第2話

子役になんかなりたくなかった~あるカウンセラーの逆転移~第二章


 僕の母は志那の母に、「あら、志那ちゃんの」と、そう声をかけた。向うは軽く会釈をし、母は続けた。

「どうしたの?東京駅までいつも車だったでしょ」

「今日、新宿近辺かなり渋滞らしいの。ほら、松倉さんも遅れてきたでしょ」

「あら。じゃあ東京まで一緒かしら」

「そうですねえ。志那、そこの席座らせてもらいなさい」

 志那は僕の向かいのたった一つの空席に座った。僕らは向い合せになった。志那と二人で向い合せになる。こんなチャンス収録中でもめったにない。いつも必要最小限の会話しかしないから、志那とも碌に口を利いたことがない。僕の胸は高鳴った。志那のことを何でも調べ上げてた僕は、そうと知られまいと、わざと志那に自分の知っている質問をした。

「どこから通ってるの?」

「名古屋」

「へえ。遠いいねえ」

「新幹線で二時間弱よ」

 志那はそう言って窓に目をやった。東京にしては明かりの少ない、電車からのその景色を、志那はどう見ていただろう。そんなこと僕には到底分らなかったが、確かに言えることは、景色を見る志那の横顔も絶品だった。まるっきりテレビの世界ならではの美しさが、実物として目の前にあるのだ。カップリングで、本心では志那を選びたかった。ただそのことを伝えたかったが、男子が気安く女子にそんなこと言えるはずがない。どんなに志那が美しかろうが、僕は全身全霊で、自分に歯止めを利かせようとした。しかしその美しさは僕の制御を狂わせた。

「カップリング楽しかったね」

 本心が間接的な形で僕からその言葉を選ばせた。

「そう?」

志那はニコッとして僕の方を見た。

「どういう風に面白かった?」

 志那はそう僕に聞いてきた。僕の本心は志那に完全に心を奪われていて、心が宙に浮いていた。

「だって俺がお前の弟だってさ。笑っちゃうよ」

 志那もやさしく微笑した。僕はこの言葉で男である自分を、取り戻した心地だった。

“弟でない別な関係”

僕の頭にはそんな言葉が浮かんでいて、かなり興奮していたが、その反面、志那は涼しそうにしていた。もともと志那をリードする技量もない僕は、二人の間に沈黙を作るだけだった。その間もできれば志那の顔にずっと見とれていたかったが、男子としてそうはできなかった。僕もそれらしく窓に目をやった。勿体ないほど、贅沢な時間だった。しかしそんな時間ほど、あっという間に過ぎてしまうのだ。志那とおしゃべりしたいあまり、僕は不自然で唐突に志那に聞いた。

「役者の仕事って大変?」

 志那は少し驚いたように目を開き、僕をまじまじと見た。僕の脇の下には、もう汗の雫ができていた。志那は突然軽く吹き出した。

「えっ?何か俺変なこと言った?」

 口元を軽く指で隠している志那は、笑うのを止め、僕に向かってこう言った。

「だって渡邊君もモデルじゃない」

「俺なんて、もう仕事ないよ。この番組が終わったら、もうここに来ることもないだろうし」

「そうね。この番組が終わったら、もうみんなとは会えなくなっちゃうかもね」

「そうさ。僕らはもうこの番組が終わったら、仕事なんかないのさ」

「あっ。やだ。ごめん。そういうつもりで言ったんじゃないの」

「いいよ。いいよ。気にしてないし。別に仕事好きじゃないもん」

 仕事が好きじゃないの部分だけ、親に聞こえないように声を潜めて言った。志那も僕に顔を近づけ、

「じゃあ、お詫びに、私も渡邊君にだけ、こっそり本当のことを言うわね」

 僕は固唾を呑んで、志那を見つめた。志那の栗色の顔が僕の顔に近づき、物差し分の距離になった。

「私も実を言うと、仕事が好きじゃないの。早く辞めたいと思ってるの」

 そのとき、電車は東京に着いた。志那は彼女の母に連れられ、僕は自分の母に手を引かれ、四人でJR改札まで歩いた。志那の母は、

「私達は、新幹線なので、ここでお別れかしら」

「そうね。私達はこのあと山手線なので」

「それじゃあ。どうも失礼します」

 志那の母がそう言ったとき、志那は僕の方に駆け寄ってきて、僕の耳元で、

「さっきのこと、だれにも内緒よ」

 そう言った。志那の息が耳元にかかった。僕は呆然としたまま、

「うん」

と、生返事をした。僕は母に連れられながら、夢心地で家に帰った。今日、起こった夢のような現実を、僕は生涯忘れないだろう。そう思った。


 ある日僕は母が区役所と美容室に行かなければいけないということで、行きは一人でテレビ局に行くことになった。いつも通り学校へ行き家に帰らず新宿まで行くのだ。テレビ局内に入るパスカードは僕が持っていって、母は前もってパスカードなしで通れるように、手はずをしておいた。母は何度も、

