青き聖者の密約

 305実験室の前に到着すると、扉の上の液晶パネルには『使用中』と表示されていた。


「おかしいな。305を予約したはずなんだけど」

 そう彼はつぶやいて、305の扉を開き、中へ入っていった。私も彼について実験室に入る。


「遅かったね。君たち」


 そこには、実験台の奥側に立つ安藤の姿があった。


「先生、どういうことですか? 彼女の執刀は僕が単独でするということになったじゃないですか」


 彼は落ち着いた様子で、そう答えた。


「南川長官に可愛がられているのは、息子の君だけじゃない。知っていたかな? オンブレの研究はこの僕が確立したようなものだ。もちろん君のお母さんも僕が執刀した」


 安藤は不敵な笑みを浮かべると、サバイバルナイフをトレーの上から摘まみ上げるように持ち上げ、そのナイフを彼の方へ差し出した。


「やるんだろう? 回復力テスト。回復力テストは遊びじゃない。きちんとできるかどうか、君の本気を見せてもらわないと困るんでね」


 彼は差し出されたナイフをしばらく見つめていたが、それを受け取ると目を瞑って大きく息を吐いた。


「分かりました。その代わり、次回からは僕一人で執刀することを許可していただけますか?」


 鋭い目つきで安藤を睨みつける。


「君は南川長官と折り合いが悪かったはずだ。なぜ突然、この研究所に研修に来ようと思ったのかな? 理由があるなら聞かせてもらおう」


「父の仕事がようやく理解できてきたからです。僕もオンブレの開発に携わってみたくなりました」


「そうか。ならば、見せてもらおうか。オンブレを人間として見ているような研究員には、大切なテストを任せられないのでね」


 安藤は輝基の後ろに隠れるように立っていた私の腕を掴んで引っ張り寄せると、そのまま肩に手を巻きつけ羽交い締めにした。


「まずはこの子の着ているワンピースをそのナイフで切って、脱がせなさい。回復力テストはオンブレを脱がせるところから始まる」


 安藤の笑い声に混じる熱い呼吸を耳元に感じる。

 輝基はナイフを持って私の顔を見つめていた。


「そうやっていつも、オンブレをなぶって遊んでいるわけですね。『彼らは命令には従うが、恐怖心は残っている』そう教えてくれたのは安藤先生、あなたです」


「君、よく覚えていたね。そうだ、オンブレは命令には従うが、恐怖心は残っている。なぜだか分かるか? オンブレは痛みをほとんど感じない。よって、恐怖心がなければ、命令以外の危険な行動に出てしまい、身体を損傷する危険が非常に高まる。オンブレの体は鍛え抜かれているとはいえ、所詮は普通の人間と同じだ。体の損傷が増えれば、回復にエネルギーを使わなければならず、ミッションへの影響は避けられない。パーツの付け替えも、もちろん人間と同じように手術する必要性がある。ロボットのようにガッチャンガッチャンと付け替えられるわけじゃないからね」


「恐怖心を高ぶらせながら、回復力テストをすることで、身体へ傷を負うことは、怖いことであると植え付けるわけですね」


 安藤はおかしくて仕方がないという様子で答えた。


「さすが、南川長官の息子だ。驚くほど理解が早いじゃないか。ただね、理由はそれだけじゃないよ。僕がね、好きなんだ。彼女たちに残った人間らしい恐怖の表情を眺めることが」


 羽交い締めにしていた手を、片方ずつ私の首に回して、安藤は力を入れた。


 苦しい。息ができない。

 首元に手をやり、必死に安藤の手を剥がそうとするが、さすがに男の力には勝てそうにない。

 どんどんと頭の中が真っ白になってくる。


「さあ、早くしないと彼女は死ぬぞ」


 輝基は私のワンピースの襟首を掴んで、その横にナイフを当てがった。


 一気にワンピースが裂ける衝撃が体に伝わってくる。


 おそらく、皮膚も少しかすったのだろう。所々に痛みがあり、血が滴る感覚がある。


 安藤の手の力が緩み、その衝撃で私は床に崩れ落ちた。


 喉に手を当てて、咳き込んだ。

 鬱血していた血が戻ってくるのが分かる。


 息が落ち着くのも待たずに、脇を掴まれて立ち上がらせられた。


 右頬に強い衝撃が走り、頭がグラグラとする。


 殴られたのかもしれない。


 意識が朦朧として、殴っている相手が誰なのか判別はできない。


 そして、フラフラになった体を支えるように、冷たくて大きな手が私の背中に触れた。


 私を殴ったのは、おそらくこの手だ。


 そのまま床に寝かせられると、口に何かを押し込まれた。布のようなものかもしれない。

 実地訓練で、私が何度となくターゲットにやってきた行為だ。


 次の瞬間、腹部に激しい痛みが走った。


 痛みで、声を上げそうになるが、うまく声が出ない。

 その代わりに、涙が溢れ出た。


 その涙を隠すように、大きな手が私の目元を覆った。


 このまま殺されてしまうのだろうか。

 怖い。怖くて体が震えてしまいそうだ。


「安藤先生、僕がなぜ一人で執刀したいと言ったか分かりますか? 子供だと舐めないでいただきたい。僕がオンブレに傷をつけられないと思われたのなら心外です。先日、先生に生意気な態度を取ったのには理由があります。オンブレの回復力テストをどのように行うかは、あなたの自由です。しかし、強姦するのには賛同できませんね。彼らは私たちの大事な成果物なんです」


