混ざり合わない赤と琥珀
初めてのミッションから1ヶ月以上経っていたが、次のミッションの通達は来ていなかった。
私と輝基は、前回のミッションのときに手に入れた
その中で輝基は、別の人身売買組織と藍住が通じている証拠となる通信記録を手に入れた。
私は藍住が通っている売春クラブの女の子を懐柔し、匿名で藍住を強請り、特殊警察の機密情報にアクセスする最高機密権限キーを入手することに成功した。
おそらく藍住は、キーの更新時期が近かったため問題ないと踏んでいたのだろう。しかし、このタイプの権限キーには管理者コードを付与することで前回のキーを使ってアクセスすることができる機能がついている。
管理者コードは、女好きのシステム部の男から入手済みだった。
輝基はそれを使って特殊警察にあるオンブレのミッションについての詳細な記録を手に入れることができた。
藍住は終わりだ。システム部の男の端末に藍住の端末の足跡を残しておいた。
管理者コードをハッキングした犯人となる日は遠くないだろう。
これで、残るは輝基が最重要視している資料であるオンブレのプロトタイプ開発時の資料のみとなった。
この資料は、シャドウメーカーのアンインストールプログラムを作成するためには、必要不可欠な資料だ。
オンブレのプロトタイプに対しては、様々な実験を行なっているはずであり、その実験データがプログラムの開発において大いに参考となるはずだ。
さらに、それらの実験は現在のオンブレに対するテストよりも、より人体実験に近いものであるはずで、人体実験の実態を告発するという面においても重要な資料だった。
当初は、これもIAITの職員権限で入手が可能だと踏んでいた輝基だったが、安藤のIDを使用してアクセスできる共有ストレージの機密情報保存領域に、該当する資料は一切見当たらなかった。
おそらくデータは、安藤か輝基の父親の個人の端末に保管されていると見て間違いなかったが、輝基の父親の自宅の端末には保管されていないようだった。
「プロトタイプの実験資料は、安藤の個人端末か、父の職場の個人端末のどちらか、もしくはその両方に保管されている可能性が高いな」
あれから、キャンパスですれ違うことがあっても、イロウと話をすることはなくなった。
もともと違う研究室の学生同士はあまり話をすることもないので、自然と言えば自然なことだった。
輝基に何か事情を聞かれるかと思ったのだが、予想に反して輝基は私とイロウが話をしなくなった理由を聞いては来なかった。
それと同時に、私と輝基は2人でいる時のほとんどを、国連に送付する資料についてや、オンブレのミッション、そしてシャドウメーカーのアンインストール方法などについて話し合って過ごすということに費やすようになっていった。
学園では人の耳があり安心して話せないので、必然的に私の部屋か輝基の部屋で過ごすことが多くなった。
最初は緊張していた輝基の部屋も、もうすっかり慣れて、何がどこにあるのか目を瞑っても答えられるくらいになってしまった。
資料を2人で並んで見ていて、すっかり時間を忘れて、気がついたら夜中だったということも、よくあった。
今日も、そうやって輝基の部屋のダイニングテーブルに2人で並び、端末を覗き込んで話し込んでいた。
「調査してみたけど、バイオテクノロジー庁のセキュリティは堅いわ。まずは安藤の個人端末から当たったほうがいい」
「安藤の個人端末となると端末を手放した隙に作業するしかない。就寝中が最も気づかれにくく、作業時間も確保できるな」
7月を迎え、季節はすでに夏になっていた。
「暑いわね。何か飲む?」
私は冷蔵庫に向かうと、トニックウォーターとクランベリーシロップを取り出してグラスに注いだ。
「ああ、じゃあ僕はティーソーダを頼む」
赤いソーダの隣のグラスに、琥珀色のティーシロップとトニックウォーターを注いで、マドラーを使って混ぜ合わせた。
「安藤の自宅のセキュリティについて調べてみるけど、私の知る限りだと安藤が都内の自宅に戻るのは長期休暇の時だけね。あとは、IAITの宿舎で寝泊まりしているはずよ」
IAITは神奈川県中部にあり、私たちの住む都内の中心部からだと高速鉄道を使って40分ほどの距離にあった。
たったの40分。
今から思うと、大した距離じゃない。
施設から脱走して逃げて来ようと思ったら、できた距離なのかもしれない。
だけど、あの頃の私は、まるで世界の果てに隔離されてしまって、もう元の世界に戻ることはできないような気がしていた。
あの中で、あの中の世界に適用しようと必死になって、もがき苦しんでいた。
それは、住む場所が変わった今も、変わっていない。
どこへ逃げたらいいのか、分からない。逃げた先で自分を待ち受ける未来が、新しい世界が、怖い。
本当は、ただそれだけのことなのかもしれない。
2つのグラスをダイニングテーブルに置いてから、チェアに腰を下ろした。
その時に、輝基の肩と私の肩がぶつかった。
「あ…」
お互い同時に声を上げて、ふと、見つめ合う。
「ごめん」
ぶつかられたほうの輝基が謝罪をした。
彼の首が微かに赤く色づく。
私は、何故か無性に彼の顎の裏にあるホクロを見たい衝動に駆られた。
「ホクロ…輝基の顎の裏に、ホクロがあるの」
唐突に話し出した私の言葉を反芻するように、輝基は瞬きを何度かした。
「そ、そうなんだ。知らなかったよ」
