22センチ先のダークグレー
私が進学した大学部の学園は東京だった。
小等部までは、私も東京に住んでいたのだが、もうなんだかすごく昔のように思えた。
あれから、まだ3年しか経っていないなんて、とても信じられない。
小等部の頃に住んでいたドミトリーを訪ねてみたいという想いに襲われたが、どこで誰に監視されているか分からない状況で、思い出を懐かしむ様子を見せるわけにはいかなかった。
そう、私は人形なのだから、思い出に浸ったりしてはいけない。
泣き虫で小さな子犬のような幼馴染が、どこでどうやって、どのように成長したのか確かめることは、諦めるしかなかった。
私に用意されたのは、大学部の学園にほど近い40階建の集合住宅の一室だった。
私の部屋は24階にある。窓からは遠くに東京湾が見えた。あの海の向こうには、自由な世界がある。私が一生、住むのことのない世界。
通常、学生は学生用のドミトリーに住むことになっている。一人暮らしをする学生は、特別に優秀な成績を修めて高等部を卒業した特待生だ。
要するに私は、『高等部で優秀な成績を修め、飛び級で大学部に進級した特待生』という偽物の経歴を支給されたということだ。
通常ならば、中等部を2年、高等部を2年経てから大学部に進学するが、特に優秀な生徒には飛び級で大学部に進学することが許されているのだ。
あの施設に連れて行かれてから3年が過ぎ、私は16歳になろうとしていた。
玄関のアラームが鳴り、モニターには3ヶ月ぶりに見る彼の顔が映った。
「ゼル、僕だ。入学式に行こう」
今日も
一瞬、心臓が締め付けられる。
大丈夫、もう感情は顔に出ない。
「はい、先生。了解しました」
「今日から僕たちは同級生の友人だ。敬語はやめてくれ。それと、『先生』も。いいね」
眉毛を下げて笑う、優しい笑顔。
彼とルカの笑顔は、どことなく似ていた。
命令をインプットする間を作る。
命令は速やかに、確実に履行せねばなならない。
「分かったわ。輝基」
名前で呼ばれた彼は、モニター越しに少し驚いた顔をして、そして照れ臭そうにはにかんだ。
彼がこの顔をするのを、もう何度も見たことがある。何度見ても、愛おしくてたまらなかった。
私は入学式用に準備してもらった何の飾り気もないグレーのスーツを着て、輝基と歩いて学園に向かった。
輝基は、ダークグレーのスリーピースのスーツを着ていた。初めて見る白衣以外の姿に、一気に胸が締め付けられる。心臓の音が聞こえてしまいそうで、胸の鼓動を止めようと、息を殺して歩いた。
学園までの道は、両脇に桜の木が無数に並んでいて、世界中がピンク色に染まってしまったと錯覚してしまうほどだった。
彼との距離は22センチ。
彼の手の感触を思い出す。
私の肌に触れる彼の手の感触。冷たくて、大きくて、優しい、あの感触。
こんな太陽の下で、二人並んで歩く日が来るなんて、あの頃の私は想像もしていなかっただろう。
輝基の住む世界の一員に、ようやくなれた。
長かった。
永遠に、こんな日は来ないとさえ思えた。
泣いてしまえたらどんなにいいだろう。
『うれしい』と伝えられたら、どんなにいいだろう。
輝基、あなたのことが好き。
そう伝えられたら。
「ゼル、僕との約束、覚えてる?」
輝基は私のほうに目を向けることなく呟いた。
忘れたことなどない。
「どの約束のこと?」
抽象的な質問には具体的な補足を求めなければならない。
「『いつか君を、僕が本当の君に戻す』って約束」
――いつか君を、僕が本当の君に戻す。
ゼル、僕は今日からファウストになる。この、腐った世界を終わらせてやる。約束だ。
忘れもしない。305実験室。
輝基は空に浮かぶ何かを睨みつけるように、歯を食いしばりながら、絞り出すような低い声でそう言った。
灰色の機械、残酷な凶器が並ぶ部屋。夏になると、私たちが一緒に過ごす部屋。
中庭の蒸し暑さが信じられないほど、あの部屋は、冷たくて、寒かった。
私はいつも実験台に寝かせられていて、痛みと苦痛で泣きわめきそうだった。
こんな痛みに耐えるくらいなら、自我なんて失くしてしまいたい。そう何度も思うのに、輝基の消え入りそうな「ごめん」の声を聞くたびに、忘れてしまいたくない、機械になんてなりたくない、そう思ってしまう。
私は、バカだ。本当に、バカだと思う。
自我があるなら、もっと早く自分で自分を殺してしまえばよかったのだ。
体の痛みなんかより、もっと痛い、こんなにも苦しい、こんな思いを知ってしまう前に。
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