白いウサギとパステルカラーの国
春は短い。
雨の日が多くなり、いよいよ梅雨に入ったのかと思いながら窓の外を眺める朝が多くなった。
大学の講義のない週末に友人に誘われて出かけることも多くなったが、逆に輝基と過ごす時間は減ってきていた。
輝基は、平日の夜と週末に操縦者研修というものを受けている。
最近になって研修の日が増えてきていて、大学の研究室の勉強や課題などももちろんあるため、輝基はとても忙しくしていた。
久しぶりに誰とも約束がないのんびりした週末の朝。
窓の遮光スクリーンを切り替えると、真っ青な空が前面に広がった。
「お出かけ日和ね」
そう呟いたのと同時に、腕につけていた通信用端末<
ディスプレイには『イロウ』の文字が浮かんでいる。
ディスプレイをタップした。
『おはよう、ゼル。今日って何か予定ある?』
「ないわ。ちょうど、今日は何をしようかなって考えていたところなの」
『そっか、よかった。そしたらさ、遊園地に行かない?』
「遊園地?」
『嫌?』
「嫌じゃないけど、行ったことがなくて」
私は少しはにかみながら言った。
『俺も、行ったことないから、行ってみたくて。高等部のときに、輝基を誘ってみたんだけど、男同士で行くのがやだって断られちゃって、あいつらしいだろ? だから、一緒に行ってくれない?』
イロウは、『あ、輝基も誘うから二人じゃなくて三人で』と焦った様子で付け足した。
「分かった。準備しておく」
待ち合わせをして通信を切った。
中等部に上がったら、海沿いにある大きな遊園地に行こうと、子供の頃にイロウと約束したことを思い出した。
小等部までは、子供だけで電車に乗って遠出をすることは禁止されていたため、私が中等部に進学したら、二人で海沿いにある大きな遊園地に行こうと約束したのだ。
イロウは、あの約束を覚えているだろうか。
いや、きっと覚えてる。
覚えていたから遊園地に誘ってくれたのだ。
遊園地のことばかりに気を取られていてイロウに伝え忘れたことがあることに気がついた。
おそらく、輝基は今週も研修があるはずだ。
イロウに発信するため、sorceryに話しかけようとしたところで、端末が再び震えた。
『ごめん。今日、輝基は用事があるらしくて』
「そうなの。さっき言い忘れてしまって、ごめんね」
『そっか。ゼルは知ってたんだ。えっと…やっぱり今度にしようか?』
イロウはバツが悪そうに言った。
「ううん。せっかくだし、二人で行こうよ。昔、約束したでしょ? 忘れちゃった?」
『あ、いや、ゼルのほうが忘れてるかと思って。そっか、せっかくだし、そうだね』
再会してから輝基抜きで話したことがほとんどなかったからか、イロウは何となくぎこちない様子で返答した。
「じゃあ、また後で」
通信を切って支度をする。
クローゼットを開くと、右手の奥にある黒革の棚にはオンブレの装備品がびっしりと並んでいた。
出かける際には、足元に1本、脇に1本ナイフを装備しなければいけないことになっている。
真新しいナイフを手に取り、何度か素振りをする。
より早くターゲットの致命傷を貫くことをイメージしながら、ナイフを振って、突き刺す。
武術の授業で何度も繰り返し練習させられた動きだ。もう何も考えなくとも勝手に体が動くまでになった。
ナイフ用ショルダーホルスターを装着し、脇に挿してあるナイフが見えないように、短めのジャンパーを羽織り家を出た。
足取りは軽かった。
空は青く、雲は白い。当たり前の景色が、まるで初めて見る景色のように見えた。
待ち合わせをした海沿いの駅までの電車は初めて乗る路線だ。
生まれて初めて川に架かる橋を電車で渡った。
私はまるで子供のようにワクワクしながら窓に張り付いて、窓の外の川面が煌めく様子を眺めた。
橋を渡ると、その遠くに遊園地のジェットコースターが見えてくる。
そばにいた6歳くらいの男の子が「お母さん、ジェットコースターが見えてきたよ!」と話しているのが聞こえた。
