マゼンタの霧

 夜の山は鬱蒼としていて、ただ歩いているだけで恐怖を人に与える。


 風に揺れる木の葉が擦れる音が、ザワザワと人の話し声のように聞こえた。


 GPSの動きが止まったのは、やはりIAITだった。


 IAITは駅前から5kmほど離れている場所にある山を、少し登ったところに位置していた。


 入り口には、視界を埋め尽くすほどの黒い金属製の巨大なゲートが設置されている。


 これが悪魔の要塞だ。ここでの生活が思い出され、全身がすくんだ。


 現在時刻は22時すぎ。正面ゲートはすでに閉まっているようだ。


「僕の持っているIDでゲートは開けられると思うけど、入館履歴が記録されてしまうのはまずいな」


「どうする? ここのゲートのセキュリティをハッキングして開けようと思ったら、2時間はかかると思う」


 私と輝基はゲートの前の茂みに腰を下ろして小声で話し合う。


「中の人間に協力してもらう」


「IAITの職員に? 逆に内通されないかしら?」


「大丈夫。信用できる人だ」


 輝基は少し私から離れてsorceryに話しかける。


 相手はすぐに出たようだが、sorceryの音声通信はSBDを介して電気信号に変換した音を聴覚神経に直接伝達する仕組みになっているため、通話者本人しか相手の声が聞こえない。そのため、誰と話しているのかは分からなかった。


「僕です。お久しぶりです」


 輝基の顔に笑顔が見えた。話しぶりからすると、かなり親しい人のように見える。


 あれだけ職員がいるのだ。考えてみれば、輝基には私以外に職員の知り合いがいてもおかしくない。


 オンブレは世話人以外の職員との接触があまりない。しかし、職員同士はそうではないだろう。


 輝基は、母親に仕込んでおいたGPSの発信機がIAITで止まったことを話し、中からセキュリティの解除ができないかということを聞いている。


 この人には、例の計画の話をしていたということだろう。


 輝基がIAITにおいて、そんなに親しい人がいたことに驚いた。


 私の心の中に、何か霧のようなものが立ち込めた。


「じゃあ、メッセージ待ってますね」


 ひと通り話し終わると、輝基は通信を切った。


「ダメだな。ここのセキュリティは3年前に職員がハッキングを試みたのち、捕まって処刑されてる。それから、さらに厳重な警備システムにリプレースされたそうだ。ハッキングを仕掛けるにはリスクがありすぎるとのことだった。僕のIDはすでに失効されているらしいし、無駄足になってしまったな」


「時間があれば、私なら解除できるわ」


 自信があった。

 情報セキュリティの授業は、AIより高い得点を取ったことが何度もある。


「いや、彼女はセキュリティのプロだ。今日のところはマンションに帰って彼女からの連絡を待とう。幸い、入館記録には母の名前があるようだ。殺害目的なら記録にはつけないだろう。帰ろう。下手に無理をしてこちらの動きを悟られたくない」


 何となく、相手は女性のような気がしていた。


「分かったわ」


 私は短く答えた。


 鬱蒼と茂る山道を引き返す。

 先を歩く輝基の後ろ姿が、遠く感じた。


 この人といると、私の心はいつも不安定になる。堅く決めた決心さえも、すぐに脆く崩れ去っていく。


 彼に必要なのは、熱い闘志を抱くパートナーじゃない。彼に必要なのは、命令に従い何も言わずに完遂するオンブレなのだ。少なくとも私に求められていることは、そういうことのように思えた。


