夕日色に染まる慟哭
輝基には話をすると言ったが、イロウに、何と話したらいいのか分からずにいた。
大学でイロウが話しかけて来たのを露骨に無視して、急いでマンションまで逃げるように帰ってきてしまった。
イロウと輝基のケンカの原因を作ったのは、間違いなく私だ。
好きでもないくせに、イロウを振り回しているのは、私だ。
話をしなくてはいけない。
友人に戻りたいと。
大切な友人に戻りたい。
しばらくsorceryを見つめていたが、意を決して私は口を開いた。
1回の呼び出しで、すぐにイロウと繋がった。
『輝基を殴ったこと、怒ってるの?』
「いいえ、そうじゃないわ。会って話がしたい。話したいことがあるの」
『俺も、話したいことがある』
大学のキャンパスは、私とイロウのマンションの中間地点にあった。私たちは、キャンパスの近くにある<羊の森公園>で会うことにした。
約束の時間に少し遅れて到着すると、イロウは広場の隅のベンチに座って待っていた。
何か考え事をするように、足を組んで手を口元に当てている。
犬のようにクルクルとした少し明るい色のくせ毛。すっきりとした一重の目。
その姿に、惹きつけられる。
胸がドキンと締め付けられた。
私は、この人のことが好きなのかもしれない。でもそれは、輝基を想うそれとは、少し違う。
イロウを見つけると、心がふわっとあったかくなる。そういう人だ。
「イロウ、待たせてごめん」
私が話しかけると、イロウは気まずそうに笑顔を作った。
「いや、なんかじっとしてられなくて、待ち合わせよりずいぶんと早く来てたんだ。こっちこそ、勝手なことしてごめん」
私はイロウの横に腰を下ろした。
「二人で公園に来るの、久しぶりよね」
「そうだな。昔は、毎日、公園で遊んでたけど」
そう言うと、イロウは黙り込んでしまった。私も、何を話せばいいのかわからずに、考えを巡らせる。
「あのね……」
私が話を始めようとしたところで、イロウは自分のカバンから、何かを取り出した。
その手には、リコレクションのインストールに使われるリコレクションカセットが握られていた。
「それ、何?」
「うん。俺さ、ゼルがいなくなってから、ずっとゼルがどこに行ったのか知りたくて、いろいろと調べまわってたんだ。でも、誰も教えてくれなくて」
イロウは、リコレクションカセットを太陽にかざすように持ち上げて眺めた。
中の回路が透けて、キラキラと光を反射する。
「もし、俺がもっと大きくなってゼルと再会できるようなことがあったら、その時は、ゼルを連れてこの国を出ようって決めてた」
「え?」
私は驚いてイロウの顔を見たが、イロウはこちらを向くことなく、そのまま話し続けた。
「新宿にあるジャンク屋のおじさんに教えてもらったんだ。ゼルと二人で亡命するには、最低でも500万日本ドルは必要だって。ジャンクリコレクションからシリーズのリコレクションを探し出してセットにしてオークションで売ったら金になるってことも教えてくれた。それで、俺はシリーズのリコレクションを売りさばいてお金を貯めた。このリコレクションが売れれば、目標の金額に達成する」
私は、イロウの突然の告白に、ただ動揺して何も言えずにいた。
「一緒に、この国を出よう。この国を出て、俺の本当の家族になってほしい。ゼルを、もう二度と失いたくない」
真っ直ぐな瞳が私を捉える。
「俺は、ゼルを幸せにする自信がある。一緒に行こう」
まさか、イロウが本気でこの国を出て行くつもりだったとは思ってもいなかった。
亡命する、そんなことを、私は考えたことがなかった。いや、考えたとしても、できるわけがないと、どこかですでに諦めていた。
この国を出て、イロウと家族になる。
そして、一緒に二人の子供を育てて生きていく。
私がずっと夢見ていた物語の中の普通の暮らし。
イロウと一緒にいれば、私は普通の女の子として笑って生きていくことができるのかもしれない。
でも……。
私の頭の中には、305実験室の、あの光景が広がっていた。
輝基の涙と、叫び声を思い出していた。
彼を一人、この世界に置き去りにするなんて、私にはできない。
そして、ハートの消しゴムをくれたヘーゼルナッツ色の髪をした女の子。
私は彼女を取り戻すと約束した。
