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 それが起きたのは、出産を間近に控えた8月の終わり頃だった。カズオが夜遅く帰宅すると、真っ暗な部屋の中から、すすり泣きが聞こえてきた。手探りで部屋のスイッチを入れると、サチコが部屋の隅にぽつんと座って、泣いているのだった。

「どうしたんだ?」サチコに駆け寄りながら、カズオは叫んだ。

「どうして、死ぬの?」

「どうかしたのか!お腹が痛い?流産?」

カズオは慌ててサチコの体を見回した。特に異変があるようには見えなかった。

「ユウスケも大きくなったわ。トモコも女らしくなって。悠子はすっかりおばさん。私はお婆さん。体も自分の思うようにならない。死ぬのをただ待ってるだけ。見て、この皺だらけの手を。お乳だって、こんなに垂れて。家族のために一生懸命に生きてきたのに、何にもない。死ぬだけ!今までの私の人生ってなんだったの?こんな惨めな老人になって、足腰も立たなくて、車いすの上で死ぬのを待ってる、これが私の人生だったの?」

サチコはひどく取り乱していた。

「サチコ!どうした?手って……、よく見ろよ、どこが皺だらけなんだ。胸だって、自分で触ってみろよ。悠子におっぱいをたくさん飲ませるンだろ?ぜんぜん垂れてなんかないよ。それに、」

そういうとカズオは玄関から大きな姿見を持ってくると、サチコの全身を映し出した。

「どこが老人なんだよ。よーーく見ろ。君は今29だ。若い女性で、1人目の赤ん坊がお腹の中にいて、あともう少しで生まれる。いいか、若いんだよ、若さの真っ最中だ。そして、僕が悠子の、お腹の子の、父親だ。32歳、いいか、僕たちは29歳と32歳の夫婦なんだよ。」

「皺だらけ。腰も曲がってる。」鏡から顔を背けながら、サチコは消え入るような声で呟いた。

鏡をサチコの顔にくっつけるようにして、カズオは耳元で叫んだ。

「よーーーく、見ろよ!どこが皺だらけなんだ!」

 サチコは、ううん、とでも言うように力なくうなだれると、

「後悔はしてない。自分で選んだ人生だったもの……」そう、切れ切れに呟くのが聞こえた。

カズオは何とかしてサチコを正気に戻そうと、肩を揺すり続けた。その度に、細い首の上の頭が揺れた。そうして、次第にサチコの目から力が失われていくのが分かった。

「……あなた、どこ?……

……あの、申し訳ありませんが、カズオという人を呼んでいただけませんか?私の主人なんです。あの人、いつも肝心なときにいないんですよ。家内が呼んでいると言っていただけませんか。」

「サチコ!」

両腕でサチコを抱きしめると、カズオは妻の名前を何度も呼んだ。しかし、そこに29歳のサチコはいなかった。


 間もなくサチコは出産した。2940グラムの健康な女の子だった。しかし、サチコの目に悠子は映ってはいなかった。看護婦が悠子をサチコに抱かせようとすると、嫌々をするように首を振るばかりだった。

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