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サチコをサナトリウムに入れるとカズオは悠子と2人だけの生活を始めた。初めて親になった男にとって、子育ては易しいことではない。毎週末見舞うついでに、サチコから子育てのアドバイスを受けることにした。おしめの替え方、鼻づまりの時にはどうしたらいいか。オムツかぶれの治し方や、夜泣きの対処法、離乳食の作り方など、尋ねればその一つ一つに、サチコは丁寧に答えてくれるのだった。自分の育てた悠子という娘の思い出として。
サチコは2人を残して、遙か未来に行ってしまったのだ、カズオにはそうとしか思えなかった。それほどサチコは「昔」のことを、よく覚えていたのだった。
そうして、いつしか、サチコの腕の中で、幼い悠子が安心しきって眠るようになっていた。
「本当に可愛い赤ちゃんね。」
悠子の寝顔を見ながら、サチコは言った。
「悠子の赤ん坊の頃にそっくり。」
「そういえば、あなたも、若い頃の主人に似ているみたい。何か、私たちとご縁があるんですかねぇ。」
サチコには新しい記憶を受け入れる余地はなかった。その日出会った人、起きた出来事、それらがすべて一夜明けるとリセットされてしまうのだった。だから「悠子」と呼ばれる赤ん坊は、サチコの遙か昔の赤ん坊のことで、今腕の中にいるのは、目の前にいる「若い頃の主人に似ているみたい」な見知らぬ男性の子供に過ぎなかった。ただ、〈そっくり〉なことが、カズオと悠子とサチコとを、一瞬にして〈親しく〉してくれるのでもあった。
「本当に可愛い赤ちゃんね。悠子の赤ん坊の頃にそっくり。」
それが、悠子を連れてやってきたときに必ず繰り返される、サチコの挨拶だった。
ある日、カズオは思いきって尋ねてみた。
「ご主人、若い頃の私に似ていると仰いましたよね。私もカズオって言うんですけど、不思議じゃありませんか?」
サチコは、一瞬、驚いたというように、カズオの顔を見つめると、
「ええ、似ています。……でも、そんな気がするだけかもしれません。主人があなたのお年の頃にどんな顔だったか……、上手く思い出せないわ。ごま塩頭の、しわだらけの、老眼鏡をかけた今の主人の顔しか思い浮かばないの。今の顔見慣れちゃって、昔の顔なんて思い浮かばないみたい。不思議ねえ。」
本当に不思議だというように、サチコは何度も頭を振った。
「ご主人は、今どこに?」
「さああ。すぐにいなくなってしまうんですよ。折角二人でゆっくりしていられるようになったのに。何が楽しいんだか。そう言えば、ここん所、見てない気もするわねえ。いつも私が待ちぼうけ。」
もう慣れてしまった、とでもいうように、サチコは扉の方を見遣った。
「仲がいいんですね。」
「ええ、おかげさまで。」
そういうと、サチコは少女のようにニッコリ微笑んだ。その笑顔を見つめながら、カズオは、サチコを待たせているというに老人に微かな嫉妬を感じた。それが理不尽な感情であることは分かっている。けれど、自分の届かないどこかで、自分ではないもう一人の自分が、サチコを待たせていることが、許せないような気がしたのだった。
また、別の日、カズオは、こうも聞いてみた。
「あの、誠に不躾な質問で申し訳ないのですが、あなたは今、お幾つですか?」
「レディに歳を聞くなんて、本当に失礼ですね。」
サチコはちょっと睨むような眼差しをカズオに向けると、すぐにほっと小さな溜息を吐いて、
「ご覧のとおり、すっかりお婆ちゃんなんですよ。還暦までは、歳も数えていたんですけど、最近はもうやめました。ご想像にお任せします。私、見た目と年齢とそんなに違ってないんですよ。」
と答えた。
カズオの目には艶やかな肌を持った、31歳のサチコの姿が映っていた。手を伸ばせば、若いサチコに確かに触れることが出来る。
……君はまだ31なんだ、だから、僕には君の歳が分からないんだよ、
心の中でカズオは呟いた。
「じゃあ、お嬢さんのお歳はお分かりになりますか?」
「悠子ですか。……、あら、どうしたのかしら。悠子の歳も思い出せないなんて。もういい歳なんですよ。それは確かなんだけど。えっと……。おかしいわねえ。ユウスケを産んで、それから、トモコが生まれて……。」
「その、お孫さんたちは、幼稚園ですか?小学校?それとも大学生になってるとか……?」
