死角に潜んでいる敵は、明らかにこういう事に慣れている証でもあった。

『殺気が俺に漏れたのは、相手が少し油断したからか?』

そんな事を思いながら、リスクは手元の武器を確認する自分の手が停止した。

『護身用の武器がない!?あるのはさっきテーブルの上から持ってきたテキーラの小瓶と記念品のマッチ!?』

他に武器らしいものもない。誰かが、自分を助ける為にテラスに来る気配もない。自分ひとりで、この窮地をなんとかしなければ、死ぬ運命しか俺には待っていない。

「ゴクッ・・」

喉がひとり鳴った。まさか、戦うのが人間相手なのは久しぶりだ。しかも、こっちには武器がない。

『どうする・・・どうする・・・どうする・・・俺?』

戦場の摩擦(人間が予測不能の不確定要素)を考えて、リスクは戦場を駆け抜けた、あの日の戦闘勘を呼び覚ました。急に霧が、リスクたちのいるテラスの夜の闇に忍び込んできた。夜の闇の暗さに加えて、さらに視界が灰色の霧で遮られれば、お互いに相手の位置が掴みづらくなるのは、この場にいる全員が理解していた。物陰に隠れている彼ら三人は、リスクの位置が正確にはわかっていなかった。そして物音ひとつしないテラスで、闇の中に、ひとすじの赤く淡い光が灯った。

「!?」

リスクが、正確に『俺は、ここにいるぞ!』と自分の位置を敵に教えてきたのだ。しかし、そんなことは戦場では、常識としてあり得なかった。自分の場所を敵に教えることは、結局、己の『死』を意味しているからだ。

『なんだ・・?あいつは、馬鹿なのか?それとも罠か?酔っぱらってタバコを吸うためにマッチで火をつけただけか?』

「・・・・・・・・」

リスクの意味不明な行動に暗殺用の短剣を握る手が、手のひらから吹き出した汗で滑らかになる。時間がない。リーダーの指示が通らない以上、ここは、恨みはないが、いくしかない。

「覚悟!!」

石像の裏に隠れていた人影が、霧の闇をぬけてまっすぐ淡い灯りの方角へ走っていった。右手にさきほどの短剣を握しめて。そして、灯りの場所にたどり着いた瞬間、彼は気づいた。

「霧の正体は、これか!?」

彼が絶好の暗殺のチャンスとして飛び出した先にあったのは、リスクそのものではなく、木の枝の先が燃えている灯りの光であった。それが灰色の煙を吐き出しながら、あたりに煙と同じ成分の濃い霧を発生させていた、だけ、であった。

「そういうことだ!」

暗殺者の背後で野太い男の声がした。振り向いたときには、もう、すべてが終わっていた。

「ブッ!!」

リスクは、マッチを左手に、テキーラの瓶を右手にもって、口から不愉快な音と共に、何かの液体を目の前のマッチの火に吹きかけていた。

「!?」

灼熱の炎が、勢いよく暗殺者の上半身に襲いかかった。私は持っていた暗殺用の短剣を落とし、水を探して、地面を転げ回った。

「ぐああああ」

熱さと炎で、悶絶しながら、その様子を見ているリスクが、何かを呟いた。

「・・・すまない」

「・・・・・・・」

謝罪ではない。そんな偽善という言葉を吐くならば、最初からしなければいいのだ。私は目の前の男が言った偽善の言葉を耳にした直後、胸に痛烈な痛みが襲った。

「グッ!」

目の前の殺すべき相手が、自分の持っていた短剣を奪い、それを私の胸に突き刺したことを、なんとなく知った。

「なんてことを!」

そう思った直後に、自分の意識が薄れ始める。自分がリスクを暗殺しようとした行為も棚に上げて、私は、彼を憎んだ。血が胸から大量に流れ出し、私が永遠の死の旅へと向かっていくのを、リスクは、冷徹に見ていた。

