第5話 寧。または魔女

 ジョン・ロイドは焦っていた。

 前屈みにソファに座ったままブーツを履いた足を小刻みに揺らし、苛立ちまぎれに葉巻を強く噛みながら紫煙を歯の隙間から吐き出す。

 やっと巡ってきた幸運が、実になる前に逃げていく。それも自分ではなく無能な周りのせいで。

 ミーナを捕らえるはずだった部下からの連絡が途絶えてしばらく経つ。定時連絡も無ければ、こちらからの連絡にも出ない。他に探させてる部下達からの連絡はあるが、どれもこれも芳しい情報は入ってこない。


 ジョンは半ばまで吸った葉巻をもみ消すと、新しい葉巻に火を付けた。機械化された指がライターの蓋をひっきりなしに開け閉めし、部屋に乾いた金属音を響かせる。機械化された網膜に映る7セグメント式の時計は、次の定時連絡まで三十分以上ある事を示していた。

 香り立つ紫煙が立ちこめる部屋の中、ジョンは苦い唾を床に吐き捨てて、テーブルに置いたバーボンの瓶を呷った。

 元より酒には強かったが、今日は殊更に酔いが回らない。


 SAD本部に詳しい事を伝えていなかったのだけが救いだった。もし知られていれば、ひっきりなしに上納金の催促があっただろう。

 手に入ったものだけを信じ、確実な結果を出してから報告していた癖が今回もジョンの身を救った。

 密告を初めとした叛意のありそうな部下はとうに処分している。今セカンドバベルにいるのは信頼が置ける者ばかりだ。良い結果を手に入れた上で本部に報告すれば、SADの中での地位は確実なものになり、その際のちょっとした不手際は不問にされるであろう。


 しかし一つだけ、今のジョンを追い込んでいるものがある。

 今回の取引相手であり、七大超巨大企業セブンヘッズの一つであるトミツ技研だ。SADの恐ろしさはその一端となっていた身として理解しているが、それとは比べものにならない規模を持ち、表沙汰にならない世界での力を備えている。

 出来れば手を切りたいが、もうそれが出来る段階ではない。少なくない金と情報を受け取ってしまった。金を返して手打ちという訳にはいくまい。

 ジョンに出来るのは、彼らの求めるものを早急に引き渡す事だけだ。


 傍らに置いていた端末が光り、自動で投影されたモニタに階下の部屋にいる部下が映った。


「どうした? 見つかったのか?」


 怒気を抑えきれぬ声に、うろたえた声が返ってくる。


「あいつです、トミツの女が来て、そっちに――」


 会話を遮るようにドアが四度ノックされ、ジョンは思わず腰の後ろに隠したガウスガンに手を伸ばした。


「開けてくださるかしら」


 静かだが威圧的な声音に、ジョンはガウスガンをホルスターに戻しながらドアに近づいた。


「今開けるよ」


 面倒くさそうに言いながら、二つの電子錠を解除して扉をあける。

 そこにいたのは黒髪を肩の辺りで切りそろえた、ハイティーンくらいに見える東洋人の少女であった。

 黒いつば広の帽子を被り、白い長袖のブラウスにふわりとしたスカートを合わせていて、街中をよく歩いているような――ギャングの拠点に来るには全く不釣り合いな少女だった。

 少女は頭一つ半高いジョンを見上げ、整った顔に表情を見せぬまま口を開く。


「ごきげんよう。入らせて戴くわ」


 それだけ言うと、ジョンの横を通って紫煙の立ちこめる部屋に入ってくる。そのままジョンが座っていたのとは向かい側にある、一人掛けのソファに腰を下ろした。


 得体の知れない相手だった。

 何人もの東洋人の女を知っている・・・・・ジョンだったが、それらの女とは全く違っている。その中には日本の女ヤクザもいたが、荒事慣れしているにしてもなんとなしの違和感を抱かせる。

 以前会った時はいかにも荒事に慣れた男達を連れていたせいかと思ったが、こうして一対一で会うとその違和感は更に際立つ。

 ジョンが向かいに座ると、少女は再び口を開く。


「進捗はよろしくないようですね」


 わかりきった事を、とジョンは内心で毒づく。数時間前の通話でも出た話だ。


「こちらが求めているものは、一刻も早く手に入れたいものなのです。そのためにこちらはそちらに連絡を取って、今回の話を持ちかけました。そしてそちらは承諾しました。それが一昨日の十四時過ぎ。未だこちらは約束のものを受け取っていません」


 嘆息する少女の前で、ジョンは大きく紫煙を吐き出す。


「で、何か? あんたは嫌味を言いに来たのか? そんなら今の俺は忙しいんで帰っちゃもらえないか?」


 顔にかかる煙に少女は眉を少しひそめる。


あんた・・・ではありません。ねい、とお呼びください。私はとてもお困りのそちらに積極的に手を貸す事を決定致しました。情報だけではそちらはミーナ・レッティを探し出せないようですので」


