残酷なモノクローム

林桐ルナ

ヘーゼルナッツ色のモルモット

 気がついたときには、いつも空はくすんでいた。

 なぜか、いつからか、私だけモノクロームの世界で生きている。モノクロームの世界に生きている私は、それでも毎日笑えている。笑顔の仮面をつけていれば、少しだけ世界に色が戻る。

 ここは暗闇じゃない。そのことだけにすがりついて生きている。


「どうして、やめてしまえばいいのに、走るのなんて。もともと苦手なんだし」


 暗闇の箱の中からもう一人の私はいつもそう囁く。


 走ったこともないくせに。ほっといて。

 私は無気力なまま、返事をする。


 走るのをやめる勇気なんてない。止まったらどうなるか、それを考えるのが怖い。

 本当は、ただそれだけのこと。


 鈍い痛み。

 それに目を瞑れば、緩やかに訪れる快楽。大丈夫、ここは夢の中。私は人形。

 そう何度も言い聞かせる。

 あの人の吐く息は、カビ臭いチーズのような臭いがして、いつまで経っても慣れない。

 何度、唇を重ねても、舌を這わせても、この臭いだけは、粘着質で小さな虫が体を這い上がってくるような感覚を私に覚えさせる。


「君は、AI化されても、どこかまだ完全に人工的じゃない。僕の思っていたとおり、君は美しい」

 私の下腹部に広がる自分の体液を見下ろしながら、あの人は言った。


「褒めていただき、嬉しいです。ありがとうございます」

 私は口角を緩めて少し釣り上げながら、そう言った。大丈夫、今日も笑えてる。


 あの人が、服を着て出て行くのを確認すると、急いで服を着て、自室へと向かう。部屋に入り扉が完全に閉まったのを確認すると、シャワールームに駆け込み、体を掻きむしるように洗い流す。体にできた無数の掻き傷からは血がにじんだが、すぐにそれらは幻のように消えてなくなった。


