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 悠子、と、名づけた。

 サチコの提案にカズオが賛成したのだった。そろそろ安定期に入り、女の子らしいと医者から言われてすぐのことだった。サチコはずっと前から、女の子だと独り決めして、密かに名前を考えていたらしい。カズオは彼女の直感を信じていた。サチコは人並み以上に鋭い感覚を持っていて、時々未来を予知しているかのように当たることがあった。だからサチコの決めた悠子という名前が、自分たちの子供に幸せをもたらしてくれると信じたのだった。

 サチコはセッセと、出産後の準備をした。正式に女の子と分かってからは、サチコの眼差しは、赤ん坊から少女、さらに、娘たちにも向けられるようになっていた。

 「最近の女の子って、初潮が早いのよ。」

 「おい、おい、いくら親だからって、男の僕に、そんな話はしなくていいよ。君がちゃんと悠子に、先輩としてアドバイスしてやってくれよ。」

 生まれてもいないのに、早くも悠子と、お腹の中の子を呼んでいる自分を、我ながら可笑しいと思いながら、「これが親になることなんだろうな」と、カズオは思った。

 「私たち2人で、育てるのよ。おしめだって替えるんだから、娘の生理だって、ちゃんと知ってないと。」

 「2人で」という所に力を込めながら、サチコは宣言するように言った。

 「かんべんしてくれよ。おしめは替える。生理は君の担当。恋バナも君専門。僕はその分、一所懸命働く。」

 「いっぱい稼いでくれるんならいいわ。でも、あなたは出世しないタイプみたいよ。定年になって、嘱託であと3年、なんていわれるけど、実は大して用がないことは自分でも分かってて、いえ辞めます、なんて言って、静かに会社を去ると思うわ。」

 「随分、具体的だね。期待されてない夫か。ちょっと萎えるね。」

 「あら、いいじゃない、家庭が第一。私はそれでいいわ。」

 「……定年か。ずーーと先のことだけどね。」

 「そんなことないわ。あなたの会社って60歳が定年でしょ。たった29年後のことよ。あなたが今まで生きてきた人生より短いのよ。あっと言う間。悠子は28歳。結婚してるかしら。私があなたと結婚したのが3年前、26の時だから、きっと結婚してるわね。私たちは、悠子ができるまで3年かかったけど、悠子はすぐ妊娠しそう。そうしたら、私は50代でお婆ちゃんになっちゃうのよ。なんか、信じられない。」

 「また、いつもの妄想かい。29年後はながーーい先のことだよ。悠子はその間に、幼稚園に行って、小学生になって、中学校に行って、高校では受験勉強でヒーヒー言って、大学生になって、就職して、それだけの行事が待ってるんだぜ。」

 「そうね、そうして、私たちはそれを横で見ながら、平凡で、でも、幸せな人生を送っていくってとこかしら。ちょっと寂しくなっちゃうな。」

 「おいおい、家庭が第一、それでいい、って言ったのは、君の方だぜ。」

 「大学の入学式、あなた、行く?」

 「なんだい、突然。」

 「行く?」

 「行かないよ。そこまで過保護な親にはなりたくない。」

 「私は、行くわ。18年間手塩にかけて育てた娘の入学式だもの。行くと思う。でも、悠子は来なくていいって言うのよ。親の有り難みなんて、子供には、空気みたいなもので分からないのよね。でも、私は絶対行くわ……

 その時にはもう48歳か。白髪が気になって、いくら抜いてもきりがなくて、後ろの方は悠子に抜いてもらって、老眼も始まりかけてて、針に糸を通すのが大変になって……。」

 「で、僕は、すっかり禿げ上がってる、と。」

 ことさらにふざけた口調で言うと、

 「大丈夫。白髪だってまだ目立たない。」と、サチコは決めつけるように言った。

 「そう言えば、大学生くらいの娘さんと歩いてる母親を見たわ。中年の女性って、みんな下半身がへんに太るのよね。体重のほとんどは下半身です、みたいな体型になって。お腹もぽっこり出てるの。懸命に隠そうとしてるから、逆にそれが目立って。あーあ、私もああなっちゃうんだなあ。なんか、子供産みたくなくなっちゃった。」

 「なに言ってるんだよ。子供を産もうと産むまいと、歳は確実にとるんだぜ。子供と関係ないだろ。」

 「それはそうだけど……、子供を見るとね、どうしても母親のことも目に入ってくるの。その母親は、私なの。未来の私がそこにいるの。子供ができるまで、こんなことなかったのになぁ。」

 サチコは、大きな溜息を吐いた。

 「気にしすぎだよ。マタニティブルー。悠子が生まれてきたら、そんなこと考えてる暇なんかないって。ミルク飲ませて、おしめ替えて、お風呂に入れて。夜泣きもするだろうし、風邪だってひくかもしれない。その日その日で手一杯だって。それが僕たちの、本当の未来だよ。それって、すごく素敵なことだと思わないか?」

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