 それから二人で東京に戻り、私は自宅のマンションへ、輝基は輝基のマンションへと帰ることになった。


 私は一体、彼にとって何なのか。

 今まで怖くて考えてこなかったことが、頭の中をぐるぐると回った。


 服を脱いでベッドに横になり目を閉じる。

 全く眠れそうになかった。


 悲しいわけでもないのに、涙が溢れて、頬を伝った。


 そして、ようやくウトウトとし始めた明け方に、輝基からコールがあった。


『連絡が来たよ。どうやら母は無事のようだ。理由は分からないが、精密な身体検査を受けているとのことだった』


「身体検査? 新たな実験でもするつもりかしら?」


『目的は分からないが、逆にまずいことになったな。母に埋め込んでおいたGPSが見つかる可能性が高い。こちらの計画に気がつかれるのも時間の問題だ。IAITに忍び込めるように手配してもらっているが、いつになるかは分からない』


「そう」


『ただ、一つ面白い情報を手に入れた。今、バイオテクノロジー庁の界隈で、ちょっとした騒動が巻き起こっている』


「騒動?」


『ああ、バイオテクノロジー庁が処分したはずの<人由来リコレクション>を復元しようとしている人間がいるらしい』


 人由来リコレクションとは、生きている人間の脳を取り出し、その脳が持つ記憶からリコレクションを作成したものだ。


 十数年前までは、この人由来リコレクションの作成がバイオテクノロジー庁では普通に行われていたらしいのだが、とある人由来リコレクションに問題が見つかり、それ以来、人由来リコレクションの製造は制限されている。


 ある人由来リコレクションをインストールした人間のうち数人が、同僚を殺害するなど凶悪な犯罪を起こした。リコレクションとの因果関係は不明だったが、そのリコレクションは処分対象になり、それから人由来リコレクションの作成は制限されるようになったのだ。


 これも、バイオテクノロジー庁が行なっている人体実験の一つだ。

 生きている人間の脳を取り出して、取り出された人間は無事であるはずがない。

 私と輝基は、この人由来リコレクションについても調査を進めていた。


「その人物は特定されているの?」


『いや、それが誰かは分かっていないらしい。一般の人間に人由来リコレクションの存在を公表された場合、その情報は海外にも伝わるだろう。バイオテクノロジー庁は、その人物の特定と人由来リコレクションの回収に躍起になっている』


「なるほど、バイオテクノロジー庁の重要人物をおびき出すのに使えそうね」


『ああ、母のことから父の注意をそらすこともできそうだ。というわけで、早速で悪いけど、その人物の情報をバイオテクノロジー庁の人間にたれ込んで欲しい。IAITにいる父と母を東京に連れ戻す』


「分かったわ。やっておく」


 通信を切ると、さっそくその人物について調査を始めた。


 どうやら該当の人由来リコレクションはシリーズ化されているシリーズリコレクションらしかったが、それを復元しようとしている人物について、違法組織の経路からでは辿り着くことができなかった。


 違法組織による金銭目当てのシリーズ復元行為という線は排除して考えてよさそうだったが、逆にその人物が個人的な理由でリコレクションシリーズの復元を試みているとすると、その人物を割り出すことは難しいと言えそうだった。


 現に、人由来リコレクションを取り扱ったと思われるジャンク屋の顧客データは、どの店も1万人を超える。手に入れた人由来リコレクションのうちの一部を大量に複製して、複数のジャンク屋に売りさばき流通させることで、原本のリコレクションを購入した人物に辿り着けないようにしているようだ。


 この人物はバカではないらしい。バイオテクノロジー庁が手こずっているのにも頷ける。


 そこで、その人物になりすましてネットのジャンク屋数店と違法ポルノ屋数店に足跡を残しておいた。


 人物像は、30歳前後のリコレクションメーカー勤務のエンジニアだ。少女趣味があり、違法な高額少女ポルノのコレクターで、リコレクションのシリーズ化を行いそのポルノ収集の資金としている。