「ひとり殺ったぞ!」

リスクが、周りの潜んでいる敵に向かって、そう、叫んだ。

「この野郎!」

ベンチの裏に隠れていた敵のひとりが、仲間の悲鳴を聞き、そしてリスクの挑発を聞いて、ガムシャラに突撃してきた。

「残りの、敵、二人!」

冷たい床に横たわる敵の胸に突き刺さった剣を、リスクは静かに抜くと、石像の後ろに身を隠し、襲ってくる敵の攻撃に備えた。

「テキーラを使った火炎放射戦法は、俺には効かんぞ!」

すべてを見ていたもう一人の敵は、リスクにそう言って向かってきた。

「・・・・・・・・・・・」

リスクは、真正面から向かってくる敵を見ながら、もう一人の敵が加勢してこない事を静かに確認すると、ゆっくりとした動作でその場から動かなかった。

「久しぶりに、アレ・・・発動するか・・・」

リスクは、ゆっくりと深い深呼吸をしながらゆっくりと目を閉じた。敵は、そのリスクの行動を、闇に慣れた二つの目で、しっかりと見ていた。

『・・・あいつ・・・戦闘中に敵を見ることを止めるなんて・・・自殺したいのか?』

意味不明な、予測できない相手の行動こそ、真の恐怖にかられることはない。だが敵は、石像に隠れているリスクに向かって進むのを止めなかった。途中で敵はまっすぐリスクには近づかずに、リスクの後方に静かに旋回すると、まだ目をつぶっているリスクの背後にゆっくり忍び寄り、自分の剣を鞘から解放すると、両腕の力を振り上げ、一気にリスクの身体めがけて、それを振り下ろした。

『殺せる!いける!』

勝利の女神が脳裏で微笑んだ瞬間、目の前の自分の両腕に、重い衝撃が走った。

「えっ!?」

気の抜けた自分の声の先に、見覚えのある両腕が、宙に舞っているのが見えた。

「・・・あっ・・・」

自分の身体から綺麗な切り口で分断されたそれは、暗殺用の剣を持ったまま、空中で回転し、永遠に自分の身体とつながることを拒否していることを、はっきりと本体に示していた。

「あっ・・・ああ・・・・」

肘から前の両腕を切断されて、断末魔の声を漏らしている敵の下で、一人の青年が、静かに勝利の笑いをしていた。

「・・・勇者の力・・・発動!」

瞼を開けて金色の瞳を現したリスクは、右手からほとばしる白いオーラを自分の持っていた剣に付加させて、白亜の剣として一瞬で、目の前の敵の両腕をこの世から分断することに成功した。剣としての殺傷能力が倍加したその白亜の剣は、どんなものでもこの世界で斬れない物はないという威力であることをリスクは知っていた。また敵の反応速度が鈍いのは、敵が遅くなったわけではなくリスクの金色の瞳がリスクの身体能力を倍加させ、光の世界を通ってくるからである。つまりリスクの勇者の能力とは、敵の動きよりも先の、神速の未来に行ける能力だった。

「遅い!」

二人目の刺客に、最後の一撃を加えるのに、数秒と、リスクはかからなかった。

「残りは、ひとり・・・か・・・いける!』

敵が何故、自分を殺そうとするのか、それは、後で考えればいい。こちらは、あの三対一というかなりの劣勢から攻勢に状況を変えただけで、十分だ。敵と同じ土俵に立てれば、勇者である俺が、絶対に、負けるわけがないのだ。

「・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・」

最後の一人の敵は、闇の中で、物音ひとつ立てず、目に見えない場所から、じっとリスクを見ていた。それはすぐに自分を攻撃してくると思い、臨戦態勢をとっていたリスクにとって予想外の展開だった。

「あ!?」

敵はリスクに背を向けて、手入れが十分にされていない雑木林の中へ飛び込んだ。

「逃げる気か!?」

敵がまさか逃げるという選択肢を選ぶとは思わなかったリスクは、敵を追うタイミングが、半歩遅れた。そして死角に入って姿を見えなくなった相手を、急いで追った。

「ここで逃がしたら、誰が俺を殺す命令をしたのかわからなくなる!」

リスクは、恐怖心を忘れ、敵が消えた雑木林へ自分も飛び込んだ。

『敵が武器を捨てて逃げたら、追う必要なんかないのよ!』

マラーナの声が、リスクの脳内で鳴り響く。

『敵を叩けるときに叩かなければ、また襲ってくるだろう!?』

リスクも、脳内でマラーナに反論する。

『何があるか、わからないまま、無闇に飛び込んで・・・リスクをあげてどうするのよ!?』

「正論だよ・・・マラーナ。いつもお前の正論を、俺は嫌々、聞いてたっけな。そして、それはいつも正しかった。結果論としてだが・・・」

バシャッ

雑木林に飛び込んだリスクの左足にロープが蛇のように巻き付いてきた。

「ンガッ!」

そしてそのロープによってリスクの身体すべてが空中に跳ね上がった。もう少し正確に言うならば、敵が仕掛けていた罠に、俺がまんまと引っかかったのだ。自分の身体が上下反対になり、ロープによって宙に浮いた身体は、完全な無防備になっていた。

