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悠子はカズオに「会って欲しい人がいる」といって、一人の男を連れてきた。カズオの目には、苦労知らずの軽薄な男にしか見えなかった。
男が帰った後で、カズオは正直に「お前には相応しくない。もし結婚を考えているのなら反対だ。」という意味のことを伝えた。
悠子は「結婚するつもりだし、パパの意見に従うつもりはない。」という意味の反論をした。それから、
「一度きりの人生なんだから、自分の人生は自分で決める。」
と宣言した。
カズオは戸惑った。自分は世の中の父親よりずっと物わかりが良いという自信があった。そうして世の父親の誰よりも、娘との関係が良好で、理解し合っているという自負もあった。しかも、悠子はまだ23歳だった。結婚する相手ではない、というのがカズオの動かぬ判断だった。
悠子はカズオ以上に頑固だった。翌晩カズオが帰宅すると、悠子の姿はなかった。そうして、翌日も、さらにその翌日も悠子は帰って来なかった。
その週末、カズオはサナトリウムを訪れると、サチコの車いすを押して敷地内の庭を散歩しながら、尋ねた。
「お聞きしたいことがあるんですが……」
「私でよければ、なんなりと仰って下さい。」
「悠子、いやお嬢さんのご主人は、何というお名前ですか?」
「ダイスケ、と言います。大きいに、スケは、車偏?の、難しい字なの。上手く言えないけれど……、書きましょうか?部屋に戻れば、書くものがあると思いますから。」
「ああ、いえ、結構です。今のお話で十分です。」
悠子の連れてきた男がフクオカダイスケ、と名乗ったことを思い出した。
「お嬢さんは、確か26歳でご結婚なさったと、以前伺った気がするのですが。」
「あら、私、あなたにそんなことまでお話ししたんですか?」
首を後ろに向けると、サチコは不思議だというように目を見開いてカズオの顔を見た。
その目をじっと見返すようにして、
「ええ、26歳だったと、確かに。」と、ゆっくりと答えた。
サチコは、再び顔を前に向けると、独り言のように言った。
「私が結婚した歳と同じなんですよ。親子って似るものなのかしらね。人生まで。」
翌週の水曜日、カズオが帰宅すると、テーブルの上に夕飯の支度がしてあった。しばらくすると、浴室から悠子が出てきた。カズオは気まずそうに下を見ながら、黙って夕食を食べ続けた。
「私、結婚するから。」唐突に悠子は言った。
「そう、なるみたいだね。」
「ママから聞いたの?」
カズオは何も言わなかった。
「彼から、ブラジルまで一緒に来てほしい、って言われたの。行くつもりだった。でも、やめたわ。パパを一人で置いておくわけにいかないから。」
悠子は穏やかに言った。
「おしめを替えて、洋服も選んで着せて、ご飯を作って、弁当も作って、掃除も洗濯も、みんなパパがしてきたんだよ。一人でも大丈夫に決まってるじゃないか。」
「そうね、でも今は私がほとんどしてるでしょ。いなくても良いの?」
カズオは返事に窮した。困る、とは思わなかった。また昔に戻るだけだ。ただ、二人のためにした家事を、これからは自分一人のためにする、それだけだと思った。
同時に、耐え難い痛みのようなものが、胸の奥から沸き上がってきた。
「いつかは出て行くことに変わりはないだろ。別に構わないよ。」
「私は、構う、ってことが分かった。結婚して、彼と家庭を持つわ。でも、少なくとも今は、いつでもパパの所に来られるような場所にいる。そうして、ママの傍にも居たいの。だから、彼が日本に帰ってくるまで待つことにしたわ。待って、結婚する。」
「パパのために、妥協しなくていい。」
「この間と正反対のこと言うのね。」
悠子は可笑しそうに笑って、
「もう決めた事なの。私のたった一度きりの人生だから。」と言った。
「参ったな」
とカズオは小さく呟いてから、悠子の顔を真っ直ぐに見据えて、
「ありがとう。素直に感謝しておくよ。」と言って頭を下げた。そうして、
「多分、そう長い事じゃないと思うよ。二、三年したら帰って来るんじゃないかな。」と付け足した。
「三年後の五月に帰ってくるわ。」
「えっ、もう内示でも出てるのか?」
「ううん、でも知ってるの。私ずっと、ママの所に居たんだから。」
結婚式の日は、あっという間にやってきた。カズオは親族用のテーブルまで、サチコの車いすを押して行った。悠子の親族は、カズオとサチコとサチコの兄夫婦だけだった。
「私のような部外者が、こんな晴れがましいお席に、お招きいただいて、申し訳ありません。お嬢さま、とてもお綺麗ね。娘のことを思い出しました。主人がわんわん泣いて、みっともなかったんですよ。」
楽しそうに話すサチコの隣の席に座って、カズオはドレスに身を包んだ悠子を見詰めていた。悠子は純白に輝いていた。
〈今日が、本当の結婚式なんだよ。君と僕の娘の。〉
眩しそうに悠子を見遣っているサチコの横顔に向かって、カズオは心の中でそっと語りかけた。サチコの薬指にも、昔カズオが贈った銀の指輪が光っている。
結婚式の演出なのだろう、最後に、悠子は感謝の手紙を読み始めた。
「パパ、ママ、今日まで私を育ててくれてありがとう。」
手紙の始めと終わりで、悠子は同じ言葉を繰り返した。カズオにはそれが無性に嬉しかった。
「ママが一番、心配してたんだよ。ずっと悠子を見守ってきたし、きっと二人でケンカもたくさんしたはずなんだ。弁当のこととか、入学式とか。額の傷のこともずっと気にしてた。パパは結婚に反対したけど、ママは悠子の味方だった。いつだってママは傍にいて、悠子を育てていたんだ。ただ、それが、悠子が生まれる前のことだった。そうそれだけのことなんだよ。」
そう思った途端、思いがけずカズオの目から涙が溢れ始めた。そうして、いつまでも零れ続けた。
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