 何も中身の出てこない胃から、力づくで黄色い液体を吐き出す。


「たすけて…」

 普段は決して見せてはいけない涙が頬を伝う。


 この生活がいつまで続くのか、分からない。どうすれば終わりにできるのか、分からない。

 見回しても助けてくれる人は見つからない。

 戻りたい。元の生活に。

 あと少しだけ、あと少しだけ頑張れば、ここから出て大学部の研究室に配属になると聞いた。

 そうしたら、この生活に終わりが訪れるのかもしれない。いや、この国から出られない限り、この地獄は終わらないのかもしれない。

 希望と絶望が数秒ごとに訪れる。


 誰か助けて。

 先生、助けて。

 いつ、戻ってきてくれるの。


 扉からアラーム音が聞こえた。


 部屋に取り付けてあるモニターに緑色の光が灯り、黒髪のショートカット姿の女性が映る。

 何度見ても、この人の顔を見ると、ゾッとする。


「ゼル、あなたが配属になる大学部の研究室が決まりました。少しお話したいので、キーを解除してください」


 私は急いで涙を拭い鏡を見て深呼吸をしてから、モニターに駆け寄った。

「午睡をしていました。ただいまキーを解除いたします」


 解除キーをタップすると、扉が開き、手にタブレット端末を持った雲村さんが室内に入ってきた。

 そして彼女は、無機質で色のない部屋の隅に置いてある何色か分からない色をしたソファに「失礼するわね」と言って腰を下ろした。


「あなたはこの春、この施設の研修過程を全て終了し、大学部に進学することが決まりました。それにあたり、注意事項を述べますのでよく聞いて、インプットするように」


「はい。了解いたしました」


1. この施設で行ったテストや研修内容、食事についての言及をしない。


2. この施設で知り合った人間について、その名前、役職、容姿について言及しない。


3. 学生時代の思い出について言及を求められた場合は、コード5000から5800までを参照し、判断できない質問をされた場合は、曖昧表現を使用し返答すること。


4. 毎週、金曜日に一週間の出来事をまとめ、レポートを提出すること。レポートの送信は、専用暗号化通信ネットワーク<unknown>を使用。


5. 体調不良を感知した場合は、民間の医療機関ではなく、指定医療機関で診療を受けること。指定医療機関以外ではいかなる医療行為も受けてはならない。


6. [秘匿]とラベルされたデータについての開示は施設コントロールセンターへ開示許可を求めること。


「主な注意事項は読み上げました。残りの注意事項は目を通しておいてください。何か不明な点はありますか?」


「残存記憶についてはどのように対処すれば、よろしいですか?」


「質問は具体的にお願いします」

 カルテから少しだけ目をこちらに向けて、彼女は返答した。


「残存記憶に残る人物に再会した場合は、どうすればいいでしょうか?」


「あまり接触しないようにしてください。思い出話を2~3分ほどしたら切り上げること」


「了解いたしました」


 まるでモルモットを観察するような目で、彼女はしばらく私を見つめると、すっと立ち上がり「では」と言って部屋を出ていった。


 ここが通称IAITと呼ばれている施設だと知ったのは、ここに連れてこられてから3日後のことだった。


 それを教えてくれたのは、私より2ヶ月先に入所した同じく中等部一年の少女、ルカ。


 彼女の部屋は私の部屋の隣にあった。

 いや、正確に言えば、『かつて私の部屋の隣の部屋に、彼女がいたことがあった』と表現するほうが正しい。


 彼女は、もうここにはいない。

 いや、正確に言うのならば、『彼女はもう、この世には存在していない』。


 The Institute of Artificial Intelligence Technology

 人工知能技術研究所


 私が中等部に上がりしばらくしてから連れて来られたこの場所は、そう呼ばれる施設の実験棟らしかった。


「ゼル、誰にも言っちゃダメだよ」

 ルカは、まるで子供のように人差し指を口に当ててこの施設の異様さを教えてくれた。笑うと眉が下がるヘーゼルナッツ色の長いツインテールが印象的な女の子だった。


 ルカが施設の異様さに気づいたのは、偶然の出来事からだ。


 ルカは極度の牛乳嫌いで、一口も牛乳が飲めない。小等部のドミトリーに住んでいた頃はそれが恥ずかしくて、いつも隠して生活していたらしい。

 だから、彼女が牛乳を嫌いなことは仲のいい人間以外は、ほとんど気がついていなかった。


 この施設の食事には必ず牛乳が付いてくる。彼女は飲んだふりをしてトイレに行って吐き出していたそうだ。

 小等部の頃にそうしていたように。


 入所してから2週間くらい経った頃だった。

 彼女はひどい頭痛に悩まされるようになり、それは夜も眠れないほどだったという。


 医務室の先生に相談すると、いろいろ問診を受けた最後に、「そういえば、牛乳はちゃんと飲んでる?」と聞かれたそうだ。

 その時、彼女は咄嗟に「飲んでます」と答えた。子供の感受性の強さが、何かを察知させたのかもしれない。そして彼女は、何故そんなことを聞いてくるのか気になった。


 後日、彼女は脳内に装着されているSBD(サイドブレインドライブ)の動作確認検査と合わせて脳全般の精密検査を受けることになった。


 現在、日本国では約95%の人間の脳にSBDと呼ばれる人工細胞化記憶ドライブが埋め込まれている。

 SBDには、リコレクションと呼ばれるデータの塊を耳の後ろにある入出力端子からインストールすることができ、リコレクションをインストールすることにより、作業に必要な膨大なデータを脳内の記憶として使うことができるようになる。


 ヒトの脳内に人工物を移植するのにはそれなりのリスクがある。

 ではなぜ、日本国民はそんなことをするのか。


 それには、この国の置かれた特殊な、いや、異常な環境が深く関係している。


 私たちが住むこの国は、地球上に存在するただ一つのアイソレーテッドネーション。


 『隔離国』なのである。


 ルカは小等部の頃から、リコレクションに興味を持ち、ジャンクリコレクションと呼ばれるゴミのようなリコレクションを秋葉原で買い集めては、それをSBDエミュレータで解析するということを趣味にしていた。