「気をつけてね。電車が分からなくなったら、駅員の人に聞くのよ」

 そうしつこく言ってきた。

「大丈夫だよ。もう子供じゃないんだから」

「響だから心配なのよ」

 余計な御世話だ。

 僕はいつも通り学校へ向かい授業を受けた。特に楽しくもない授業、全然準備の整ってない体育の時間、無意味で時間の有り余る掃除の時間。

 

 授業も終わり、さよならの挨拶の前の、先生のお話の時間だった。僕は頬杖をついて聞いていた。僕は先生と目があった。そして頬杖を外した。先生は注意することもなく、ニヤッとして話を続けた。その話はこうだった。

「先生は長年いろんな生徒を見てきたが、先生も人間だ。いい子は好きになるし、ひねくれた子供は先生だって好きじゃない。勘違いしないでほしいが、先生の言うひねくれた子供とは、決して勉強ができないとか、運動ができないとか、そういう人のことを言っているのじゃない。ひねくれた子供に対して先生の思う素直な子供はどういう子かというと……」

 その時、先生は僕を見た。そしてすぐに目線を外し、

「それは、勉強を少しでも面白いと思おうと頑張る子。体育ができなくてもひたすら前向きに頑張る子。理科の実験に素直に楽しいと感動する心を持っている子。みんなの中に溶け込める子。それが本当の素直な子供だ。先生は少しくらい勉強ができる子供より、素直な子が好きだ。みんなもくれぐれもひねくれた子供にはならないでほしい」

 ひねくれた子供。僕のことを言っている。僕は確信をもってそう思った。しかし皆は別段僕に気付いているようではなかった。悔しさと絶望のような気持で、僕は駅まで歩いて行った。

 母にパスカードだけは絶対なくしちゃいけないと言われていた。お金は電車賃以外に余分に千円多くもらっていた。番組でお弁当が出るのだからお金は必要ないのだ。僕は自販機でジュースを買うのを我慢して、テレビ局の食堂で何か飲むつもりでいた。今日先生のことで、むしゃくしゃしたから食堂でコーヒーを飲みたい気分だった。コーヒーを飲むと、大人になった気分になる、そうだ。僕達は大人と一緒に仕事をしているんだ。大人の世界を知っているんだ。電車に揺られながら、『大人にはまだ早い』の中のドラマの台本を読んだ。学校の勉強は適当にやっても楽だから、八割がたできるが、テレビの方は真剣だ。セリフがうろ覚えだったりするとみんなに迷惑かけるので、僕は何度も、台本のその部分を読んだ。 

 新宿に着いたときはまだ四時ちょっと過ぎだった。予定通り早く着いたので食堂でコーヒーを飲むことにした。運が良ければ芸能人に会えるかもしれない。明日友達に自慢できる。しかし食堂に入ったが芸能人はいなかった。番組を制作している社員のような人だけだった。でも僕はホットコーヒーを頼んだ。食堂のメニューは日替わりでいろいろなメニューがある。今日はチャンチャ焼き定食をやっていた。番組で弁当が出るから、ここで食事をしたことがない。僕はコーヒーをすすりながら時間を潰した。


 その時自動ドアが開いた。

 

偶然という時計の長針と短針がピタリとそろうような気持ちだった。志那が入ってきたのだ。向うはマネージャーの母と別れて一人で注文しに行った。僕に気付かず一人レモンスカッシュを頼んでいた。そして志那が座席を見渡したとき、僕と目が合い、近づいてきた。

「あっ、渡邊君じゃない。珍しい」

「おう。ちょっと今日早く来てな。一人で来たんだ」

「同じ席でいい?」

 僕は緊張を隠し、わざと自然体口調で、

「ああ。いいよ。別に」

 そう言った。向き合うとそこには、小さな女優志那がいた。志那は不自然にも笑顔もなく落ち着きのなさそうにしていた。

「どうしたの?何かあったの?」

 僕がそう尋ねると、

「うん。今、レモンスカッシュが来たら話すわね。絶対誰にも聞かれちゃいけない話だから」

「ふうん」

 志那は外側がパープル色の珍しいスケジュール表と思われる手帳を出し、

「やっぱりそうよね。どう考えたってそうよね」

 そう言っていた。僕は意味が分からないままスケジュール表とじっと向き合っている志那の顔をチラチラ見ていた。

 そしてレモンスカッシュが運ばれた。

 志那はストローで軽くかき回し、一口吸ったら、僕の方を向きこう言った。

「あのね。渡邊君聞いて。もうすぐ三月になるでしょ。私、今日開校記念日だから、朝から局に来てたの」

「ああ。学校休みなのか」

「うん。それでね。今日はお母さんとあちこち回って来年のスケジュールを立ててたの。そしたらびっくり」

 志那は目を少し大きく開けて僕の方を見ていた。僕はコーヒーをすすりながら言った。

「何がそんなに驚いたの?」

「スケジュールでは来年の四月から私達の番組の予定がないのよ。『大人にはまだ早い』の。それでね。代わりに今までの時間に別のスケジュールがいっぱい埋まっているの。どういうことか分かる?」

