黒い瞳の天使

 ルカがいたから、私は醜い授業の数々に耐えることができた。


 自分でも信じられないくらい、人形を装うことに慣れていった。


 だから、ルカの自我が無くなったことは、かなりショックだった。3日間、夜になると思い出して涙が溢れた。


 でも、私にはルカのくれたお守りがあった。


 ここを無事に出て、絶対にルカの自我を取り戻して見せる。

 何度も、何度も、呪いの言葉のように、そう唱えた。


 そうやって、私はルカの言葉を思い出しながら、必死に自分を出さないように生活を続けた。


 初めて彼と会ったのは、初夏のことだった。

 ちょうど、ルカがいなくなって3ヶ月が過ぎた頃。私がこの施設に来て、1年3ヶ月が経った頃だった。


 初夏の雨上がりの午後、中庭のベンチに座っていた私は安藤先生に呼び出された。


 雨上がりだったことを、なぜ覚えているかというと、その日、四角い空に虹が架かっていたからだ。


 今でも、あの美しさを、色を、鮮明に思い出せる。


 そのまま安藤の後について、まだ行ったことのなかった実験棟の東側の通路を進んだ。『305実験室』と書かれた扉の前で、安藤は止まった。


「どうぞ、入って」


 安藤はとても嬉しそうに、にっこりと笑ってそう言った。


 私は不安な気持ちを押し殺して、「失礼します」と言い、中に入る。


 そこが異様な場所であるということを理解するのに時間はかからなかった。


 拘束具の付いた手術台のようなもの。

 その脇には、ハサミ、ナイフ、アイスピック、バット、注射器、その他様々な道具が載った台。

 その他に様々なモニターと機械。

 血液が入った点滴。


「これから、毎週、ここで君の体の回復力をテストします。服を全て脱いで、実験台に乗りなさい」


 無精髭を撫でながら、私の体を舐め回すように観察していた。


 恐ろしさと気持ち悪さで体が震えそうになるのを必死で堪えた。


 とにかく言われたことをやらなくては。


 今は何も考えてはいけない。


 もし、私がウイルスに侵されていないと、バレてしまったら、どうなるのだろう。


 きっと殺されてしまう。

 実地訓練のターゲットになるのかもしれない。


 人を殺すことは、いつまで経っても慣れないし、怖かった。だから実地訓練の時は、いつもルカにもらったハートの消しゴムをポケットに忍ばせて、『とにかく言われたことをやる。何も考えてはいけない』とルカの言葉を心の中で何度も唱えた。


 今はハートの消しゴムは持っていなかったが、あの消しゴムの形を強くイメージしながら、服を脱いで実験台の上に仰向きで寝た。


 実験台に取り付けてある黒い革の拘束具で、両腕と両足を固定される。


 安藤は凶器が並んだトレーから外科手術で使うメスを選ぶと、それを手にとって構えた。


 思わず、体がすくんでしまう。


「大丈夫、心配することはない。君の痛みの神経はもうコントロールできる段階になっている。痛みの感覚が消えていくのには個人差がかなりあるから、必ずというわけではないが」


 そう言いながら、安藤は私の腹部をそっと撫で上げた。

 恐怖で鳥肌が立った。


 何が起こっているのか混乱しながらも、不思議とどこか奥のほうで冷静な自分がいた。


 たとえ、痛かったとしても、痛みを感じていないふりをしなければいけない。咄嗟に、私はそう思った。

 そうしないと、きっと大変なことになる。直感的にそう思った。


「痛みがどの程度無くなっているのかのテストを、これから定期的に行うんだ。あと君の体の回復能力の具合を見る。君の体の回復力はかなり向上しているはずだからね。最初は、少し切り傷を付けるだけだ」


 そして顔を耳元に近づけて

「慣れてきたら、君の体を切り落として、新しいパーツに付け替えるテストをする」と囁いた。


 心臓が止まった。

 冷たい何かが全身に流れるような感覚に陥る。


 恐怖を通り越して、頭が真っ白になった。

 その時だった。


 腹部に痛みが走る。

 真っ直ぐに15センチほど。


 声をあげる隙もなく、私の腹部は切り裂かれていた。

 傷は浅く、血液は一筋の線となって流れ落ちた。


 ジンジンと痛みが全身に伝わる。


 ゆっくりと浅い呼吸を繰り返す。


 驚きと焦りで、まるで他人の体を見ているかのようだった。


 そうするうちに、不思議と痛みは治まってくる。もしかして、ウイルス以外にも何か私たちの体に入れているものがあるのだろうか、そう思ったときだった。


「いい回復力だ。君は牛乳が大好きなんだな」


 安藤は、先ほどまで血が滴っていた傷口に舌を這わせて舐め上げた。


 粘着質な舌の感触が全身に伝わった。


 傷口は、もうかすり傷のような薄さになっている。


 牛乳だ。


 ウイルスに対する拒絶反応防止薬の他に、人間の体の回復力を向上させる薬が、牛乳の中に入っているのかもしれない。


 とにかく、普通ではありえないほどの速さで傷は塞がった。


 それと同時に、痛みも消えていった。


「今日の実験はこれで終わりだ。簡単だっただろう?」


 私は声がうわずらないように気をつけながら「はい」と答えた。


 答えると同時に、あの人は実験台の上にまたがるように乗った。


 そのまま、私の唇に口を這わせると、右手で胸を掴み上げた。


「いや…」


 思わず声をあげてしまった。


「人工知能がこんな声を出せるだなんて知らなかったよ。脳を完全にAI化しても、それぞれ個体特有の個性は残る。例えば、声だ。僕は君の声が気に入ったよ。もっと、叫んでいい。もっと叫びなさい」