 SBDエミュレータは、SBD埋め込み済みのヒトの脳を、仮想的に端末上で再現するソフトウェアだ。リコレクションを端末で作成・修正したり、解析するために使用される。


 この施設では、毎日、朝に新しいリコレクションが配布される。

 そして、それをSBDにインストールしてから授業を始めるというルールになっていた。


 ルカは与えられた個人用の端末にSBDエミュレータをインストールし、このリコレクションを解析していたようだ。


 牛乳は飲んでいるのかと聞かれたことで、ルカの頭にはある仮説が浮かび上がった。


 与えられていたリコレクションには、明らかに授業で使うデータとは思えない暗号化されたプログラムのようなものが入っていて、SBDにインストールすると、そのプログラムが自動的に動き出し、何かを始める。


 ただ、ルカの持っている知識では、それ以上のことは分からなかった。


「あれ、ウイルスなんじゃないかな?」

 ルカは不謹慎と言えるほど楽しそうに話した。


「私たちのSBDにウイルスを仕込んでる。そう考えるのが自然だと思うの。そのウイルスはSBDの制御を乗っ取るだけじゃなくて、私たちの本当の脳の中に侵入してしまうんじゃないかって。あくまで仮説よ。だから、私たちの本当の脳がウイルスに抵抗しないように、牛乳の中に何かを入れて飲ませてるのよ」


 私はとてもその話を信じる気にはなれなかった。彼女は、普段から、少し浮世離れした雰囲気のある女の子だったので、その時は奇妙な妄想と捉えることしかできなかった。


「だって…それが本当なら、私たち人体実験されてるみたいじゃない」


「そうよ。私たち、たぶんモルモットなの。そう考えたほうがいい。ユキトって私と一緒に入所したんだけど、最初はあんな感じじゃなくて、すごく怒りっぽい子だったのよ」


 ユキトはいつも物静かで、窓際で物語を読んでいる男の子だ。


「彼の変化が一番早かったんだけど、最近は他の子もだんだん性格が変わってきてる」


 ルカは、その後の精密検査の時に、疲れているのだろうということで点滴を受けたそうだ。

 点滴を受けてからしばらくは、頭痛は無くなったが、リコレクションをインストールするたびに頭がぼーっとするような感覚に襲われて、一日のうちに何度も記憶がなくなるようになった。


 ルカは配布されたリコレクションを解析し、リコレクションから例の謎のプログラムを除去するプログラムを作成することに成功した。彼女が入所してから1ヶ月後のことだ。


 プログラムを除去してインストールするようになってからは、頭痛は少なくなった。

 ただ、記憶がなくなる回数は緩やかだが、増え続けているというのだ。


「ウイルスは、一度侵入してしまうと、除去しない限り、SBDに残り続けて爆発的ではないけれど、緩やかに本当の脳を乗っ取ろうとするんじゃないかっていうのが、私の仮説」


 ルカは端末のSBDエミュレータの画面を見せながら私に説明してくれた。ほとんどのことは理解できなかったが、SBDから脳へのデータ転送波形が、通常のリコレクションの転送波形と明らかに違うのは私でも分かった。


「リコレクションの配布は、入所してから1週間後。だからまだあなたのSBDにはこのウイルスは入ってないわ。嘘だと思ってくれていいから、このウイルス駆除ソフトでウイルスを除去してからインストールして。たぶん牛乳のほうは、飲んでも大丈夫だと思う。100%大丈夫かなんて分からないんだけど」


 それを言ったときの彼女の顔は、今までの子供のような表情とはまるで違う、ゾッとするような表情をしていた。


 彼女の話を頭では信じられなかったが、なぜか心は、彼女の話を信じたい、信じないといけない、そう感じていた。


 だから、私は彼女からそのソフトをコピーさせてもらい、リコレクションの配布が始まった日から毎日欠かさずにウイルスの駆除を行ってからインストールを実行した。


 それから一年の間に、私と同時に入所した3人は、次々に変貌していった。一見して普通の人間、しかし、彼らには心がない。


 その変貌ぶりを、『自我の消失』と表現すると、しっくりと受け止めることができた。


 その間に、ルカもだんだんと変貌していき、一日のうちで、彼女があの無邪気な顔を見せるのは2~3時間までになった。


 それでもルカは、その時間を利用して、この施設のことをいろいろと調べて回った。


 何の目的があって、子供たちを集め、ウイルスをインストールさせているのか。ウイルスをインストールすることによる効果はどんなものなのか。この施設は一体何のために作られた施設なのか。