 相手が正義の味方や純粋な知能犯なら、こういう汚名を着せられることを一番に嫌う。この人物と、バイオテクノロジー庁の調査官の両方を釣るのにちょうどいい餌になる。


 それから数日の間は動きはなかった。

 私と輝基は何事もなかったかのように大学へと通った。


 輝基の母親は、実験室の近くにある職員用の宿泊部屋に寝泊まりしていて、身辺に異常はないとのことだった。


 足跡を巧妙に残しすぎたかと、再度、別の足跡を残そうと輝基の部屋で話し合っている際に、輝基のsorceryが震えた。

 ディスプレイの表示名は『magenta』だった。


「はい。では父が東京に帰ったのは間違いないんですね?」


 輝基の父親がバイオテクノロジー庁に帰ったということは餌に食いついたのかもしれない。


「え?」


 輝基の顔色が変わる。


「それで、母の行き先は分かりそうですか?」


 輝基の話しぶりから、事態が切迫しているのが分かった。

 輝基は端末を開いてGPSの位置を確認したが、それはIAITから動いてはいないようだった。


「安藤の別荘……。え? ああ、はい。ゼルと一緒です」


 輝基は通信を保留にすると、「ちょっと話が長くなりそうだ。先にゼルのマンションに行って、出動の準備をして待っていてくれないか?」と言った。


「分かったわ」


 私はすぐに輝基のマンションを出て、自分のマンションへと向かった。


 私の前で話しにくいような話をしているのではないかと、勘ぐってしまう自分が嫌だった。

 もやもやとする霧を払拭するように、私は装備の手入れをして輝基を待った。


 輝基が私のマンションへやってきたのは、私が自宅に着いてから30分後のことだった。


 輝基はダイニングテーブルに端末を置いて、話し始めた。


「母の体内のGPSが見つかった可能性が高い。父は東京に帰ったようだが、母は安藤に連れられて施設を出たようだ。安藤の施設端末から、安藤の別荘のユーティリティに接続した形跡が見つかったそうだ。おそらく行き先は安藤の別荘で間違いないだろう」


「安藤の別荘なら、セキュリティは一般家庭のものと変わらないはずだから、セキュリティの解除はできるはずね」


「ああ……」


 輝基の顔色は曇ったままだ。


「何か心配なことでもあるの?」


「いや……何でもないよ」


「何でもない顔には見えないわ」

 私は俯いて何か考え事をしている輝基の表情を見ながら言った。


「あ、ああ。あえてセキュリティの甘い場所に連れ出す意図を考えていたんだ」

 輝基はようやく言葉を発した。


「私たちをおびき出すつもりかもしれないわ」


「そうだな。そう考えるのが一番自然だ。何か企んでいると考えたほうがいい」


 輝基は不安な表情で端末を開いて、動かないGPS発信機の点滅を眺めた。


「心配することないわ。あなたにはオンブレである私がついているもの」

 私はいつもの微笑を作る。


 ダイニングテーブルに座っている輝基は、その側に立つ私の顔を見上げ、黒い瞳で見つめた。


 そして、しばらく黙っていたかと思うと、

「そうだね、ゼル。君と出会えて、良かった」

 と呟いた。


 輝基の手が私の頬へと伸びて、あと数センチのところで止まり、また彼のもとへと引き戻された。


「もし僕が死んだら、君がこの資料を必ず国連に届けるんだ。これは命令だよ」

 彼の目には、微かに涙が浮かび、その黒い瞳はゆらゆらと揺れていた。


 なぜ、こんなにも切ない表情をするのだろう。

 今にも、彼の中に惹き込まれてしまいそうな、まるで眩暈のような感覚が全身を襲う。


「あなたは私の操縦者よ。オンブレが操縦者を死なせた場合、規定違反として処分されるわ」


 私はいつものように感情を殺して、淡々と返答をした。


 輝基はふっと笑って「そうだったね」と言った。


 これはミッションではない。規定違反などきっと関係はないだろう。


 でも、私にはそう答えるしかこの命令に背く方法が見当たらなかった。


 オンブレは、操縦者の命令には背けない。


 それが、こんなに怖いことだと感じたことはなかった。

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