トラディショナルの子供はこんなに小さなときから遊園地に行くのかと驚いた。
「次は<
車内アナウンスが流れて、駅に到着した。
私は駅を降りて、待ち合わせ場所である改札前でイロウの姿を探す。
しかし、思っていたよりも人が多く、なかなかイロウの姿は見当たらなかった。
私は仕方なく、改札の前に立って人が行ったりきたりするのを眺めた。
sorceryに目をやり時間を確認する。
待ち合わせ時間ぴったりだった。
「ごめん、ごめん。ゼル、待たせちゃったね」
イロウの声が背後から聞こえた。
手にウサギの耳のカチューシャとクマの耳のカチューシャを持っている。
「どうしたの? それ?」
「ほら、周りを見てみろよ」
イロウに促され周りを見てみると、同じようなカチューシャを付けている人たちがたくさんいた。
おそらく遊園地に行く人たちはこういうものを付けることになっているのだろう。
「みんな付けてるから、買ってきた。ゼルはどっちがいい?」
差し出された二つのカチューシャのうち、クマのほうを手に取る。
「じゃあ、こっち」
「あれ? うそ? ウサギが可愛いかと思って買ってきたんだけど、俺、ウサギ…似合うかな?」
恥ずかしそうにイロウはウサギのカチューシャに目をやった。
「どっちか聞いたのは、イロウでしょ?」
私は意地悪そうな顔をして言った。
「そういう意地悪なとこだけは、変わってないね」
イロウは覚悟を決めて白いウサギのカチューシャを頭に付けた。
その様子を見て、私は久しぶりに大きな声を出して笑ってしまった。
今日は輝基がいない。
今日くらいは大きな声で笑ってみたかった。
笑ってみたら、本当に止まらなくなって、涙が出るくらいに笑ってしまった。
「笑い過ぎ。そんなに似合わないかな。まあ、いいや、早く行こう」
イロウは入園ゲートに向かって歩き出した。
私も、クマのカチューシャを頭にはめて、急いでそのあとを追った。
久しぶりにスキップをしてみた。
そのまま、イロウを追い越す。
「なんか今日のゼルは子供みたいだな!」
後ろからイロウの笑い声が聞こえた。
こんなに楽しいのは、何年ぶりだろう。
まるで本当に子供に戻ってしまったような気持ちになった。
このまま、あの空の彼方まで駆け上がれそう。
そんな気持ちになった。
遊園地には物語で見たことのあるような建物が並んでいた。
中世ヨーロッパ、古代エジプト、近代アメリカ。
それぞれのエリアに分かれて様々なアトラクションが配置されていた。
私たちは、計画性もなく次々と目についた乗り物に乗っていく。
気がつくと私は、怖がりなイロウの腕を引っ張って、大声で笑いながら歩いていた。
そうやって歩いていると、道の真ん中で4Dプロジェクションショーが始まった。
『デバイスがエモーションパラメータへのアクセスを要求しています。許可しますか?』
sorceryから声がした。
「一時的に許可するわ」
その時に、ようやくこのカチューシャの意味が分かった。
この中に、エモーションパラメータを取得し、信号を発するビーコンが入っていて、観客の位置と感情を把握することで、ショーがリアクティブに進行するということのようだ。
エモーションパラメータをフラット、つまり『平常』に保つ訓練はIAITにいたときに、ルカと何度も行った。
コントロールは、ほぼ完璧にできる自信がある。
どんなに嫌なことがあった朝の身体測定でも、パラメータが異常値を示したことはなかった。
でも、今日はそんなことを気にする必要もない。
小さな小人たちが私の足元にまとわりつく。
「見たことあるわ。ガリバー旅行記ね」
「そうよ。ガリバー旅行記よ! ガリバー旅行記よ!」
小人たちは嬉しそうに飛び跳ねながら、口々に何かを呟いている。
ガリバー旅行記は、小さな小人の住む国に漂着してしまった医師のお話だ。
ある意味、私もその医者と同じなのかもしれない。
ある日突然、常識の違う世界にたった一人で紛れ込んでしまった。
