背信のバイオレット

 明け方に目を覚ますと、イロウの姿は無かった。


 今日は私もイロウも、そして輝基も講義がある日だ。


 ぼうっとする頭と気持ちを切り替えようと、熱いシャワーを浴びた。


 イロウのおかげで、昨日よりも気持ちは落ち着いていた。


 朝ご飯を食べる気にはならなかったが、猫の顔の形をしたパンがテーブルの上に置いてあったので、私はそれを口に押し込んだ。


 きっとイロウが置いていったものだ。


 彼は昔と何も変わらないと思った私は、間違っていたのかもしれない。

 彼は昔より、もっと優しくなった。

 昔より、泣き虫じゃなくなった。

 大人の男の人になった。


 このまま、イロウを好きになれたらいいのに。

 そんなふうに考えてしまう。


 でも、イロウと私は異民族チャイルド同士。結婚することは、やはり出来ない。


 異民族チャイルド同士が付き合うことは、世間からあまりいい目では見られない。


 それは、トラディショナルである輝基と私が付き合ったとしても同じことだった。


 どちらを好きになっても、結局、私に幸せな未来を築くということは難しそうだ。


 まるで、蜘蛛の巣に絡まった蛾だ。


 自由になろうと、もがけばもがくほど身動きが取れなくなっていく。


 細くて粘着質な糸が、体中にまとわりついて離れない。


 それを人は、運命と呼ぶのかもしれない。


 早くに目が覚めた私は、家の掃除やトレーニングなどをして時間を潰した。


 講義の30分前になっても輝基は訪ねて来なかった。


 私と輝基は、ほとんど同じ講義を取っているため、キャンパスへ行く時はいつも近くのマンションに住む輝基が迎えに来てくれていた。


 sorceryから輝基に発信する。


『呼び出しに応答がありません。メッセージを残しますか?』


「輝基、ゼルよ。講義の時間だけど、どうしたの? 寝てるのかもしれないから、そちらのマンションに向かうわ」


 私は急いで輝基のマンションへと向かった。


 ロビーで輝基の部屋の番号を呼び出す。


 2回ほど呼び出すと、応答があった。


『ああ、ゼル。ちょっと、講義には……出られそうにないかな、今日は』


 咳込んでいるように聞こえた。


「風邪を引いたの? 具合を見せて。医療の知識はあるわ」


『あ、いや、病気じゃない。ちょっと転んで怪我をした』


「何度も言うけど、私には医療の知識がある。手当てするから、開けて。操縦者の手当ては、オンブレの任務として定められているわ」


 ロビーの扉が開き、輝基の部屋がある12階へ向かう。


 部屋の前のアラームを再度鳴らした。


 何の応答もなく、扉は解錠された。


 初めての輝基の部屋。

 私はやや緊張していた。


「入るわね」


 12畳ほどのワンルームには、ベッドとデスクとダイニングテーブルが何の飾り気もなく配置されていた。


 無駄な物は一切ない。


 窓側にある鮮やかなバイオレットのシーツに包まれたベッドの上に、輝基はブランケットも掛けずに横たわっている。


 呼びかけようと輝基の顔を見て驚いた。


「どうしたの、その顔」


 目の下に傷があり、そこと口元が大きく晴れ上がり血が出ている。


「はは、転んだなんて嘘、すぐバレるよね」

 輝基は苦笑いしながら、こちらへ顔を向けた。


「イロウが朝やってきて、ケンカになった」


「手当てをするわ。救急箱はどこにあるの?」


 私は輝基に教えてもらった場所から救急箱を取り出し、ベッドに腰掛けて、傷を消毒してからガーゼとテープを貼っていった。


「ゼル、医療の知識なら、僕にもある。心配には及ばない。ちょっと動くのが億劫だっただけだよ」


「殴られたのね。私のことでケンカになったの?」


「ゼルと別れろって言われたよ。何の事情があるのか知らないけど、好きでもないくせに振り回すなって。ゼルが可哀想だって。だから、好きじゃないけど別れないって言った」


「そう」


 最後の傷にテープを貼り終えて、救急箱を閉じた。


「イロウには私から話をしておくわ」


「高等部のクラスで僕は唯一のトラディショナルだったから、みんなから距離を置かれて、ちょっと浮いていたんだ。そんな僕に距離を置かずに話しかけてくれたのが、イロウだった。あまり社交的じゃなかった僕に、初めて親友と呼べるような人間が出来た。それがイロウだ」


 輝基は起き上がってデスクまで行くと、端末にキーを打ち込んだ。


「あいつは優しくて明るくて正義感が強い。僕とは真逆の人間だ。あいつに嘘をつくのは、僕だって心苦しい。だが、僕たちがしていることをあいつに知られるわけには行かない」


 私は輝基の後ろに立つと端末のディスプレイを覗き込んだ。


 オンブレに関する特殊警察の機密資料が保存されていた。


「僕が特殊警察に入庁したのは、こういう資料を盗み出したかったからだ。オンブレの現在の開発関係の資料はIAITで入手した。加えて、君と母の資料も作成中だ。もうすぐ出来上がる。あとはもう少し詳しい特殊警察側の資料と、オンブレ開発当初の資料が揃えば、これで国連にオンブレのことを告発できる」


「国連に告発?」


 私は驚いて輝基の言葉を繰り返した。


「そうだ。僕は国連に、日本国が行なっている人体実験の実態を告発するつもりだ。それと同時に、オンブレの実験結果をまとめた論文を全世界へと公開し、シャドウメーカーのアンインストール方法について専門家の意見を広く募ろうと思う」


 輝基は私との約束を忘れていない。


 いや、思い出さなかった日は一日もなかったのかもしれない。


 輝基は、あの日の誓いのために、全てを捨てて生きている。


「僕は、オンブレを作ったこの国と、父を、許すつもりはない。そのために僕は、どんな汚いことや卑怯なことだってやる。親友に嘘をついて殴られることくらい大したことじゃない」


 輝基は私に笑ってみせた。


「イロウは君が好きだと言っていたよ。僕には、君とイロウが再会した日から分かっていたことだけどね」


 言い終わると輝基は、端末のほうへ顔を向けた。


「親友の好きな人を奪うような人間になるとは、思ってなかったんだけどね」


 それは、苦しんでいる人間の声だった。


 その背中に手を伸ばす。

 あと1センチのところで、手を止めた。


 手が震える。


 私はこの人が好きだ。


 好きだから、触れるのが怖い。


 この人の全てが、無性に愛しくて、どうにかなってしまいそうだ。


 伸ばした手を、ゆっくりと引き戻して、その手を胸の前で握り締めた。


「汚いことや卑怯なことをやるのは、AIである私に任せればいいわ。シャドウメーカーをアンインストールできたら、どうせ消えて無くなる記憶だもの。じゃあ、講義があるから、私は行くわね」


 私は彼の返事も待たずに玄関へ向かった。


 苦しんでいるのは私だけじゃない。


 蜘蛛の巣に絡まっているのは私だけじゃない。


 それを、お互いにどうすればいいのか分からないでいる。


 輝基の気持ちは、よく分からなかった。


 よく分からなかったけれど、何故だか私は、愛されているような気がした。


 それは母親への愛情の延長線にあるものなのか、それとも操縦者とオンブレという関係からくる所有物に対するものなのかは、よく分からない。


 でも、私は輝基に愛されている。


 何故か、そう感じずにはいられなかった。

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