ここにいる。

椛 冬眞


 彼は、一人でそこにやってきた。

 空気が、ひとふりの風となって彼の横を通り過ぎていった。懐かしい匂い、懐かしい景色。薄汚れたその地面でさえも、すべてが彼にとっては懐かしく思えた。

 その地面に近づくように、彼はその場でしゃがみ、そして、目を伏せた。

 一体どれほどの時間、そうしていただろうか。短いようで長いようで、あるいは、一瞬だったのかもしれない。

 彼の耳には何も届いていなかった。

 周りに訪れた静寂。まるで、元から何もなかったかのように。全てが世界から消えてしまったのかと、錯覚するほどの静けさ。

 そのことに彼は気づいたのか、わからなかったのか、伏せていた目を開けては、薄汚れたその地面を見つめた。

「やっ。寒いねぇ~。」

 突然、明るく響いた声が、その場に弾けた。

 彼は驚いて身体を震わせた。そして、顔を上げた。

 そこには、見慣れた女性の顔が、あった。

「……あぁ。」

「こんなに寒いと、手とか顔とか痛くなっちゃうね。」

「そうだな。」

 彼の答えはひどく素っ気無かった。冬の、冷たく吹きさす風のように。

「……久しぶり、だね。」

「……そう、だな。」

「会えなくて、寂しかった?」

「……。」

 無邪気にそう問う彼女の声音と対照的に、彼の声音はどんどんと落ちていった。低く、何かに縛られたように、声が出なくなっていった。

 自分の置かれている状況に、何かの違和感を覚えて。精一杯の言葉を、彼は胸の中から絞り出した。

「寂し、かった……。」

「そっかぁ。」

 彼女はなんでもなさそうに答えた。しかし、彼女の顔は嬉しそうにほころんでいた。

「私もね、寂しかった。ずぅーっと会えなかったから。だから、君を見つけたときはすごく嬉しかったんだよ。すぐに、とんできちゃった。」

「そっか。」

「冷たいなぁ。冷たい……うーっ、寒い!」

言ってから、彼女は自身の両腕を摩った。

「寒い……。」

 彼はそうつぶやいて、自分の手を見た。何もない。何も掴んでいない。空っぽの手を見つめた。

「君は、どうしてここにやってきたの?」

「まぁ、ちょっとね。」

 やはり彼の答えは、どこか心ここにあらずだ。会話の弾まない彼に、彼女は少し腹を立てた。

「そう。まぁ、なんでもいいけどね。」

 不貞腐れたように振り返り、歩き出した。

「もう行くのか?」

「……行かないよ。君を待ってたんだから。これからは、ずっと、一緒にいてくれるんだよね?」

「……。」

 また、答えなかった。なんて答えていいのか、わからなかった。

 考えても考えても、彼女の望む答えが、彼の望む未来がわからなかった。

 だから、彼は言った。

「もう行くよ。また来るから。」

 短くつぶやいて、彼は振り返り、来た道を戻った。

 きっと、彼女はわかっていた。わかっていたから、笑おうとした。せめて、彼が見えなくなるまでは、笑って見送ろうと思った。でも、そんなのは、彼女にとっては辛すぎたのだ。だから、そっと――、呟いた。彼に聞こえないくらいの小さな声で。

「そっかぁ。残念だなぁ……。」

 彼女の声は、空っぽの空気に包まれて、はじけて消えた。


 しばらく歩いて、彼は周りの音が聞こえだしたことに気がついた。

 ずっと、聞こえていなかった音。いつからだろう、と彼は考えた。


 蝉の音が、やけにうるさい。

 彼が来た道を振り返ると、そこには煙がひとつ、立ち上っているだけだった。

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ここにいる。 椛 冬眞 @momiji_touma

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