灰色の中の従順

 その日は朝から雨が降っていて、中庭から見える空は、どんよりと曇って建物と同化して灰色の大きな天井のように見えた。


 それでも私の心は、真っ青な夏の空のように澄み切っていた。


 今日は、彼との二度目の回復力テストの日だ。


 一週間に一度の予定だった回復力テストを、2日に一回行うことになったと連絡があったのは、その日の朝のことだった。


 あれから、まだたったの2日しか経っていないということが信じられなかった。


 回復力テストへの恐怖よりも、彼とまた二人きりで話ができるということの喜びのほうが大きいように思えた。


 二度目のテストのために実験室に向かうと、彼はすでに実験室の中にいて、手術台のそばにあるパイプ椅子に腰掛けて、タブレットへ目を落としていた。


 私が入ってきたことに気づくと、いつものように優しい笑顔を作ってくれる。そんな彼から視線を逸らして、私は黙って実験室の手術台に腰掛けた。


 あんなに見つめたかった瞳なのに、いざ、彼を目の前にすると、見つめ返すことが難しい。


「君のように人工知能化ウイルスに感染した者の中で、ごく稀に、痛覚が完全に残ってしまう者がいる」


 彼は唐突に話し始めた。


「人工知能化ウイルス……?」


「そう。これは君に話すことは禁じられている事項だが、僕は君に全部きちんと話しておきたいと思う。だから、これから話すことは、誰にも言っちゃいけない。分かるね?」


 話しながら、彼は立ち上がり私の前までやってきた。


 私は彼に向かって、左手の小指を差し出す。


「約束します」


「ゼルは、いい子だね」

 彼は私の頭に手を伸ばして、思い直したように手を元に戻した。


「約束を破ったら、小指を切り落としてしまって構いません」


 私はおどけるように微笑みながら言った。


「『約束を破ったら、小指をあげる』か、懐かしいな。でもね、ゼル、僕は君の小指はもうすでにたくさん持ってるよ。それに、切り落とさなければいけない場所は小指だけじゃない」


 普通に考えるとかなり気味の悪い内容だったが、彼の子供を脅かすような言い方が面白くて、思わず微笑んでいた。


「私の小指を持ってるとはどういう意味ですか?」


「それは、今から順を追って説明する」


 彼はいつものように眉毛を下げて笑顔を作った。


「ここは人工知能技術研究所、通称IAITという場所で、学校じゃないんだ。君は、ヒトの脳を人工知能化するウイルス<シャドウメーカー>をSBDにインストールさせられている。そのウイルスに感染した人間は、好き嫌いの感情や善悪の区別が無くなり、自発的な行動をあまり取らなくなる。これを僕たちは『AI化』と呼ぶ。なぜAI化が必要かというと、君たちをコントロールするためだ」


「何のためにコントロールするのですか?」


 私が一番気になっていたことだ。何のためにこんなことをするのか。

 その目的は何か。


「君たちは、この国の特殊警察が管理する対人処刑ロボトイド<オンブレ>として、同組織に配属される。かつて、同組織にはIAITが開発した対人処刑ロボット<シャドウ>という兵器が存在していた。それのリプレース兵器として開発されたのが、君たち<オンブレ>だ」


 私たちが兵器?


 何を言っているのか、すぐには理解できずに、私はただ彼の説明を淡々と聞くしかなかった。


 この国には、国家反逆や重大犯罪を計画、もしくは犯している人物を捜査し、犯罪の計画性が非常に高い、もしくは犯罪の事実があると認められた場合は、その人物や組織の幹部を処刑するという職務を担った国家組織がある。

 それが、特殊警察だ。


 その特殊警察が処刑の際に使用する兵器が、対人処刑ロボットであるシャドウだったのだが、シャドウにはいくつかの問題点があった。


 シャドウは、かなり高性能なAIを搭載した自律型四足歩行ロボット兵器であったが、街の中で人を追跡して殺害するという処刑任務には、高度な身体能力と大量のエネルギーを必要としたため、その高性能なAIに見合うボディの開発は難航していた。


 また、ロボットの歩行の際に出る音やその独特な頭の代わりに長い腕がついた犬のようなフォルムから、処刑対象に気が付かれやすく、任務の成功率はかなり低かった。


 そこで、輝基の父親である南川正輝の研究チームは、脳死した人間のSBDに処刑ロボットのAIを搭載し、死者の体をAIの入れ物として使うという研究を始める。


 人であれば、目や耳といった入力装置もすでに付いているし、口や手足といった出力装置も同様だ。


 AIが人をコントロールすることさえできれば、長年に渡り莫大な予算を注ぎ込んでいるのに満足のいく成果が得られていない自律型二足歩行ヒューマノイドよりも、遥かに高性能なボディを持ったヒューマノイドが完成する。


 機械を人に似せるのではなく、人を機械に似せるという意味で、この研究で開発される成果物は、robotoidロボットのようなものと名付けられた。


 この研究が始まってすぐに、脳死状態の人間ではSBDから脳をコントロールし、体の動きを制御することは難しいと判明した。

 その一方で、脳死前の人間の場合はSBDからコントロールすることが原理的には可能であるということも判明したのである。


 南川チームはSBDにインストールすることで人間の脳を次第にコントロールしAI化するプログラム<シャドウメーカー>の開発に成功。しかし、倫理的な問題からその研究はストップさせられてしまう。


 研究ストップ後も、南川長官は水面下で独自の研究を進め、オンブレの開発に成功した。そのプロトタイプである対人処刑ロボトイドは、長年にわたり特殊警察で処刑不可能と言われていた人物の処刑を見事に完遂した。