「ゼル、この施設の別の場所では人工知能を搭載したロボットを作ってるみたい。安藤先生からいろいろと聞きだしたの。あの先生、女の子には弱いのよ。というより、もう私たちには自我はないと思ってるから機密事項も話してしまうのね、きっと」


 昼食後に中庭の花壇の横のベンチで話すのが私たちの日課となっていた。

 施設の中は、まるで白黒画像で作られたように、色という色がない。

 世話人と呼ばれる人たちや、先生と呼ばれる授業をしてくれる人たちも、何故か、みんないつも白衣を纏っていた。

 色を感じられるのは中庭しかない。


 中庭には、芝生が茂り、花壇には少しばかり花が咲いていた。そして、四角い空が見えた。空が見えるのはここだけ。

 私たちの個人部屋には窓がなかった。


 彼女は調べてきたことを逐一私に報告した。


「ゼル、あなたは<ゼル>のままでこの施設からいつか出て行く。それで、この施設で何が行われているのか、誰かに話してほしい。そして、もう無理かもしれないけど、私を、<ルカ>を取り戻して欲しいの。お願い」


「そんな、私、自信がない。なんだか雲村さんに気づかれてる気がするの」


 この施設に入所している学生には、それぞれ担当の世話人という人が当てがわれている。

 何か生活上困ったことがあるときや、必要な備品があるときなど、全てこの世話人へ話をすることになっていた。

 私の担当世話人は雲村さんだった。


「世話人の?」


 ルカに問われて、私は静かに頷いた。


「大丈夫。忘れないで。『泣かないこと、大声で笑わないこと、怒らないこと、不満を言わないこと、どんな嫌なことがあっても言われたことは必ずやること』みんなそうなった。それを守っていれば、絶対に疑われたりしないわ」


 ルカは私の頬っぺたを包み込んで、子供に言い聞かせるように言った。


 ウイルスは本来の彼女の性格をも変えてしまう効果があるのだろうか。

 そう思えてしまうほど、その時の彼女はいつもの彼女と違って、大人っぽかった。


「わかった」


 私がそう言った瞬間だった。

 彼女の動きがわずかに止まって、ゆっくりと笑顔になった。


 また、彼女はいなくなってしまった。

 この表情は彼女のものじゃない。


 どこか大人びた美しい微笑。


 みんな、施設に来てしばらく経つと、この顔をするようになる。


 ルカ、行かないで。ルカ。

 私を一人にしないで。


 心の中で叫ぶ。

 涙が溢れそうになる。


 中庭の入り口に雲村さんの姿が見えた。


 私は口元を緩めて、引き上げた。

 ルカの真似をすればいい。

 そう言い聞かせて。


 怖い。

 まるで観察されているような気がする。


 いや、気がするのではない。

 私たちは観察されているのだ。

 体が燃えるように熱くなっていくのが分かる。


 しばらくこちらをじっと見ていたが、彼女はまた棟の中に姿を消した。


 ため息のように息を吐いた瞬間に、自分が息をしていなかったことに気がついた。


 これじゃダメだ。いつかバレてしまう。


 それから私は、常に感情を表に出さないように、部屋で一人でいるときすらも気をつけるようになった。


 もうすぐルカはいなくなってしまう。


 私がここに来て初めて出来た友達、そして、唯一の友達。


 彼女が消えたのは、その二週間後のことだった。中庭にはピンク色のサクラソウが咲く、美しい春の昼下がりだった。

 私たちのベンチで、「脳内に侵入したウイルスの駆除方法が分かりそうなの」と興奮気味に話していたのが、彼女の最後の言葉となった。


 私がこの施設に入所して、ちょうど一年を過ぎた頃のことだ。


 私に残されたのは、絶望だけだった。

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