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4歳になった雄輔の手を引いて、悠子がやって来た。31歳の逞しい腕の中には、乳飲み子の智子が抱かれていた。
雄輔を出産してから、すでに4年が過ぎていた。
「雄輔、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんにご挨拶しなさい。智子も。ようやく生まれまちた、って。」
「まあ、可愛い赤ちゃんね。トモコちゃんって言うの?孫と同じ名前ね。ユウスケちゃん?奇遇ねえ。この子も同じ。何かご縁でもあるのかしら?」
髪に白い物の混じったサチコの顔は、嬉しそうにほころんでいた。
カズオは、悠子の後ろの方を見遣りながら尋ねた。
「大輔君はどうした?また仕事かい?」
「そう。やらなきゃならない仕事が入ったんだって。パパに似て、人がよすぎるのよ。休日返上で何でもかんでも引き受けるんだから。」
「パパに似てるって言ったって、パパのせいじゃないだろ。お前がパパに似た男を選んだってことだ。要するに、パパが好きだって事だな。」
「そんなの当たり前でしょ。それとも、パパ大好き!って今さら言ってほしいわけ?」
「ああ、できれば聞きたいね。」
「パパ大好き。これで満足した?でも、パパよりママの方がずーと好き。」
せわしなく動き回っている雄輔を目で追いながら、悠子は言った。
「子供の頃は、どうして私にママがいないんだろうって思ったわ。パパが、ママの所に私を連れてきて、この人がママだよって、何回言っても、その度に『違う!』って思ってた。一緒に買い物したり、遊びに行ったり、そして時々叱られたり、そんなこと、家じゃ一度もないから。パパにはママかもしれないけど、私にはママじゃない、って思ったの。」
悠子はベッドの中のサチコの腕に、智子をそっと預けると、いつものように病室の隅にあるテーブルのカズオの向かいの椅子に腰を掛けた。
サチコは智子の寝顔を見ながら、子守歌を歌っている。その声に耳を傾けながら、悠子は
「私、ママの子守歌、覚えてるのよ。」と言った。
「お腹の中にいるときに、ずっと歌ってたんだよ。」
「そうか。だから懐かしいのね。でも、他にもあるのよ。」
「なにが?」
「ママが大好きな理由。高校生の頃、私、パパの知らない間に、何回もママに会いに来てるの。」
「高校時代?そう言えば、失恋事件、なんてのもあったな?」
「そうだっけ。忘れちゃったけど、そんなこと、何度もあったんだと思う。他にも、友だちと上手くいかないとか、試合に負けて落ち込んだときとか。何でも話したわ。パパはママが未来を知ってるって言ってたから、多分未来を知りたかったのね。でも、そんなこと、いつの間にかどうでもよくなって、ただママの傍にいるだけでよくて。私は女なんだなあ、って、ママの傍にいて、ようやく分かった。ママ大好きって、いつも思ってた。パパには悪いから、今までずっと言わなかったけど。
でも、そのお陰で、私はパパの言うことも素直に聞けるようになったのよ。パパを一人の男性として見なければって。そう思ったら、パパの言うこと聞いても、そんなに腹が立たなくなった。それまでは、ガンコジジイ、って何百回も心の中で叫んでたけど。」
「そんなに、ひどい父親だったかなあ。そんなつもりはなかったんだけど。まあ、反抗期ってことで、手を打とうか。それにしても、パパの知らないところで、ママはちゃんと母親をしてたってわけだな。……だから、パパ、ママ、だったんだな。」
「何が?」
「結婚式の手紙……」
「よく覚えてるわね、そんな昔のこと。でも、実はね、私も覚えてる。書くの、滅茶苦茶苦労したから。パパ、ママの分まで育ててくれてありがとう、って書いた方がいいのかなあ、って、何回も思ったし。」
「そう書いてくれなくてよかったよ。ママは、悠子が生まれる前に、人生のすべてを捧げて悠子を育てたんだから。」
「そうだよね。そうして、生まれてからだって、ちゃんと、私のママだったってこと。そりゃ、友だちみたいにママが作ってくれたお弁当を持っていけないこととか、さびしいって思う事もあったけど、パパのお弁当だって、そう悪くもなかったし。」
「そんな程度の評価かい?」
「いいじゃない、パパが作ってくれたタコさんウインナだって、へんちくりんだったけど、おいしかった。愛情一杯だったから、満点、すごく感謝してるわ。私には、ママもパパもいた。それが私の人生。ところで、パパにとっては、どうなの?寂しくないの?」
「ママは、いや、サチコはずっと、一緒にいたよ。ずっと大切な妻だった。29歳でああなってから、サチコはずっとここにいる。もう30年以上になる。悠子も知ってる通り、ほとんど毎週末、ここに来ていた。一つ屋根の下で一緒に暮らすことだけが、夫婦じゃないし、家族でもない。その上、悠子の母親もしてたって言うし。パパにとっても、サチコはいつでもどこでもたった一人の大切な妻だったよ。」
「そうして今もね。」
「ああ、その通り。ただ……」
「ただ、なに?」
「あ、いや。ただ、ずっとこのままなんだろうかって。これから先も、パパの姿はママの目には見えなんだろうか?そう思うと、やっぱり寂しいよ。」
そう言うと、カズオは無心に子守歌を歌い続けているサチコの横顔を見遣った。
寄ってきた雄輔の頭をなでながら、悠子はじっと何事かを考えるようにしていたが、急に顔を上げると、
「パパ、ママは未来に行っちゃったって言ったよね。」とカズオに聞いた。
「それが、なにか?」
「でも、未来のどこかには、いるわけでしょ。」
「ああ、多分。」
「じゃあ、何歳かって、ママに聞いたら、ママが何年にいるか分かるじゃない!」
目を輝かせるようにして話す悠子の眼差しを避けるようにしながら、カズオは
「聞いたんだよ。」と、小さく答えた。
「えっ?」
「聞いたんだ。」
「何歳って、ママは言ったの?」
「還暦を迎えてからは、数えるのを止めたって。」
プッと吹き出すと、悠子は
「ママらしいわね。でも、ちゃんと追及したんでしょ、パパは。」
「……、出来なかった。」
「なんで?」
「もし、ママが、人生の終わりまで行ってしまっているんだとしたら、パパはママの寿命を知ることになってしまう。そう思ったんだよ。」
「でも、ママは生きてるわ。もう一人のパパと一緒に、今も暮らしてるはずじゃないの?」
「分からない。確かに、ご主人はと聞くと、ちょっと席を外してる、みたいな言い方をしてるけど、本当はどうなのか分からない。悠子は幾つかって聞いたし、お孫さんは小学生か中学生かそれ以上ですか、とも聞いたんだよ。」
「それで?」
「分からない、というのが答えだった。だから、それ以上は聞けなくなった。未来のママは、惚けてしまっているのかも知れない。死の直前を彷徨っているのかも知れない。席を外しているというもう一人のパパも、実は死んでしまっているのかも知れない、そう考えたら、何も聞けなくなってしまったんだよ。」
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