「ガッ・・・」

ロープ一本で宙づりにされ、全身の血液が、ゆっくりと重力に負けて頭に降りてくる。気持ちの悪い不快感が、リスクを襲い始めた。

「・・・・・・・」

リスクは今までの場面で自分の油断と迂闊さを、何度もマラーナに救ってもらったことを思い出した。彼女の忠告を守るときもあったが、忠告を守らないときも、上手くいった時があった。ので、旅の後半は、彼女の母親のような小言を、返事をしながら、なかば『無視』していた。

それが、いけなかったのだ。この土壇場で、その代償を、リスクは、自分の命で、償わなければいけなかった。

「・・・・・・・フッ・・フフッ・・・」

暗闇の中で、リスクに罠を仕掛けた敵が、静かに笑った。相手を自分の戦術通りにはめた快感か、それとも死の恐怖から解放された余裕からか。

「・・・・・・・・・・・・・」

「何が可笑しいか?こんな状況で?」

リスクは、敵と一番のタブーである対話を試み始めた。

「!?」

まさか罠にかかって、もがいている目の前の敵に、いきなり話しかけられるとは夢にも思っていなかったのか、頭から黒い布を全身に身にまとった敵は、リスクに何も返事を返すことが出来ずに、少しの間、絶句していた。

「・・・・・・・・・・」

「・・・良い風景だな・・・元・・勇者さまよ・・・今は・・・貴族の成り上がりか・・?」

リスクの対話という車に、相手が、乗ってきた。

「・・・どうして・・・俺を殺そうとした・・?」

「・・・・・俺が・・・そんなことを・・・しゃべると思うのか・・?」

敵の性別は男だと、リスクは理解できた。

「・・・俺が死ぬ前に・・・・それくらいは聞いてもバチは当たらないと思うが?」

「お前は初めから地獄行だ・・・・今更・・・バチなんて気にするたまかよ?」

「そうだな・・俺はまだ死なないから・・これから地獄に逝くお前には、関係のないことかもな」

そのリスクの言葉に、敵の身体が、一瞬、跳ね上がった。

「ああ!?」

急にさっきまで一定の声色で喋ってい敵の男の声に、怒号の成分が大量に含まれ始めた。

「お前!自分がまだ死なないと思っているのか?お目でてーな?あん?」

粗雑な言葉で、語尾をあげる癖は、教育をまともに受けていない俺と同じ下級市民出身かもしれないとリスクは思った。

「フン。俺を殺すお前が、地獄以外の場所に行けると思うのか?」

「お前こそ、よくそんな言葉が出てくるな。自分を何様だと思ってるんだ?上から物を言いやがって!勇者だからか?」

敵の男の怒りは、闇の中でも、十分、リスクに伝わってきた。

「そうだ。俺は、勇者だ」

リスクは自分で、ゆっくりと言葉を絞り出す。

「だが、いつも、あいつに助けてもらっていた。俺が焦ったり、気負っていたとき、いつもあいつが居てくれた・・・」

「なに・・独り言をブツブツいってるんだ?おめー?」

敵が、リスクを気味悪がって、腰に差していた剣に手をかける。

「あいつが居てくれたら・・こんな二流の罠に引っかかることなんか・・なかった・・・」

「ああ?こんな二流の罠で、今から死ぬのに何をいってるんだ!?てめーはよ!」

敵は、自分の腰から抜いた剣を夜の天に向かって振り上げ、満月の光を自分の剣に浴びせて、それを一気に上から下までリスクの身体に持って行く

「地獄でその女に、一生・・・謝ってろ!!成り上がりが!」

「そう。そうだよな、マラーナ!!」

「ここから消滅せよ!汝の前にいる、悪しき魂を!!」

リスクの声を合図に、リスクの後ろにいつのまにか構えていたマラーナの手から、巨大な白い閃光のような魔法が飛び出した。それはリスクの右足にからみついたロープを一瞬で消滅させ、白い気の固まりとなって、まっすぐリスクの命を奪い取ろうと剣を降りおろそうとしていた敵に向かって、真正面から吸い込まれていった。

