12
カズオが医者に呼ばれたのは、雄輔の小学校入学を翌年にひかえた年の暮れだった。カズオはサチコと連名で、ライトブルーのランドセルと、それにあわせた文具セットを贈っていた。
医者は写真を示しながら
「ここに白い影があるのが分かりますか?肺ガンです。しかもかなり進行しています。もっと早く気がつかなければいけなかったのですが、奥さんは忍耐強い人だから、痛みなどを訴えることもありませんでしたし……。それに、ご存じのように、どこか達観しているような所があって、ご自分の健康とか、もっと言えば、生きることそのものへの執着というのか、そういうものがなかったので、まったく気付かずにいました。申し訳ないとしか言いようがありませんが……」
「かなり悪いのですか?」
「歳が歳ですから進行もそう速くはないので、急にどうこうというようなことはありません。ただ、終わりはそう遠くはない、と申し上げておいた方がいいでしょう。」
「どのくらい、あとどの位、生きていられるんでしょうか?」
「ですから、今申し上げたように、何とも申し上げられません。ただ、覚悟だけはしておいていただいた方がいいと思います。」
突然、怒りのようなものが、体のどこか奥深いところから、これまでの人生の底の方から、突き上げるようにして吹き上がってきた。
「二十九歳でした。サチコがああなってしまったのは。」
承知しています、というように、医者は大きく頷いた。
「なぜ、」
そう言って、カズオは絶句した。先ほどから吹き上げてくる怒りのやり場を求めるように、カズオは言葉を探した。それはこれまでの人生のどこかに隠されているような気がする。あるいは、カズオがこれまで一度も口にしたことのない、心の奥深く仕舞い込んでいた言葉なのかも知れない。けれど、それが何なのか、いくら考えてもカズオには分からなかった。
「家内は、サチコは、どこにいるんですか?」
やっとそれだけを言うと、カズオは両手で顔を覆った。
その日から、カズオは出来る限りサチコの傍にいるようにした。そうして、繰り返し繰り返し、想い出を語ってもらった。そこには、カズオとサチコと悠子の三人の家族の姿があった。自分が今まで生きてきた人生と、サチコの語る家族の物語と、どっちが本当だったのか、カズオには区別がつかなくなりつつあった。それほどサチコの語る思い出はリアルだった。話を聞きながら、カズオは何度も笑い、そして何度も泣いた。カズオは、残り少ない人生の終わりに、もし自分が惚けてしまうならば、自分の中の思い出はサチコの語る想い出の方であって欲しいと強く願った。
ある日カズオは唐突にサチコに問いかけた。
「例えばですよ、子供が生まれると、親の人生って子供のためだけにあるみたいになるでしょ。そうして、子供が大きくなるに連れて、親はどんどん歳を取っていく。そうしてそれだけ。子育ては、苦労も多いけれど、喜びもたくさんある、それは分かるんですが、それで一生はあっという間に過ぎてしまう、そんな風に思ったことはありませんか?自分の人生って何だろうって。」
三十年以上も前にサチコに問われたことを、カズオは口にしていた。
「実は私ね、同じようなことを言って、主人を困らせたことがあるんの。でも、主人は平凡が一番、って言ったわ……、そうして、この歳になると、主人の言っていたことが正しいって、よく分かる。でも、あの頃は、きっと何度もこんな質問をして主人を困らせたと思うの。何十年も先の自分のことを思い浮かべると、子育てだけで人生が終わってしまう。その間にあった出来事なんて、みんなちっぽけでつまらないことばかりで、そんなことのために自分は生きていくんだろうかって。そう思うと、生きている意味が分からなくなってしまって。でも、主人はその度に、同じことを答えてくれたわ。平凡に生きることが、本当は一番素敵なことなんだって。何もない人生なんかないものよ。私の人生も波瀾万丈、素敵なことがたくさんあったわ。そして今も。今日だって、主人だけでなくて、あなたのような人にお会いできたし。」
そう言うと、サチコは、大丈夫!というように、カズオに微笑みかけた。その笑顔を見ているうちに、カズオには以前からサチコに聞いてみたいと思い続けてきた事を、聞いてみようと思った。気恥ずかしく、また、実はどうでもいいことでもあるのだが、聞かずにはいられない事でもあった。
「僕は、いやその、ご主人は、女性関係は、あの、どうでしたか?浮気をするとか。」
おずおずと尋ねると、サチコはまあ、というように、口に手を当てて、小さく笑った。
「女性には疎い人なんですよ。何もなかったと思います。私の知っている限りでは。でも、本当に何もなかったんじゃないでしょうか。優しいいんだか、小心者なんだか、それとも、やっぱり私だけを愛してたのかしら。やだ、こんなこと言ったら思い上がりって言われそうですね。でも、私はずっと主人が好きで、主人もそうだと信じていて。いいものよ、曇りない人生って。」
カズオは黙ってサチコの言葉に耳を傾けていた。涙が止まらなかった。
「……そうか、僕は君の人生の中でも浮気はしていないか、そうか。」カズオは何度も何度も頷いていた。自分がサチコを傷つけていなかったことが、無性に嬉しかった。
「ええ、そうですよね。誰にでも誇れる、曇りない人生って、カッコいいです。僕もそうやって生きて来ました。」
「そう言えば、あなた奥様は?」
「います。」
「愛していらっしゃる?」
「掛け替えのない人です。」
「まあ、ごちそうさま。」
サチコは眩しそうにカズオの顔を見ると、笑い出した。
「へん、ですか?」
「いいえ、ちっとも。」
そう言って笑い続けるサチコを見つめながら、カズオは、今、サチコに「あなたの人生は幸せでしたか?」と聞けば、間違いなく「幸せだった」と答えるのだろうと思った。あの二十九歳の夏以降、サチコは、カズオと悠子と、そうして悠子の夫と二人の孫達に囲まれて、幸せに歳を取り続けているのだから。けれど、それは、カズオが生きている世界からは、遠く隔たったところにある。あの日以来、サチコは一度もカズオを夫として見ることはなかった。サチコの視線の先には、別のカズオがいつもいた。それを自分は「幸せ」と言ってよいのだろうか?何ものかからの答えを待つように、カズオはじっと空を見上げた。
僕が、君を、見つけた日 ―The Time Traveler’s Husband― @say37
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