祈るような気持ちで、カズオは返事を待った。サチコは今どこにいるのか、そうして、自分はそこに行くことができるのだろうか。
「どうしたのかしら?赤ちゃんの頃のユウスケとトモコの顔なら、思い浮かぶんですよ。それなのに、歳?……変ねえ。えっと、ユウスケは……。だめね、ごめんなさい。惚けちゃったのかしら。」
「ユウスケ君のランドセル姿とか、って、覚えていませんか?」
「……、悠子のピンクのランドセルなら、思い出せるんですけど……」
サチコはひどく取り乱しているようだった。カズオはそれ以上、質問を続ける事が出来なかった。サチコをひどく苦しめていることを悟ったからだ。そうしてそれ以上に、答えを知ってはいけないような気がしたからでもあった。
小学校の入学式の前日、カズオは悠子を連れて、サナトリウムを訪れた。
サチコは、悠子に向かって、
「どこのお嬢ちゃん?お名前は?」と、いつものように話しかけた。
「悠子です。」と、悠子もいつものように返事をする。
「そう、ユウコちゃん、いいお名前ね。お婆ちゃんの子供も悠子っていうのよ、同じね。そういえば、お顔もそっくりだわ。……、本当によく似てる……。」
サチコは、不思議でならないというように首をかしげ、カズオの方を見ると、
「可愛いお嬢ちゃんね。娘と同じ名前なんですよ。面影もそっくり。その娘も、あっという間に母親になって……子供が二人。男の子と女の子。早いものねえ。あなたは、お子さんはお一人?」と、やはりいつものように尋ねた。
「ええ、一人です。」と答え、
「明日は、この子の入学式なんです。」
入学式、という言葉に力を込めるように言って、
「校門の脇に桜の木が五本あって、満開なんですよ。」と続けると、サチコの顔をじっと見詰めた。
「そう!」
驚いたというように目を大きく見開いて、
「奇遇ですねえ。私たちの娘の時にも、満開の桜で……、確か、校門の横に、桜の木があったわ。あの時は、本当にうれしくて。それに、親ばかになってしまうんですけれど、わが子ながら可愛くて、輝いて見えました。」
と、遙か昔を思い出そうとするように、目を窓の外に向けた。そこには、穏やかな春の空が広がっている。
サチコの横顔を辛抱強く見詰めながら、カズオはじっと待ち続けた。もしかしたら入学式に間に合うように、サチコが二人の許へ戻って来てくれるかもしれない……。
しばらくそうしてから、諦めるようにふっと肩の力を抜くと、カズオは悠子の背中を押して、サチコの前に行かせた。
「もしよかったら、この子の髪を結んでやってくれませんか?」
「私でよければ喜んで。ユウコちゃん、どんな髪にしたい?」
サチコは悠子に語りかけた。カズオはそれを遮るようにして
「三つ編みにしていただきたいんです。」と頼んだ。
サチコは、ふと顔を曇らせると、視線を悠子からカズオに移して、
「お嬢さんは、三つ編みじゃない方がいいんじゃないかしら。」と眉をひそめるようにして小さく答えた。
「三つ編みにしてください。」
一言一言噛みしめるように、カズオは繰り返した。
「そうですか。」
それだけ言うとサチコは、悠子の髪を三つ編みに結い始めた。後ろで二つに分けられた髪は、さらに三つに分けられて、サチコの細く白い指によって、固く編まれていく。じっと手元を見詰めていたカズオは、
「もう片方は僕がやってみたいんですけど、教えていただけますか?」と聞いた。明日の朝、三つ編みに結うのはカズオの役目だからだ。
「男の人は、自分で結ったことがないから、難しいかもしれませんよ。やってみましょう。」
そう言うと、サチコはカズオの太い指に自分の手を添えて、教え始めた。そこにはまだまだ熱く若い血が流れている。目尻には小さな皺が数本刻まれていたけれど。
「ありがとう!」悠子は元気よく御礼を言うと、先に病室を出て行った。
「早く帰って、ランドセルを背負いたいんですよ。」と言いいながら、カズオは、いつの間にか手足のすらっと伸び始めていた悠子の後ろ姿を見遣った。
サチコも黙って、悠子を目で追うように、カズオと同じ方を見ていた。
「じゃあ、失礼します。」
挨拶をして部屋を出ようとするカズオの背後から、
「明日、晴れるといいわねえ。」
と、サチコの声がやさしく追いかけてきた。
「雲一つない青空です。」
カズオは、振り返らずに答えた。
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