 しびれを切らしたから自分たちもやると言うことか――抑えきれぬ苛立ちが寧と名乗った少女に視線として突き刺さる。

 しかし、ギャングの中で一つの地域を任されるまで暴力を振るってきた男の視線を、眼前の寧は真っ向から受け止め、あろうことか左側だけ口角を上げ、笑った。

 その瞬間、ジョンの手は腰に隠したガウスガンのグリップに伸びた。


 寧の笑みは、嘲りを含んでいた。

 それが分からぬジョンではなく、そしてそれが自分に向けられて流せるような人格者でもなかった。

 まだガウスガンは抜いていないが、これを抜けばトミツ技研とは敵対する事になる。最後の一線で理性が働いたが、寧はそれも見透かしたように嘲り混じりの片笑みを崩さない。


「どうぞ。やってみてはいかがです」


 明らかな挑発に、ジョンはガウスガンから手を離した。

 腹立たしさは収まらないが、ここで相手の思う通りに動くのもまた腹立たしい。


「いや、いい。で、具体的にはどうするつもりだ?」

「そちらにはこちらの情報を逐一提供しつつ、捜索にはこちらの手の者も同行します。場合によってはそちらの手が足りない事もあるでしょうから、その時は手伝うように部下には命じてあります」


 捜索に関わっているSADのメンバーは、トミツ技研の工作員が使う手駒になれ。

 寧の言っている事はこれに尽きる。


「……その間、あんたは何してるんだ?」


 ささやかな仕返しとばかりに名前を呼ばずにいると、寧の眉根にわずかに皺が寄った。


ねい、です。私はその間……そうですね、どこかで食事でもしてそちらからの報告を待つ事にしましょう」

「気楽なもんだな」

「私の部下は優秀ですので。一度命じれば、私が細かく指示するまでもありません」


 寧はそう言って立ち上がると、スカートの埃を払う。まるで汚らわしいものに触れていたかのように念入りにだ。


「では私はこれで。次にお会いする時には、全てが終わっている事でしょうね」


 立ち去ろうとする寧の背中に向け、ジョンは機械化された右手を向けた。瞬間、音も無く手首から展開され掌に収まったのは、高圧の炭酸ガスで細かな針を射出する短針銃ニードラー

 針には薬物を仕込むことも出来、静粛性や危険度から殆どの国――セカンドバベルでも――違法とされている暗殺向けの武器だ。


 ジョンが違法改造された右手に短針銃を仕込んでいる事は、SADの部下も他の幹部も知らない。一対一での不意打ちでしか使わず、これで撃たれた相手は針に仕込まれた強力な薬によって昏倒してしまう。

 その後はガウスガンで撃ち殺すなり、合成麻薬を大量に注射して廃人にしてきた。


 自分を嘲笑っておいて、そのまま帰したのではギャングの名折れだ。ジョンはこれまでもそうやって生きてきた。

 ある者は痛めつけて従わせ、ある者は殺した。

 わずかばかりに効いていたアルコールのせいもあって、無防備な少女の背中を見て抑えが効かなくなっていた。


 まだガキではあるが、外見はこれまで見てきた東洋人の中でも指折りの女――女として役立って貰うのも悪くない。

 ジョンは知らずに下卑た笑いを浮かべ、銃爪ひきがねにかかった指を――わずかに動かそうとして、指どころか首から下が動かなくなっている事に気がついた。

 あと五ミリも銃爪ひきがねをひけば腹立たしいガキは昏倒し、その後はどうとでも出来るはずであった。

 だがその五ミリが動かない。


「向けただけならば許しましょう。ですが、もし撃っていたら、私を、ひいては我が社トミツ技研を敵に回していましたよ。危ないところでしたね」


 足を止め、振り向きもせずに言った寧は、後ろ姿でも分かるくらいに笑いを抑えていた。


「お前っ、何しやがった……!?」


 肩越しに振り返った寧は、やはりと言うか、あの口の端を上げる笑みを浮かべている。


「私、これでも魔女ですので――人間風情に撃たれるものか」


 一瞬だけ、視線に殺気が混じったが、すぐに消える。


「では、ごきげんよう」


 帽子のつばを少し下げると、寧はドアの向こうに去って行った。

 寧が部屋を出てから網膜投影された時計できっかり三分後、ジョンの体は自由を取り戻した。

 短針銃をしまうことも、動けない間に吹き出した脂汗を拭うこともせず、残ったバーボンを一気に飲み干すが、味は感じなかった。

 軽い酔いは吹き飛び、飲んだばかりのアルコールも悪寒を止める役には立たない。

 ジョンは改めて、尋常では無い相手に目を付けられた事を痛感した。

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