その中で次々と巻き起こる出来事に、自分は右往左往するしかない。
常識の違う世界に適応しようと必死になっている。
「イロウは、外国に行きたいって言ってたよね」
小さな小人に追いかけられるようにして、私たちは海の見える広場まで来ていた。
目の前に広がる白い柵に手をかけて並んで立った。
「覚えてたんだ」
「常識の違う世界に住むのって大変だよ」と言った私に、イロウは「どうして、そう思うの?」と聞き返した。
私は、どう答えていいのか分からず、黙り込んでしまった。
「何となくなんだけど、ゼルと再会してから、壁みたいなものを感じていて、ゼルから距離を置かれてるような気がして…。いや、違うな。ゼルが違う世界の人になっちゃったみたいな感覚があったんだけど、やっぱり、今日、分かったよ。ゼルは何も変わってないって」
イロウは少し目を潤ませながら笑顔を作った。
「変わったわ、私。イロウの知ってた頃の私じゃない。だから、イロウと話したくなかったの。変わった私を知られたくなかったから」
私は彼の顔を直視できずに、海のずっと向こうに目をやった。
ちょうど水平線に夕日が落ちていくところだった。
「輝基が、好きなんだろ?」
唐突なイロウの言葉に、思わず振り向いて彼の顔を見た。
「あいつはやめとけよ。恋愛なんて、するタイプじゃない。あいつの頭は研究のことでいっぱいで、高等部の時だって、女の子から告白されても必ず断ってた」
「そうなんだ」
動揺したのは一瞬だけだった。
私はまた海のほうへ、ゆっくりと顔を向けた。
「高等部一年の二学期ごろからかな。
あの時から、あの約束の日から、もうすでに彼は私の操縦者になることを決意していたのだ。
涙が、溢れてしまいそうだった。
どんな気持ちで、彼はこの世界で毎日を過ごしていたのだろう。
私は、彼が友人と笑いあって、楽しく学園生活を送っていることを想像していた。
私とは全く別の世界で、そうやって過ごしているんだと思い込んでいた。
今だから分かる。
自分だけ、違う世界で生きていることを、誰にも話せない苦しさを。
自分だけ、違う世界の住人であることを、誰にも理解してもらえない孤独を。
「そっか」
私は込み上げる涙を飲み込むようにして、呟いた。
その時、左の手首が震えた。
ディスプレイには、『blue lotus』と表示されている。
「ごめん。友達からコールが来たから、ちょっと話してくる」
私はイロウから少し離れて、ディスプレイをタップした。
『ゼル、僕だ』
聞き慣れた声が、頭の中で響いた。
『今、どこにいる? もしかして、遊園地?』
「ええ、イロウに誘われたの」
『どう? 楽しい?』
「ええ、とても楽しいわ」
『そっか。それは良かった。楽しんでいるところ申し訳ないんだけど…』
輝基は少し躊躇ってから、意を決したように話し出した。
『ミッションの通達があった。これから出動する。今から送るアドレスの場所で集合しよう』
「分かった」
私は素早く返答して通信を切り、イロウのところまで小走りで戻った。
「ごめん。友達と約束してたのを忘れてたみたい。せっかくなのに勿体ないけど、帰らないと…」
緊張から、思わず声が震えてしまった。
「遊園地は逃げないよ。また一緒に来よう」
イロウは小指を立てて、こちらへ差し出した。
私はその小指に自分の小指を絡ませる。
「ゼルに見せたいものがあるんだ。今度、俺のマンションに輝基と一緒に遊びに来てよ」
イロウは、あの頃から何も変わらない。
正直で真っ直ぐで、あったかくて、泣き虫。
イロウの涙に誘われて、私の瞳からも一粒の涙が零れ落ちた。
「必ず、遊びに行く」
絡めた小指を解いて私は走り出した。
イロウを振り返ることなく、ただ真っ直ぐに、全力で色とりどりに煌めくパステルカラーの夢の国を走り抜けていった。
輝基の待つ、醜く腐った私たちの世界へと向かって。
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