第10話 疑問
「やれやれだ……」
トッドは車を止めると、十年来愛用している腕時計を見ながらため息をついた。 逃走が始まってから三時間が過ぎ、アナログ時計の針は二十三時を回ろうかとしている。
しかし道のりはやっと七割を過ぎた辺りだ。何もなければセーフハウスから一時間もかからない距離だが、追跡を振り切りながらでは距離が稼げない。
一時間ほど前に少し追跡の手が緩まなければ、この時間でも道半ばといったところだっただろう。
今はSAD、そしてトミツ技研は三人を捉えていない。
十分ほど前にバイクに乗ったSADの男達四人をステフが撃ち殺してから、追撃は一時的にせよ止まっている。今のうちに距離を稼ぐのが定石ではあるが、まだ夜は長いと踏んで集中力の低下を懸念したトッドが、休憩を提案したのが二分前の事だった。
自販機で買った水を飲みながら、トッドはナビゲーションを再確認する。
重サイボーグとは言え、生体部品の割合が多いトッドは常人と同等に水分を必要とする。栄養は高カロリー流動食で摂れても、水分ばかりは適宜補充しないと喉の乾きが癒やされない。
「ミーナ、確認だ。オメガインテンションの本社はここで間違いないな?」
ナビゲーションのモニタに映った中央区画の一部が拡大される。
「はい。そこが我々のゴールです」
ミーナはボトルから口を離して頷く。同じくサイボーグであっても、ミーナはトッドと同じように喉が渇くのか、水の入ったボトルを半ば空にしていた。
「我々、ねぇ。ところでさ、ミーナの同僚には連絡付いたんでしょ? 向こうはなんて言ってるの?」
ステフは皮肉げに小さく笑いながら、四本目のボトルを空にした。
ミーナは追っ手が一度振り切れた時に、雇用主たるオメガインテンションに連絡を取っていた。扱う情報が情報だけに秘匿回線を使用した上で多重の暗号をかけての通信は、どうしても普通の連絡より時間がかかる。
ましてや追っ手は通信技術分野においても、多大な成果を上げているトミツ技研。下手な連絡はこちらの行動が筒抜けになる可能性もあり、ミーナもおいそれと連絡する事が出来ないでいた。
「現在、トミツ技研の動きにあわせ人員を配置し行動中。本社へ急行せよ。さっき来た連絡はこれだけね」
ステフの笑みには気づかない振りをして、ミーナは肩をすくめる。
「行動中とあるから、トミツ技研やSADの追跡を抑え込んではいるはずよ。少し前に動きが鈍ったのがその証左ではないかしら」
セーフハウスでミーナがオメガインテンションに連絡した時間を考えれば、動きとしては納得がいった。
連絡を受けたEU本社から、セカンドバベルに隠れている他の工作員を集めて情報収集と並行して作戦行動に移る。例え
即応可能な部隊を待機させ続けるにも予算的な制約や、数限りない案件の処理などの時間的問題もある。
元軍人としての経験や企業の工作員と仕事上やりあった経験から、トッドは非合法活動の様々な限界を多少なりは知っていた。
だが何か、その経験上少しだけ引っかかるものがある――トッドは湧き上がった疑問をどう口にすべきか迷う。
一言で言ってしまえばただの勘に過ぎない。悪い予感というほどの事も無い、ほんの僅かな引っかかり。言葉にするのも難しいが、腑に落ちないという点は確かであった。
「ヘリでも使えれば楽なのですが……」
ぽそりと零すミーナに、トッドは苦笑した。
セカンドバベル独特の法律さえなければ、当然の意見であり要望であった。トッドもこれまで何度となく仕事中に考えた事がある。
「使ったら使ったで、トミツに追われるより危険な事になるしな。いくら俺達でもガウスキャノンの砲弾は撃ち落とせん」
セカンドバベルでは周囲二百キロ圏内を含めて、全ての飛行機械の使用が禁止されている。国連も各国の政府、
その為、飛行機でセカンドバベルに来る事は出来ず、船舶かハワイから出ている大型の
それどころか飛行ドローンまで、セカンドバベルでは製造・所持・使用が規制されている。
これは人類の財産たる軌道塔を守るためだ。
軌道塔はその大きさに比べれば、比較的
セカンドバベル――東太平洋第一軌道塔は構造が巨大すぎて、部分的な試作はされていても、試作の軌道塔は建設すらされていない。セカンドバベルそのものが後に続く軌道塔の試作であり、初めての正式採用でもあった。
もし軌道塔が使用不可能になれば、一日につき最低で数億ドルの損失が見込まれている上、破損に伴う修理費用も他の構造物とは桁違いだ。
もし軌道塔が切断された場合、切断位置によっては倒壊した軌道塔が東太平洋地域だけでなく、最悪の場合は地球規模の災害を引き起こす。
環境テロリスト達もそれを狙って何度となくテロを起こそうとしているが、重装備の警備員や大口径の対空ガウスガンを初めとした防衛機能に阻まれて、今のところ軌道塔の損壊は自然によるもの以外にはない。
これまで何度かドローンやヘリを持ち込もうとした者――テロリストに限らず、趣味的な個人や集団だけでなく、
そして撃ち落とされる場合、セカンドバベル上空であれば無警告で、周辺地域であれば二回のみ警告は行われている。
トッドも一度だけその場を見たが、とてもではないが凌げるような威力ではなかった。
ステフは体を解すように伸ばしながら、大きなあくびをした。
「あたしはもう休憩終わりでいーよ。二人はどう?」
食事や水分は人の数倍かかるが、ステフは回復力そのものも常人以上に高い。五分に満たない休憩でも、この数時間常に警戒し戦っていた疲れは見えなかった。
トッドはボトルを空にすると窓から投げ捨てて、ハンドルを握り直した。
