カフカスの虜

Wallace F. Coyote

第1話

 金融街へのフェリーを待っているとある気配が心を掠めた。そして喉の奥にある湿った空気のかたまりが震えた。出発までしばらく時間があるためか、フェリーを待つ者は私以外、誰もいなかった。対岸にある発電所の四本の煙突から白い蒸気が立ち昇り、一定の高さで透明な気体へと姿を変えた。岸辺には洗剤の水泡らしきものからポリスチレンの容器や断熱材の破片が打ち寄せていた。河川の基準はそれを設けた行政によって名称は異なるが、目の前の河は水の流れを浩々と湛えた一級水系に属する河だった。私はこの地に住むようになる前、幾つかの事情から父親が指定した大学の土木建築学科で学んだ。それは異国で生活する今の仕事とは全く異なる領域で二十年前のことだった。しかし今でも河川の流量を表わす数式は自然に想い出せた。


Qy = kpA x 103

Q = kpA x 103 / 365 x 24 x 60 x 60


Qy :河川の年間流出量[m3]

Q :河川の年平均流量[m3/s]

k :流出係数

p :年間降水量[mm]

A :流域面積[km2]


 それは記憶に染みこんだ雑多な音や色、舌にまとわりつくざらついた感触とともに浮き上がってくる。見知らぬ言葉が降臨する予感だった。視界のどこかに旅の誘発点が横たわると微かに気付いていた。そして私は自然にもう片方にある心のどこかに沈殿している点を、ごく自然に洗い出し始めていた。これら二つを結ぶ時、景色と言葉がシネマトグラフのように浮かぶ。私は長年このパズルに慣れ親しんでいた。それは私にとって一人で黙々と詰め将棋を完成させるような気晴らしで、そうやって時を追いやる夢想癖を幼い頃から身に付けていた。心理療法家の妻は興味深くその点と点をつなぐ手筋に耳を傾けたが、いつも「ほどほどにね」とコメントし、最後に「・・・」と付け加えた。妻の表情にはいつも翳りが含まれていた。その眼には年老いた両親の思い出話を聞きながらも、忍び寄る記憶障害の影を見極めようとする実務的な観照が感じられた。妻は妄想に耽る私の癖を少なからず気に懸けていた。


 地球の水を二つに分けるとしたら、それは海水と陸水に分けられる。海水は全水量の97%。残り3%の陸水は、北極と南極の雪と氷、地下水がほとんどを占めた。どれほど目の前の川が大きく見えようともこの惑星の河川を流れる全水量は、地球全体の水量の百万分の一にしか過ぎなかった。目の前に横たわる河川に対する割合を計算すると、分母のゼロが九桁以上になる。それはあくまでも土木建築学科の知見による水量で、私自身の体内の全水量に対する割合になると、数式や計算による測量は用なしになった。私は学校では教えられることのない別の測量方式を用いたからだ。一人間の肉体から割り出される値は、分母のゼロが二十桁以上の比率ではなく「1」になった。私の抱く空漠には時として姿を見せる水脈があり、それは辺境の川へと繋がっていた。その辺境の川は世界を映し出す鏡でありながらも、楽園では限りなくゼロに近い比率の水量だった。


 波にさらわれないようにじっと佇む無数の丸石。その石の上で変化する清らかとは言えない液体を眺めていると、知覚をどこかへ移動させようと風が頬をなでた。フェリー待ちの退屈な心持ちはいつしか彷徨を始め、喉奥の湿った気体は意識がそこから離れないよう少しだけ心拍数を上げた。冷たいシリコンの塊のようになった自分の手を見つけた。少しだけ力を入れてみる。指は微かだがまだ動く。私の身体は既に反応していた。知らぬ間に指先から体温が抜けていた。深海の水圧下で生きてきた底生性魚類が、突然水揚げされ心臓が膨張するように、私は胸に圧迫を感じていた。あたかも私の心臓だけが深海から海面に突如浮上したようだった。それは暗い門を通過する際に感じられる境界の変化だった。この感覚に導かれ私は幾つかの存在を知った。肉体移動ではたどりつけないが、身体に潜む微かな感覚と視界の点を結びつけることでたどり着ける境界だった。そこでの出会いは出会いと呼べるほどのものではなかった。なぜなら私以外の人間にとって、その存在は見えないし知りえることもなく、永遠に私の身体内で閉じられているからだった。それはそのままそこに留めて置くべきだったのかも知れない。時の変遷において痕跡を残す才能は、選ばれた人間にのみ与えられると自身を呪縛してきた。しかしそこで得られた感触は、私をいつまでも捉え続けた。幾つかの学校を卒業し、就職し、結婚をし、子供が生まれ、景気の悪化と失業、そして二度目の就職活動の身になっても、その感触は私から消えなかった。それは私の身体に潜み続け、少しずつ私を縛り上げた。ゴルディオスの結び目。私はそこでの痕跡を詳細に書き記さなければならなかった。何者かに誘いざなわれ訪れていた彷徨。ここから先は、書くことによって彷徨が精査され、それは点となり、初めて私自身でそれらの点を結ぶことができた。そしてそれらの結び目を私自身の手で解く必要があった。そうやって結び目は背後にしまわれなければならなかった。私は初めて私として生まれ変わることが出来るのではないかと感じた。その胸の膨らみはそう主張した。


 その辺境の川は世間から少しだけずれた時間と空間に位置し、今も手を伸ばせば届きそうな境界の川だった。

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