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 カズオは60歳の誕生月の20日に、規定通り定年を迎えた。重役になっていた同期の友人から、嘱託であと3年残らないかと誘われたが、「早く辞めて、カミサン孝行をするよ。苦労かけっぱなしだったからな。」と言って断った。友人は怪訝な顔をしたが、黙って頷いた。

 カズオは机の中を片付けながら、今日という日が来ることを、遙か昔に思い浮かべていたことを思い出した。午前中にはすべての引き継ぎを終え、ささやかな送別の昼食会を済ませて、寄り道をせずに帰宅する。家ではサチコが待っていて、カバンを受けとると、一言「長い間お疲れ様でした。」と言う。自分は、「これからは二人で旅行でもしよう。お互いに長生きしなけりゃならないからな。」と、恥ずかしげに言う。そんな未来がやってくるはずだった、と思った。

 手にしていた机周りの物をすべて、途中の駅でゴミ箱に捨てると、カズオはサチコのいるサナトリウムへと向かった。入社以来38年間平凡に生きて来た。若い頃は自分1人の力で何でも実現できるような気がした。結婚してからは、家族のために生きるのが人生のすべてになった。そこに何の迷いも後悔もなかった。悠子も28歳、一児の母になって、自分の手を離れている。そう言えば、悠子を身ごもった頃に、定年までたった29年よ、と、サチコが言ったような気がする。これまで生きてきた人生よりも短いのよ、とも。過ぎてしまえば確かにその通りだった。悠子を小学校に入れ、中学校、高校と通わせ、ケンカしながら大学の入学式にまで列席した。悠子に寂しい思いをさせないために、と自分自身に言い訳しながら。でも、本当は、いつもそっと自分に連れ添っている幻のようなものに誘われて、ここまで生きてきたのだった。

今日という日は、サチコには、どのように記憶されているのだろうか。聞いてみよう、そうして、これからは、サチコの想い出の方を生きていこうとも思った。

「これからはずっと一緒に過ごそう。君がいつか話していたように。」

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