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「遅くなってすみません。お義父さんと二人だけで飲むのって初めてですね。」
大輔は、遅れてきたことを詫びると、早速ビールを注文した。
「いや、それほど待ってはいないよ。」
カズオはそう言うと、水割りを口に含んだ。
悠子が妊娠したという知らせを受けて、カズオは会社の近くにある行きつけのスナックに大輔を呼び出したのだった。
「おめでとう、というのも何か変な気がするが……。」
「お義父さんにとっても初孫ですからね。まずは、祝杯を挙げましょう。」
そう言うと、大輔はビールグラスを、カズオの持っている水割りのグラスに、こつんと当てた。
「早速ですが、お話って、お義母さんにかかわることですか?」
「察しがいいね。」
「たしか、お義母さんがあんな風になったのは、悠子を身ごもったときだったと。」
「そうだ。」
「生まれてくる赤ん坊のことを気にしているうちに、他人の赤ん坊やその母親のことや、未来の自分の姿や、色んな事が気になりだして、混乱してしまった、ということだったような。」
「悠子から聞いてるんだね。中学の卒業式の日だった。本当のことを悠子に話したのは。それまでは、悠子が生まれてしばらくたって、病気になった、という風に話していたんだが、卒業式の帰りに、すべてをあの子に話したんだよ。ただ、混乱してしまった、というのは正確ではない。妊娠中にサチコは、未来のすべてを経験してしまった。そうして、悠子を出産したときには、幾つとも分からない老人になってしまっていた。」
「悠子もよく、ママは未来が分かる、って言っていますが、そんなことってあるのでしょうか。」
「分からない。ただ、サチコの言っていたことは、すべてそうなっている。だから私は妊娠したサチコが、極めて短時間の間に人生を生きてしまって、今は未来のどこかにいるんだと思っている。例えば、悠子の額の傷のことは知ってるね。」
「3歳の時に階段から落ちたと。」
「私はそれを予め知っていた。」
「えっ?」
「サチコが言ったんだよ。3つの時に階段から転げ落ちて、11針縫う大怪我をするって。本当かどうか、半分も信じていなかったし、もしそうだとしても、予め分かっているんだから、注意すれば避けられると思っていた。だから、念のため託児所には、口が酸っぱくなるくらいくどくどと、お願いをしておいた。多分、託児所の職員達は、私のことを病的に心配性の親だと思ったんじゃないかな。悠子を連れて出かけるときは、必ず手を繋ぐようにもした。……そうやって考えると、思った以上に、サチコの予言を意識していたんだな。」
今さら、というように首を振ると、カズオは皿に盛られた柿の種に手を伸ばした。大輔は黙って、ビールを飲んでいる。
「予言は正しかった。雪の降った日だった。危ないと思って、いつもより注意をして、悠子の手をしっかり握って、廊下を歩いた。あの頃住んでいたアパートは、部屋が二階にあって、作りが外廊下になっていて、その上に屋根があった。だから廊下に雪がうっすらと積もっていた。もちろん私は、いつも以上に細心の注意を払ってゆっくり歩いて、階段に向かったんだが、階段の降り口で、あろうことか、滑ってしまったんだよ。危ない!と思って、悠子の手を離すまいと力を入れた。それが災いして、後ろにいた悠子を前に引っ張る格好になってしまった。そうして気がついたら、悠子は階段の下で泣いていたんだよ。すべて私のミスだ。サチコに約束したのに護ってやれなかった。」
大輔は、ビールグラスの縁を唇に付けたまま、カズオの話を聞いていた。
「11針だった。サチコの言ったとおり。」
「偶然、ということは考えられませんか?」
「ないとは言えない。ただ、その後も、サチコの言ったとおりになってきた。26で悠子は君と結婚した。これもサチコの言ってたことだ。」
「今まで、一度も回復する兆しはなかったんですか?」
話題を変えるように、大輔は質問した。
「なかった。努力はしたつもりなんだが、いつもサチコを傷つけるだけだった。入学式の日も。」
「入学式?」
「小学校の入学式が終わった後で、悠子をサチコの所へ連れて行ったんだよ。ピンクのランドセルを背負って。まるでランドセルに背負われてるみたいだった。悠子は中学校に入ってから急に大きくなったんでね、あの頃は小さかった。恥ずかしそうに、サチコの前で回って見せてたよ。でも、私の目的は別にあった。ああなる前に、サチコは何度も小学校の入学式の話をしてたんだ、それが額の傷のことでね。よっぽど気になってたんだろうなあ。」
「額の傷が?」
「今じゃ、だいぶ薄くなってはいるが、入学式の頃には、まだまだ生々しい傷痕が残っていた。入学式の日に三つ編みに結うのを悠子が嫌がったのは、額の傷が見えるせいだ、三つ編みにするんじゃなかった、と言ったことがあったんだよ。だから私はわざと三つ編みの悠子の姿をサチコに見せに行ったんだ。」