「よし、俺も水さえ飲めたから後はいい。ミーナ、悪いが出発するぞ。もし再度連絡が取れそうだったり、本社から連絡があるようだったらすぐに言ってくれ。勝率は少しでも増やしたい」
今では廃れつつある、モニタ機能の無いルームミラー越しにミーナが頷くのを確認すると、トッドはアクセルを踏み込んだ。
その頃には、湧き上がっていたほんの小さな疑問は、頭の隅に追いやられていた。
次にその疑問を思い出す時、トッドはそれを口にしなかった事を後悔する事になる。
車内だというのにつば広の帽子を目深に被り、苛立っている顔を運転を任せた工作員に見られないようにした。
三錠目の鎮痛剤を噛み砕いて唾液で飲み込みながら、思考を邪魔する脈動じみた痛みを無視して考える。
ジョンを初めとしたSADの者達が
一切の連絡が取れなくなったのを不審に思い、追跡に当たっていた戦闘要員から一人を確認に回したのが一時間半前。人も車も連絡を受けていた場所から綺麗になくなり、戦闘が隠蔽された形跡があるのみだったと寧に連絡があったのが一時間前。
それに前後して追跡中の戦闘要員が撃たれて重傷を負い、前線指揮が乱れた隙に目標を十五分ほど見失ったのが痛かった。
再発見はしたものの工作員が直接確認した訳ではないので、幾度も見失っては発見する事を今も繰り返している。
寧は三杯目の高カロリー流動食に口を付けるが、舌に残った鎮痛剤の痺れるような味だけしか分からなかった。
「
形の良い唇から悔しげなつぶやきが漏れる。
セカンドバベルでは例え指先ほどのドローンであっても、飛行機能を持っている物は使用出来ない。街中に配置された監視カメラは、飛行物体を最優先で検知する仕様になっている。そしてそれら監視カメラの分野で大きなシェアを持っているトミツ技研は、どれだけ詳細な検知が行われるか分かっている。
危険を覚悟で使う手もあるが、追っている情報が情報だけに国連の警備部が動く可能性は僅かであっても排除したかった。
目標再発見の報が投影式モニタに表示されると、半ば無意識的に追跡と襲撃の指示を行いながら寧は考える。
トミツ技研の他に
ジョンを初めとしたSADの者達が姿を消した手際は、
マクファーソンカンパニー、ノースシー通商株式会社、オメガインテンション、
世界の表でも裏でも、微妙なバランスを保ちながら存在している七社は、それぞれがお互いを監視し合い、利権を奪い合い、また時には腹を探り合いながら協力していた。
いつ如何なる時、敵や油断ならぬ味方になるか分からない七社は常に、現場レベルでもお互いの動向を探っている。
寧もその例に倣い、作戦行動中に限らず常に他の六社の動向には目を光らせていた。
現在、セカンドバベルで大小問わず作戦行動を行っているのは七社中七社。そのうち、この案件に関して動いている可能性があるのはトミツ技研以外には二社。
一つは
だが寧の中では、マクファーソンカンパニーの可能性は低かった。アメリカに本社を持つ世界最強の企業が動くにしては、動きが
消去法で可能性が高いと目されるのはオメガインテンション。
集団――物量での強さを重視するマクファーソンカンパニーと違い、オメガインテンションの工作員は個々の質を重視する社風がある。
今回のように出来るだけ秘匿したい案件であるなら、オメガインテンションの工作員はおあつらえ向きだ。寧の耳に届いているだけでも厄介な工作員をセカンドバベルに何人か配置している。
魔女と自称するだけあって、厄介な工作員相手でも個々の戦力で負ける気はしない。しかしそれが作戦行動の成否となれば話は変わってくる。
しばしの逡巡の後、寧は自分の使える切り札の一つを切る決意をした。
「車を出しなさい。目的地は逐次指示しますが、まずは中央区画側へ。私が回り込んで目標を挟み撃ちにします」
ミーナ・レッティの目的地が中央区画なのは目処が付いている。
音も無く滑るように発車した車の中で、寧はミーナ・レッティに同行している者達の資料を改めて呼び出す。ミーナが居たセーフハウスの登記情報などから調べはついていたのだ。
「T&Sトラブルシューティング……話には聞いていましたが、これほどまでとは」
寧が指揮してここまで逃げ延びられた相手はそういない。警察から回収した戦闘要員の死体に残った損傷から考えるに、戦闘能力も極めて高い。
トミツ技研の耳に入っただけでも、市井の者としては有能と言って良い成果を上げている。口が堅いのであれば仕事の外注を考えても良いほどだ。
しかし敵に回った以上は手心を加える事はない。
寧の指が動き、盗撮したとおぼしき金髪の少女――ステフの画像を拡大表示する。十代前半のコーカソイド系。父親の腕にしがみついている姿は、仲睦まじい親子との感想しか浮かばない。
カナダ出身の元軍人トッド・エイジャンスの娘としてセカンドバベルの行政に登録されているが、ステファニー・エイジャンスには過去の記録が無かった。
セカンドバベルが出来て十五年を数え、未登録の私生児やストリートチルドレンの数は数百人を超えると言われている。それらの一人をトッドが養子にした――登録上もそうなっているし納得も行く答えだ。
ただし寧はステフの視線だけが気になっていた。
雑踏の中でしかも超望遠カメラで撮られている画像だが、ステフの目は撮影者の方向を向いていた。
それを偶然と片付ける事が今の寧には出来ない。
三錠目の鎮痛剤が効いてきたのか、治まってきているがまだ思考を妨げる痛みが残っている。
「……もし会えれば、直に聞いてみましょうか」
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