置き去りにするには、私は彼らを愛しすぎている。
「私は行けないわ」
「俺のこと、ゼルは好きじゃない?」
「好きよ。好きだけど……。置いていけない人がいる」
イロウは大きく息をついてしばらく黙り込んだ。
もうすぐ夕方を迎えようとする公園には、子供たちの姿があちらこちらに見えた。
「輝基のこと?」
私は頷くことができずに、俯いた。
「輝基は、君を幸せにはできない。あいつは、いつも自分の周りに壁を張り巡らせて、自分の世界から出てこようとはしない」
「そうじゃないわ」
私は咄嗟に否定した。
「あいつとは、長い。輝基のことは分かってるつもりだ。ゼルが、どんなにあいつを閉ざされた世界から救ってやりたくても、それをあいつは望んでいない。あいつが君に振り向くことは、ないと思う」
まるで子供を諭すような口調で、イロウはそう言った。
「イロウは何も分かってない。閉ざされた世界から出られなくてもがいているのは輝基じゃない。輝基が、閉ざされた世界で自分を見失いそうになっている私を、救い出そうとしてくれてるの」
「ゼル……」
「イロウに分かるわけない。輝基のことなんて」
いつの間にか、ムキになって大きな声で叫んでいる自分に気づいた。
その剣幕にイロウは驚いて、怒られた小さな子供のように私の目を見つめた。
「じゃあ、なんで俺と寝たの? 輝基を、忘れたかったからだろ?」
切ないほど優しい声だった。
その声を聞いて、堪えていたものが溢れ出した。
「そうよ。輝基の優しさから逃げたくて、輝基の誠実さから逃げたくて、自分をめちゃくちゃに壊したくて、寂しくて、苦しくて、どうしようもなくて、誰かに甘えたくて、誰かに愛されたくて、ただ誰かに愛されたくて、でもどうしていいのか分からなくて、だから私はイロウの優しさにつけこんだの」
イロウは泣いていなかった。
泣いていなかったけど、ひどく傷ついている顔をしていた。
でも、もう溢れ出した言葉は止まらなかった。
「でも、それでもやっぱり、私は輝基が好きなの。どうしょうもなく好きなの。頭で考えてどうにかなるものじゃないの。彼を見るたびに、どうしょうもなく、心が惹かれるの。彼が私を愛してくれるかなんて関係なくて、好きなの。輝基が……好きなの」
言葉ではなく、まるで悲鳴だった。
今まで気持ちを閉じ込めてきた大きな穴の蓋が開いてしまった。
嗚咽が止まらなくなって、迷子になった子供のように地べたに座り込んで天を仰ぎながら泣き喚いた。
まるで、涙の入れ物が破れてしまったかのように次々と涙が溢れて頬に零れ落ちる。
「ごめん。ゼル、ごめん。泣かないで、ゼル」
夕日が、私たち二人の影を一つにする。
イロウは子供のように泣き喚く私を抱きかかえて、謝り続けた。
イロウの手は、あたたかかった。
このまま、どこか遠くへ連れて行ってほしい、そんなふうに願ってしまう自分が、恐ろしく醜く思えた。
謝りたかったのは、私だった。謝らなければいけなかったのは、私だった。
大切な友人に戻れると思っていた自分の身勝手さに辟易とした。
友人に戻れるのは、愛していないほうの人間だけだ。愛しているほうの人間は、友人に戻りたくても、もう戻ることはできない。
一線を超えた時から、私たちの友情は泡のように消えて無くなってしまったのだ。
どうして人は、愛してくれる人だけを愛することができないんだろう。
どうして人は、自分の愛する人を選ぶことができないんだろう。
どうしてこんなにも優しい人よりも、彼に会いたいんだろう。
どうして私は、こんなに愚かなんだろう。
イロウとは、それきり会わないと決めた。
会えばまた、きっと私は彼の優しさに溺れてしまう。
愛されることに、溺れてしまう。
普通の幸せに、憧れてしまう。
『元気でね、ゼル』
イロウの声が頭の中で響いた。
目を閉じると、夕日に染まる公園で子猫を抱き上げた彼の姿が思い出された。
『仕方ねーな、お前は特別だ』
分かってた。
私はいつも、イロウの特別な人だったって。
分かってて、傷つけた。
分かってて、最低なことをした。
分かってたから、特別になってあげたかった。
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