 安藤は鼻を鳴らして不機嫌そうな声を出した。


「なるほど、そういうことか。長官へ私が生徒たちを強姦していると告げ口したわけだな」


「まさか、そんなことしませんよ。そんなことを父が知ったら、あなたは生きてここから出られないんじゃないですか? 僕の母もあなたが執刀していたのですからね」


 長い沈黙が訪れた。


 私は視界を塞がれているので、二人がどんな表情をしているのか、知ることはできない。

 ただ、私の目を覆う彼の手は、小刻みに震えていた。


「君は何か勘違いしているね」

 静寂を破り、ようやく安藤が口を開いた。何がおかしいのか、薄ら笑いを浮かべていることは口調を聞いただけで分かる。


 冷たい手が燃えるように熱くなった。


「母がシャドウメーカーに感染したのは、事故だと聞きました。その後、父の判断で母をオンブレのプロトタイプとして実験を重ねた。僕が父の立場でも、同じことをしたでしょう。一度シャドウメーカーに感染したら、ウイルスを脳から取り除く方法は、今のところ、存在しない。僕の母は死んだも同然です。ならば、オンブレ研究の発展のために、母を活用すべきだ。実際に、母がいなければ、オンブレは完成していなかったでしょう。僕は、父もあなたも恨んでいません。むしろ、科学者として、尊敬しています。ただ、あなたが母を強姦していたというなら話は別だ」


 輝基の荒々しい息遣いが頭上から聞こえる。


「なるほど、君の言いたいことはそれだけか? 君の熱い演説に免じて、このオンブレのことは譲ってやろう。僕が生徒たちにしていることを長官に言いたければ言えばいい。長官は僕のしていることなど百も承知だ。お父上もご存知のとおり、僕は十代の少女が大好きでね。君のお母さんのような大人の女性は好みじゃない。そうじゃなければ、君のお母さんの執刀を長官が任せるわけがない」


 安藤の足音が入り口のほうへと向かっていく。


「誤解が解けたようで何よりだ。分からないことがあれば、いつでも指導を仰ぎに来たまえ」


 防音扉が閉まる重たい音が響いた。


 目元を覆っていた手が離れ、その手で詰められていたものが取り除かれた。

 一気に酸素が入ってきて、思わず咳き込んでしまう。


 そして、背中に両手の感覚を感じた次の瞬間、体が宙に浮いた。


「急所は外してるが、出血量が多い。止血して輸血を開始する。心配しないで。今日は局部麻酔を持ってきた。君は絶対に死なない」


 恐る恐る目を開けると、注射器を手にした彼の青ざめた顔が目の前にあった。

 視線を腹部に向けると、そこには、先程、安藤が彼に差し出したサバイバルナイフが根元まで突き刺さっていた。


「先生…私…」


 ナイフが突き刺さる部位に注射の針が刺さる感覚が伝わる。


 彼は私の呼びかけに応えることなく、額に溢れる汗を白衣で拭いながら、輸血用の点滴の準備に向かった。


 彼の白くて長い指が、素早く丁寧に流れるように作業する様を眺めていると、痛みは殆ど感じなくなっていった。


 麻酔のせいなのか、彼の手に心を奪われてしまったからなのか、そのどちらだろうか。


 私を殴ったからだろう。拳の節の部分だけ赤みを帯びている。


 もう少ししたら、あの手で触れられる。

 そう考えただけで、頭の奥がぼうっと痺れるような感覚に包まれた。


 そして、間もなく、輸血の点滴が装着されると、彼の手が私の腹部に伸びた。期待と恥ずかしさで溜まった唾液を、飲み込む。

 しかし期待とは裏腹に、局部麻酔をしているせいだろうか、手の感触はよく分からなかった。

 ナイフが引き抜かれる感触はあった。まるで内臓を取り出されているかのよう。


 そこで意識が遠くなっていった。


 次に目を開けると、目の前には私の頬に手を置いて心配そうに覗き込む先生の姿があった。


「まるで夢の中にいるみたい」


 私の呟きを聞くと、彼は苦痛の表情を浮かべた。


「ごめん、ゼル」

 彼は私の頬をさすりながら、何度も謝った。


 そして、その黒い瞳で灰色の天井と彼のちょうど中間地点を捉えると、何かここには存在しないものを睨みつけるようにして、唸り声を上げた。


 それは泣き声のようでも叫び声のようでもあり、その咆哮は、私が今まで聞いたことのあるどんな悲しい歌よりも、悲しい響きをしていた。


 どのくらいそうしていただろう。

 長い沈黙のあとに、彼はどこか一点を睨みつけながら口を開いた。


「いつか君を、僕が本当の君に戻す。

 ゼル、僕は今日からファウストになる。この、腐った世界を終わらせてやる。約束だ」


 怖いくらいに力強い瞳だった。


 まるで獲物を狙う肉食動物のようなその表情に、全身の鳥肌が立った。


 ファウスト。

 悪魔に魂を売って、悪魔の力を手に入れた科学者。

 悪魔になってまで手に入れたいものがあるから、彼はきっとこの施設にやってきたのだ。


「君を、生き返らせてみせる」


 この美しい横顔を、私は一生忘れることはないと思った。

 たとえ私がどんな怪物に成り果てても、この美しい横顔だけは、けして忘れない。

 たとえ彼がどんな悪魔に成り果てても、この青く燃えていた心は、私がずっと覚えている。


「先生、私は生きています」


 あなたを、守るために。

 私は生きなければならない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る