「ショック療法、ということですか?」
「療法と言えるかどうか。何しろサチコの場合、病気かどうかすら、今だに分からないんだからね。ただ、私は、なりふり構わず、なんでもやってみようとしただけなんだが。」
「そうして、何も起こらなかった。」
「ごめんなさい」
「えっ?」
「ごめんなさい、そう言ったんだよ。私には確かに聞こえた。だけど、それだけだった。それが何を意味するのか、私には判断できなかった。ただ、私がサチコを苦しめているということだけは、はっきり分かった。そうして私にはサチコを苦しめる以外に何もできないだろうということもね。サチコは幸せな老後を送っている。なのにそれを呼び戻すことが、本当にいいことなんだろうか?それは私の我がままなんじゃないのか。そうも考えた。その日以来、私はサチコを取り戻すのを諦めた。もっと努力するべきだったかな?」
「僕には、何かを言う資格はありません。お義父さんがそう決めたのなら、きっとその判断が正しかったんだと思います。そうして、もし悠子の身に、同じことが起こったら、僕もやっぱり、お義父さんと同じ判断をすると思います。口幅ったい言い方ですけど。」
カズオは、大輔のグラスにビールを注いでやりながら、
「そうだな。だから悠子は君を選んだんだよ。しかし、こんなことを話すために、君に来てもらったわけじゃない。悠子が妊娠したと聞いて、悠子を身ごもった頃のサチコを思い出した。」
「……もしかして、悠子もそうなる可能性がある、と?」
「そうだ、私はそれを恐れている、何しろ親子だから。ただね、一方で、多分大丈夫だろうとも思ってるんだよ。」
「どうしてですか?」
「サチコは未来にいると言っただろ。そうして、サチコの話では、君達には二人子供がいるはずなんだ。ということは、さし当たり今回は大丈夫だということだと思う。それにね、二人の子を連れて、見舞いにも来たらしいから、二人目も問題なく産まれるし、その後も問題がないんだろうと思ってはいる。ただ、何が起きるか分からないから、言うだけのことは言っておこうと思ってね。それだけのことだ。十分心配して、でも、気にしすぎないように、悠子を守ってやってほしい。」
言うだけ言ったというように、カズオは水割りの残りを飲み干した。
「未来は、本当に変えられないんでしょうか。」
大輔は、まだいいでしょう?と言うようにカズオの顔を見てから、グラスに氷とウイスキーと水を入れて、マドラーでかき回すと、カズオの前に置いて、話を続けた。
「例えばですよ。お義母さんの生きた世界では、お義父さんはお義母さんと一緒に生活してるんですよね?小学校の入学式だって二人で行ったはずでしょ。でも、実際はお義父さんが一人で行った。これだけでも、すでにお義母さんの生きた未来と違ってるじゃないですか。矛盾してるわけです。だから、そんなにお義母さんの言う未来に縛られなくてもいいんじゃないかと、僕は思うんですけど。」
「私も、それについては何度も考えたよ。タイムパラドックス、って奴だな。答えは私にはない。ただね、これまで、ずっと、サチコの話した未来を追いかけてきた気がするんだよ。そして、私自身に選択の余地があった、という風には思えない。例えば入学式に親子揃って欠席してみるとかね。思わないでもなかった。でも、それをしたら未来はどうなるんだろうか。そう思うと、私には出来なかった。サチコのいる未来の世界では、悠子も君も君達の子供たちも、みんな元気で幸せに生きてるんだよ。サチコの言う通りなら。そんな未来に反するようなことをわざわざする必要があるだろうか。
ただね、大輔君、もし君が、幾分でも未来に縛られるというか、未来が決まっているように思えることが嫌ならば、君達には、未来を選択する権利がある。それをするかどうかは、君達の問題だがね。」
「どういうことですか?」
「サチコは、君達の子供の名前が、ユウスケとトモコ、だと言っている。君達には、違う名前を付ける自由がある。」
「違う名前にしたら、お義母さんの予言は、間違っていたことになる、ってことですね。」
大輔は、それだけ言うと、黙ってしまった。
しばらくして、悠子は無事男の子を出産した。二人は雄輔と名づけた。カズオには二人の気持ちがよく分かった。もし別の名前を付けたらどうなるのか、それは一種の賭けに他ならない。我が子の人生を賭の対象にする親があるだろうか。予言通りに名づければ、無事健康に育つというのに。しかも、もしかしたら、悠子たちには3人の子供がいたというケースだってあり得るのだ。一人目の子供は、ユウスケでもトモコでもなく、別の名を持った子供で、例えば生まれてすぐに死んでしまった、というような・・・。考えたくはないが、その可能性だって、なくはなかった。
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