照れ臭そうに首元に手をやって笑った。
「実験室では、いつも下からあなたのこと見てたから、ちょうど輝基が『ごめん』と言う時に目に入るの。メスを入れる、直前に」
「ああ…そういうことか」
彼の顎に手を伸ばすと、輝基は「何?」と驚いた様子で身構えた。
その様子に、私は手を引き戻す。
胸が、ズキンと痛んだ。
きっとイロウなら、そのまま優しく受け止めてくれる。
「答えにくいことなら答えなくてもいいんだけど、輝基は、女の人とセックスしたことある?」
きっとAIなら、こんなふうに平然と聞くに違いない。
ずっと気になっていたけど、聞けなかったことだった。
輝基は私を、女の人として見てくれたことがあるのだろうか。
輝基は驚いた顔をして「あ…」と言って、視線を上に向けた。
「いや、答えにくくはないけど、ちょっと恥ずかしいかな」
「そう。なら、答えなくていいわ」
私は、急に自分の聞いたことが恥ずかしくなり、目の前に置いてあったタブレットを持ち上げた。
「女の人と付き合ったことが、今までに一度もないんだ。だから、まあ、なんて言うか、特にセックスの経験はない、かな。たぶん」
いつもの理路整然とした話し方とはまるで違う、歯切れの悪い言い方で、輝基は恥ずかしそうに顔を赤らめながら答えた。
「どうして?」
私はタブレットで調べ物をしながら、顔色を変えずに話を続けた。
「え、どうしてって何が?」
「どうして付き合わないの? イロウが輝基は高校の時から女の人に人気があったって言ってたわ」
輝基は少し考え込むようにして「僕にはそういうことよりやらなきゃいけないことがあるし、それに、どうしても付き合いたいと思える人に出会わなかったということが大きいよ」と答えた。
その答えを聞きながら、傷ついている自分がいた。
彼の出会った人の中には、もちろん私もいる。
「でも…あ、いや、やっぱり何でもない」
こちらを向いていた輝基は、そう言いながら居心地が悪そうに端末に体を向けた。
「何?」
そう聞き返した時だった。
ディスプレイを眺めていた輝基が、小さな声を上げた。
「母が、自宅からかなり遠くまで移動している」
ディスプレイを覗き込むと、マップにある青い点滅がかなり速いスピードで移動していることが分かる。
「これはGPS?」
「うん。母と君は告発時に必要となる重要な証拠だ。万が一のことを考えて、母にはGPS発信機を埋め込んでおいた。自宅から3キロ以上離れると通知が来るようになってる。それが、どうやら作動したようだ」
「お母さんの現在位置は、神奈川県ね」
「方角的にはIAITかもしれない。このスピードだ。おそらく何か乗り物に乗っているはず」
「もしかして、連れて行かれてるってことじゃないかしら?」
「僕も、ちょうど同じことを考えていたところだ。もしかして、父にバレたのかもしれない。僕たちがやろうとしていることに気づかれたとすると……」
「輝基のお母さんの身が危ないわ。でも、AIになってしまったとはいえ、自分の妻に手をかけたりするかしら?」
「分からない」
輝基は立ち上がって、窓の外を眺めた。
窓の外には東京の夜景が広がっている。
無数の人工光が星のように煌めき、ひしめき合うビルディングの森に生命を与えているようだ。
世界で、誰も訪れることがない。巨大で、美しい人工都市。
——東京。
「分からないけど、それを確かめに行かないといけない」
輝基は決心を心に刻むように、ゆっくりと目を閉じた。
もしかしたら輝基の父は、自宅の端末にアクセスされたことに気がついたのかもしれない。
しかし、それだけで私たちの計画に気がつくはずはない。
もしかして、他に別の意図があるのか。
不可解なことが多い。
私たちがやっていることと、何の関連もないということはないだろう。
やはり、確かめに行くしかない。
確かめに行くことで、もしかすると、輝基と輝基の父親の親子という関係は、壊れてしまうことになるのかもしれない。
私には両親がいない。子供の頃は、両親という存在にひどく憧れた。
でも、輝基を見ていると、私はただ自分で作り上げた理想に憧れていただけのように思えた。
親がいる子供は孤独じゃないと思い込んでいた私は、なんて無知だったのだろう。
当然愛してくれるはずの親に、正しく愛されない子供の孤独を、想像したことはなかった。
両親はいなかったが、少なくとも私には、イロウという家族がいた。
毎日、笑いあって慰め合う同じ境遇の友人がいた。
輝基には、寂しい時に甘えることができる両親も、同じ境遇を分かち合える友人も、そのどちらもいなかった。
そのどれも持たずに、この17年という月日を彼は一人で歩んできたのだ。
これから先も、きっと彼は一人で歩んで行くだろう。
そうやって、歩いて行ってしまうこの人の後を、私はこうやって追いかけて行ってしまうのだ。
手に届きそうで、届かないこの人を私は追いかけてしまう。
恋は、人の心にかけられる呪いだ。
一度かかった呪いは、それが解けるまで自分ではどうしようもできない。
もがくだけ、無駄なのだ。そんな自分を受け入れるしかない。
「行きましょう。どこへでも、私は一緒に行くわ」
あなたのために悪魔になることを、私はいつだって願ってしまう。
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