「ギャアアアア!!」

白い炎は、敵の全身に纏わりつき、高熱と苦痛を瞬時に敵に与えていた。敵は持っていた剣を床に落とし、止むことのない悪夢に悶絶していた。

「・・・・・・・・」

それを見て絶句しているリスクは、死ぬはずだった自分の命をマラーナに救われたという事実がいまだ信じられず、目の前にいる敵の死ぬ運命をただ、眺めているだけであった。それも数秒後に自分の中で確信に変われば、リスクは、マラーナに救われた自分の命の輝きを実感できた。

「マラーナ!」

背後の闇の中に目を向けて、マラーナの意識の襞(ひだ)をゆっくりと探していくリスク。自分を寸前の死の地獄から拾い上げてくれた、あの細く、だが、はっきりとした意思の力を、リスクは、慎重に拾い上げた。

「マラーナ!大丈夫か!?」

「・・リ・・リク・・・」

消滅魔法で敵を撃退したマラーナの細いちいさな腕は、まだ、人を殺したという震えから立ち直ってはおらず、死と絶望の間で小刻みに震えていた。人間以外で魔法を使って殺した経験がないマラーナは、ここに来て、人生で初めての殺人と呼ばれる醜悪な経験に、小さい身体は衝撃をまともに受けていた。

「リ・・・リク・・」

「マラーナ・・・怪我はないか?」

何もいわず、首を横に降り続けるマラーナ。それよりもマラーナの鼻の下にある口紅を塗った艶やかな唇が、何かを、言わんとしていた。

「わ・・わたし・・・ヒト・・・殺しちゃった」

「・・・・・・・・・・・」

自分を助けるために、怪物以外に初めて『人間』に対して魔法を使ったマラーナを、リスクは責めなかった。責める必要がなかった。それどころか自分に危険を顧みずに魔法を使ってくれたマラーナに愛おしさを感じ始めていた。

「マラーナ・・・」

リスクは不意に、震えているマラーナの小さな身体を抱きしめた。こんな状況でこんなことは卑怯だと、自分の胸が静かに言っていた。だが、胸を突き上げる男の欲の衝動に、リスクは勝てなかった。

「・・・リク・・・」

いつのまにか、マラーナは、リスクを愛称で呼び始めたことを、リスクは感じ取った。そして震えが止まった彼女の身体が、抱きしめられたリスクの身体に応えた。愛は、性から生まれるものか、それとも精神が生み出すものか、どちらなのかという問いは、永遠に人類にとっての、解答不能の試験問題であったかもしれない。

「・・・マラーナ・・お前が殺したのは・・ヒトじゃない・・・」

「・・・・うん・・・うん・・・・・」

耳元で、マラーナに息を吹きかけるように言葉を吐き出すリスク。マラーナの身体が、だんだん、熱をおびてくる。彼女の願いは、思いもかげないカタチで、叶ってしまった。

「・・・・・・俺が・・・確かめたよ・・・あれは・・ヒトの皮をかぶった・・・化け物だ・・・ヒトじゃない」

「・・・うん・・・・・・・うん・・・リクがそう言うなら・・私・・信じる・・・」

「そうだよ・・マラーナ・・・この世界には・・・いるんだ・・人間の中に・・・化け物が紛れているんだ・・・恐怖と傲慢と欲望を兼ね備えた・・・悪魔が・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・」

黙ってリスクに同調するマラーナは、自分の頭で判断することを放棄し、リスクに心も思考も、全部、預けていた。

「俺が・・・お前を守るよ・・・お前が俺を守ってくれたように・・・」

「・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・」

「・・・・・嬉しい・・・・」

リスクの唇が、自然にマラーナにゆっくりと近づく。彼女はそれを知って、彼の唇を受け入れる準備を始める。そして二つのそれが重なったとき、何かが生まれはじめた。そしてさらに二人は、何度も自分の唇を押しつけあった。


リスクは、その夜、マラーナを求めた。熱い吐息と汗が混じり合ったその夜は、まだ夜明けがくることを、永遠に拒み続けていた、ようであった。


そしてリスクは、マラーナにちゃんと『愛している』ということを言うのを、忘れていた。

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