エメラルドグリーンの死体

 施設では通常の中等部で行うであろう数学、国語、外国語、社会、科学の授業のほかに、武術、銃器、コンピュータサイエンス、情報セキュリティ、薬学、医学の授業があった。


 月に一度、実験棟の隣の巨大な建物の中で『実地訓練』が行われる。


 私たちはその建物の中で、ターゲットと呼ばれる人間を探し出し、その人間を殺さなければならない。


 この訓練が始まって、私はルカの言っていることが迷信や妄想などではないと、確信を持つようになった。


 この施設は、明らかに異常だ。

 彼らは私たちをモルモットにして、何か特殊な教育を施そうとしている。そうに違いなかった。


 実地訓練が始まったのは、入所してから4ヶ月後のこと。

 もうその頃には、同じ時期に入所した人間には変化が現れ始めていた。


 普通に話していたかと思うと、突然に微笑む。

 それを合図に、彼らは何を言っても怒らなくなる。どんなことでも、頼んだことはやってくれる。


 ルカは実験として、虫の嫌いなユリアにバッタを庭で捕まえてくるように頼んだ。

 数を指定しなかったので、ルカの部屋を開けたら10数匹のバッタが飛び回っていた。

 おそらく、中庭にいたバッタを全て捕まえて来たのだろう。


 まるでロボット。


 天気の話もできるし、雑談することもできる。笑うことだってできる。

 だけど、決して、ヒトではない。


 最初は、好き嫌いが無くなって、次は善悪の概念が無くなっていく、そして最後に痛みが無くなる。


 4ヶ月というと、ちょうど善悪の概念が無くなっていく頃だ。


 今だから分かる。

 この施設の人間は、この実験を何度も繰り返し行っていて、ウイルスが人に与える影響や過程を熟知している。


 ウイルスが人に与える影響が変化していくごとに、カリキュラムには新しいものが追加されていった。


 恐らく通常の人間では気持ちよく受け入れることができないような、醜悪な授業の数々が。


 初めての実地訓練の前の晩、ルカがその内容を教えてくれたのだが、私は人を殺す訓練と聞いただけで、恐ろしくて震えが止まらなくなった。

 生まれてから13年、人の死体も見たことがなかった。


 怖くて怖くて部屋の隅に丸まって泣き続けていた私に、ルカがハートの形をした消しゴムを渡してくれた。


「これ、お守り。ゲームだと思っちゃえばいいの。相手はモンスター。大丈夫、言われたことだけやればいい」


 ルカにそっと抱きしめられ、私の震えはようやく止まった。

 ルカの体はあったかくて柔らかくて、心まで優しさに包まれているような気持ちになった。


 その晩、私はルカのくれたハートの消しゴムを握りしめて眠りについた。


 初めての人殺しは、とても怖かった。今でも、あの時の、ナイフが人にのめり込んでいく感触を忘れたことはない。


 刺された人間の悲鳴と眼差しが、壊れた映画のように何度も繰り返し再生された。



 実地訓練時は、上下とも黒のスポーツウェアのような素材のユニフォームを着ることが義務づけられていて、腰には様々な装備品が入っているポーチが付いたベルトを装着させられた。

 両足には、大小のナイフを挿しておくことができるブーツ、上半身には防刃フード付きマントを身につけさせられた。


 私はユニフォームのズボンの左ポケットに、ルカからもらった消しゴムを忍ばせた。


 金属のデスクが並ぶ広いオフィスのような部屋の一番奥のデスクの下に、その女の人は隠れていた。


 教官の指示に従って、部屋の入り口からデスクの下を一つずつ確認していく。

 人の気配が奥のほうからした。

 耳をすますと、荒い呼吸が聴こえてくる。


 ターゲットにはこちらの気配を悟られてはいけない。悟られると襲いかかってくる場合もあるからだ。幸い私は、武術の授業の成績は非常によかった。


 大丈夫、これはゲーム。

 相手はモンスター。

 左側のポケットに手を入れてハート形の消しゴムを触った。丸い線を辿り、角の尖った部分の感触を確かめる。

 大丈夫、これはゲーム。


 そして、一気に体勢を低くして、呼吸の聴こえているデスクの左側面まで近づいて様子を伺った。


 デスクの下に膝を立てて座っているのだろう。膝から下のふくらはぎの部分がはみ出して見えている。


 私はその足を掴んで彼女を引きずり出す。

 部屋中に悲鳴が響き渡った。


 ターゲットに声を上げられると減点というルールがある。私は教官のほうを振り返った。


「よそ見をするな!」

 その声と同時に、引きずり出された女性は立ち上がり、入り口に向かおうとする。


 エメラルドグリーンに染めた毛先が女性の耳の横で揺れる。前髪は非常に短く、まるでキツネのような顔をした個性的な女の人だった。


 彼女の恐怖に満ちた瞳が私を捉える。


 私は必死で彼女の腰に飛びかかり、倒してうつ伏せに抑え込んだ。


 すでに遅かったが、彼女の口に実地訓練の装備として与えられていた布を、ポーチから取り出して押し込む。


 そして、うつ伏せに倒れ込んだ女性の背中にまたがって、両手を後ろ手にして結束バンドで縛ろうとした。だが、女性が暴れてなかなかうまいようにいかない。

 仕方がなく、何発か顔面を殴りつけた。


 女性はぐったりとして大人しくなった。


 押さえつけた相手が暴れた時は顔面を強く殴打するというのは、武術の時間に習ったことだ。


 ようやく落ち着いて女性を後ろ手に縛ることができた。


 私はブーツに挿してあるナイフを取り出した。


 ナイフを持つ手が震えそうになり、咄嗟に教官から見えない位置に手を下げる。


 前方からは教官の視線を感じる。

 躊躇ってはいけない。

 これはゲーム。相手はモンスター。

 そして、私は人形だ。


 怖い。人を殺したくなんてない。

 でも………、やらなければ、私が殺されるのだ。

 ルカ、怖い。

 ルカ、たすけて。


 私は思い切りナイフを振りかざした。


 顔を横に向けた女性が私のナイフを見上げて、何かをつぶやきながら私の顔に視線を移動しようとした。

 堪らず目を瞑って、彼女の心臓めがけて一気に振り下ろした。


 耳にこびりつく悲鳴。

 このシーンを思い出す時、この悲鳴はいつも私の声で再現される。


 ナイフはちょうど彼女の心臓のある位置に、綺麗に命中し突き刺さった。人に致命傷を負わせることができる詳細な部位は、SBDにインストールされている。

 彼女はビクンと大きく波打ち、そのまま動かなくなった。

 予想に反して、血しぶきは出なかったが、刺したナイフの根元から、血が波のように溢れ出し、ナイフを持つ私の手にもたっぷりと付いた。


 真っ赤というよりは、真っ黒に見えた。


 私は、真っ黒になった手で、ポケットの上からハートの消しゴムに触れた。何故か、もう怖いという感情は無く、助かったという安堵感に満たされていた。


 泣いてはいけない。泣くものか。

 私は泣かない。泣きたいのは、このエメラルドグリーンの髪をした彼女のほうなのだから。

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