「三月で番組が終わるってこと?」

「そうよ。きっとそうよ。そうとしか考えられないわ」

「ついに僕達みんなバラバラか」

 志那も少し沈んだ口調で、

「そうね。そうなっちゃうわね」

 そう言った。僕達は二人で沈んでしまった。僕はコーヒーをすすり、志那はレモンスカッシュを飲んでいた。志那は、

「でもがっかりだなあ。だって私、仕事の中で一番この番組を楽しみにしていたし、同世代の人と仕事ができて、一番自然にいられたもん。この『大人にはまだ早い』の番組。」

「お前はいつも大人たちと仕事してるしな」

「そうなの。小三でデビューしてから学校以外はいつもテレビテレビ。」

 志那はレモンスカッシュを吸って、

「ああ。それとこのことみんなには内緒よ。多分ディレクターがみんなに一度に言うから」

「うん。分かった」

 僕達は同じテーブルで向き合い、しばらく沈黙が続いた。

「それにしても」

「それにしてもなあに?」

「いや。何でもないよ」

「何よ。話してよ。私だっていろいろ話したんだから」

「つまんないことだよ。学校でさ。何ていうか」

 志那は小首を曲げて僕の言葉を待った。

「お前さ。学校の先生嫌いになったりしない?」

 志那はキョトンとした。

「学校の先生?」

 志那はレモンスカッシュを口にし、下を向きながら素っ気なくこう言った。

「先生なんて嫌いよ。」

「お前もそう思う?」

 僕は少し体を乗り出し気味でそう聞き、また、

「なんで?どういうところが嫌い?」

「そりゃあ、だって、私の場合、写真撮らせてとか聞いてきたり、不必要に肩とか背中とか触ってくるしさ」

「ああ。お前の場合あるかもね」

「結構、嫌なのよ」

「ごめん。ごめん。悪い意味で言ったんじゃないよ」

 まさか志那が可愛いからなんて口に出せなかった。

「とにかく」

 僕はコーヒーをすすった。

「とにかく僕は学校の教師の連中より、ここの社員の方が、ずっと敬えるね。」

「私もそう思う。私ね。あるドラマの打ち合わせでね。ドラマの脚本家の人と一対一で話したの」

 志那は半分以上減ったレモンスカッシュをかき回し、

「その脚本家の人は見た目はおっとりしていて、とても気が強そうな人とは思えないんだけど、私、その人からいいこと聞いちゃったわ」

 志那は優しい笑みを浮かべながら続けた。

「あのね。その脚本家の人が言うには、この業界ではね。何かの中に絶対あっちゃいけないものがあるんだって。いろいろ良いものをいっぱい集めても、その中に一つでも絶対あっちゃいけないものがあるとすべて台無しになるんだって。その例としてね」

 志那はまた笑みを浮かべたまま、

「例えば最高に快適な部屋を用意したとする。本当に、何も惜しまず、ベッドもソファーもテレビもエアコンもコーヒーメーカーも砂糖もミルクもみんな極上、絶品のものを用意する。ある物はイタリアから。ある物はフランスから」

「でもそれだけ揃えてもね。ある物が一つあるだけですべてが台無しになっちゃうの。この場合ある物って何か分かる?」

 志那は今度は少し上目使いで小悪魔の様に笑みを浮かべていた。

 僕は分からないと答えた。

「それはね。時計。どんなに快適な部屋で、どんなに気分良く休んでも、時計があると休まらないでしょ。だからこの場合、あっちゃいけない物は時計」

 僕は、

「ふうん」

と、言って残り僅かのコーヒーをすすった。

「学校の先生の話より、テレビ局の大人の人達の話の方がずっと勉強になるわ」

「そうだね。遅刻はいけないとか、挨拶は必ずするとか、大切なこと教えてくれるもんね」

 志那は少し笑いだしそうな顔になって、

「渡邊君て結構現実家ね。将来はサラリーマンかな」

「そうかな。やっぱサラリーマンになるのかな。ここの社員みたいに。スーツ着たり、ここには普段着の人の方が多いけど」

「普段着よりスーツ着てそう」

「お前は将来も女優だからな」

「そうかもね」

 志那は目線をやや下の植木鉢に落とし、優しい陰りのようなものを見せそう言った。志那という少女の中に潜む大人を垣間見せる瞬間にも思えた。やはり志那は僕とは次元が違う。本物の芸能人だ。僕にも分からないいろいろな事情があるのだろう。いろんな重たいものをこの華奢な体ですべて抱え込んでいるんだろう。僕はそう思った。

その時志那の携帯のメロディーが鳴った。聴いたことのあるメロディーだった。古い曲だと思う。

「あっ。もう時間だわ。アラームセットしておいたの」

「ああ。ひょっとしてカラオケで」

「そう。この曲のカラオケの“スゴ音”のPVで私が出てるの。それからこの曲をよくアラームや仕事が終わってからの着メロにしてるの」

 僕は志那が何かの歌のカラオケに出ていることは噂で知っていた。ただその曲がこれだとは、その時初めて知った。

「じゃあ、もうV3スタジオに行かなくちゃね」

「うん」

 僕達は食堂を跡にした。


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