 これにより、IAITでのオンブレ開発は再開されることとなった。


 ただ、オンブレには一点問題があった。

 オンブレの体は生身の人間であるため、処刑ターゲットに傷を付けられた場合、ミッションの遂行に支障をきたしてしまう。


 そこで、オンブレの体の遺伝子を変異させ通常の人間より回復力を高める研究が進められた。現在ではオンブレ自身の細胞を取り出し、それを培養し人体のパーツを作成して取り替えるというところまできている。


 ところが、この回復力の向上はオンブレの個体によりかなりの差があることが現在の研究では分かっている。


 通常は、痛覚がなくなる頃には、人体のパーツを切り落として代替パーツへと付け替えられるくらいには、回復力が向上している。


 しかし、ごく稀に痛覚が完全に残ったままになってしまうオンブレが存在する。

不良品リジェクト』と呼ばれるオンブレだ。


 そういう者は体を切断し、パーツを付け替えられるほど回復力が向上しないため、IAITにおいて、『不良品リジェクト』とみなされてしまい、現在では処分対象となっている。


 輝基が安藤を退けて単独で執刀することにしたのは、このためだ。


 痛覚の減退が遅いだけなのか、『不良品リジェクト』なのかで私の運命は大きく変わることになる。


 輝基の説明を聞き終えた私は、不安を覚えた。


 シャドウメーカーをインストールしていない私は、おそらく痛覚がなくなることはないのではないか。

 ということは、回復力もパーツを交換できるほど向上しないということになり、『不良品リジェクト』となる可能性が高かった。


不良品リジェクトと判定されたら私はどうなるのでしょうか。やはり、実地訓練のターゲットとなるのでしょうか」


 エメラルドグリーンの彼女の顔が、目の前にチラつき、寒気が襲った。


「僕がデータを見る限りでは、回復力と痛覚の減退は必ずしも比例していない。ただ、安藤チーフに先に知られるのはマズい。どんな実験に回されるか分からないからね。僕があの人から君を守れるのは僕の夏休みの間だけだ。その間にできる限りテストを進めておかないといけない」


「それでも……」

 彼は急に口元に手を当てて考え込んだ。


「夏休みが明けたら、安藤先生がテストの続きをやるんですね」

 心がギシギシと錆びついていく。


「僕がいなくなってからが問題だ。鎮痛剤を多量に飲むと朝の血液検査でバレる可能性がある。痛覚の減退が進行しなくても、つまり、痛みがあっても、痛くないふりをしなければならないと思う。そんなことがAIである君に可能なのか分からないんだけど。やはり強い痛みがあると判明すれば、リジェクト判定にされる可能性が高い。どう考えても2ヶ月でこのテストを全て終えることは不可能だし…」


 彼は口元に手を当てたまま、天井を仰ぎ見た。


「先生、つまり、痛みを我慢すればいいんですよね? この2ヶ月で痛みに耐える訓練をすればいいのではないでしょうか」


 私は彼に気づかれないように、深く息をついた。本当は不安で恐ろしくて今にもガクガクと震えてしまいそうだ。

 それを何とか堪えて、左手で体を押さえつけて打開策を考える。


 この一年ほど、感情と状況とを分離して考えるように努めてきた。

 怖くて仕方ないときは、より冷静に状況を判断することに集中すればいい。


「痛みに耐える訓練? なるほど、調べてみる価値はある」


 彼は手元のタブレットのキーをタップしながら呟いた。


「文献があった。たしかに痛みを訓練で軽減することができるかもしれない。しかし、もし本当に回復力が向上しないタイプのオンブレであった場合、我慢していてそのまま腕を切り落とされてしまったら、もう二度と君の腕は元どおりにはならない」


 私は彼の目をじっと見つめた。

 この部屋に入ってきて、初めてしっかりと見つめ返すことができた。

 この瞬間が永遠になることを願ってしまう。


「もしそうなったら、先生が私のことを殺してください」


 彼は驚いた顔をしてそのまま固まってしまった。

 長い沈黙。


 彼はタブレットを手術台に置き、ゆっくりと右手を私の首に這わせた。そして、左手で反対側の首を掴む。

 ひんやりとして、するりと長い指の感触が、私の首にまとわりつく。


 親指で顎を引き上げられた私の顔を、彼は覗き込むようにじっと見つめた。

 黒い瞳が私を見下ろす。

 その手に力が込められていく。


 目を閉じる。

 待ちわびた彼の手の感触。

 このまま、殺されても構わない。

 心臓の音が、彼に聴こえてしまいそうだ。

 どうか、早く止めて。


 次の瞬間、私の首から彼の手の感触が消えた。


「僕は、君を殺せない」


 私は、ゆっくりと目を開けた。


「だから、僕がここに戻ってくるまで、絶対に生き延びるんだ。僕の計画には君が必要だ。必ず生き延びろ。これは、命令だ」


 あの時と同じ目だ。

 獣のような、鋭い眼差し。

 全身の血が沸き返るようだった。


 こんなにも誰かを、強く、強く求めてしまう感情があることを、私は今まで知らなかった。


「はい、先生。分かりました」


 人を操るのに、人工知能なんて必要ない。

 だって、私はたとえどんな醜い命令だとしても、きっとあなたの言うことならば、こうやって受け入れてしまう。


 たとえどんなに、つらく苦しくて、絶望しかないような、そんな日々だったとしても。



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