 そう言うと、あの人は私の顔面を力いっぱいにひっぱたいた。


 二回、三回。

 乾いた音が冷たい部屋にこだまする。


 意識が朦朧とした。


 口の中に血の味が広がる。

 その次の瞬間に、口の中に何かが入ってきた。


 いや、口だけじゃない。何か下腹部にも痛みが走る。


 私はルカの無邪気な笑顔とハートの消しゴムのことだけを考えた。

 命令されたことはやらなければいけない。叫び声を上げる。

 喉が張り裂けそうなほどに叫び声をあげた。


 あの人は笑っていた。声をあげて、笑いながら、私の顔によだれを垂らして揺れていた。


 もしかすると、これは神様が私に与えた罰なのかもしれない。人の命を平然と奪ってきた私への罰。


 もう何も考えられなかった。

 悲しいのか、痛いのか、苦しいのか、怖いのか、どんな感情も感じられなかった。


 そのとき、扉の開く大きな音がした。


「何をしているんですか。安藤先生」


 灰色の部屋に若い男の声が響く。


 入り口のほうを見ると、白衣を着た私と同じ歳の頃に見える少年が立っていた。


 こちらを睨みつけている。


「南川くん、君はノックもできないのかな?」


 安藤は、慌てる様子も見せずに、実験台からゆっくりと降りると、そのまま床に落ちていたズボンを取り上げて穿いた。


「実験室は防音になっているので、滅多な音は聞こえないと先生に教わりましたが、彼女の声は外まで聞こえてきました。生徒を強姦とは面白い趣味をお持ちですね」


 肌が透けるように白い色をした黒髪の男の子だった。鋭い目つきも、何だか不思議と美しく見えた。


「君こそ面白いことを言うね。君が南川長官の息子さんじゃなかったら、今すぐここで切り刻んでしまうところだよ。君はラッキーだったな」


 ワイシャツのボタンを留めながら、安藤はそう言った。


「お言葉ですが、先生、あなたが僕の担当指導官じゃなかったら、この場で殺しています。ラッキーでしたね、先生」


「なんだと?」


 安藤は、トレーの上にあったサバイバルナイフを手にすると、少年の胸ぐらを掴んで壁に叩きつけ、喉元に当てがった。


 少年は、それでも全くひるまない。


「やれるもんなら、やってみろよ。お前のくだらない人生も終わるぞ」


 低い声で、凄むように言い放った。


 安藤は舌打ちし「随分と生意気なお坊っちゃんだな」と吐き捨てると、少年の胸ぐらから手を離し、ナイフを床に叩きつけ、そのまま実験室を出て行ってしまった。


 少年は自分の着ている白衣を脱ぐと、私の体にそれを掛けた。


 ふわっと宙を舞う白衣。

 空から舞い降りる天使。

 そんなふうに、私には映った。


 彼は私の両手の拘束具を外しながら「もう大丈夫だから」と呟いた。


 拘束具を掴んだ手は小刻みに震え、少年の目には涙が浮かんでいた。


 吸い込まれそうなほど、黒い瞳をしていた。


 先程までの冷静沈着な表情とはまるで違う、消えて無くなってしまいそうな、そんな儚い存在に見えた。


 その姿は、いつかどこかで見た死神に愛される黒い翼を持つ天使の絵を私に思い起こさせた。


「ありがとうございます」


 なんとか声を絞り出す。


 泣きわめきたかった。大声で叫びたかった。

 怖かったと。怖くて、怖くて、仕方なかったと。


 だけど、必死で堪えた。必死で堪えたのに、涙がひと雫、頬に零れ落ちてしまった。


 彼は目を見開いて、驚いた表情を見せる。


 まずい。これで、私の嘘は全部バレてしまう。

 そう思った瞬間だった。


「AI化された君の中にも、まだどこかに本当の君が生きているんだね」


 彼は独り言のように、囁いた。


 優しい声。


 胸が締め付けられる。

 もう、全部、真実を話してしまいたかった。


 でも、私にはルカとの約束がある。

 彼女を裏切るわけにはいかない。

 走り続けなければいけない。

 一度、走り出してしまったら、もう二度と止まることなどできないのだから。


 私たちは生きている限り、止まることなど許されてはいないのだから。


 それから、どうやって、どこを歩いて自分の部屋に戻ったのか、よく思い出せない。


 彼とは何と言って別れたのか、記憶は曖昧だった。


 体のあちこちが痛んでいるような感覚があるのに、傷はどこにも見当たらなかった。


 部屋に戻ると、机の引き出しに入っていたカッターナイフを、手首に当てて、強く引いた。


 怖かった。怖かったけど、どこか、安心する気持ちにもなった。


 もう頑張らなくていい。もう走らなくていい。もう何もかも投げ出して、楽になりたい。


 目の前がぐらりと歪み、私は床に倒れこんだ。

 頭と体がどこか大きな穴に吸い込まれていく。


 目の前には真っ赤な血の海が、広がった。


 私は、まだ人間だ。機械じゃない。

 私には心がある。誰かの物になれと言われても、そうはならない心がある。


 目を閉じた。


「ごめんなさい」

 エメラルドグリーンの髪が目の前で揺れた気がした。


 私は死ねなかった。

 目を覚ましたら、レースは終わっていて立ち止まることができるはずだったのに、目を覚ましたら、また同じスタートラインに立たされていた。


 窓のない部屋。

 朝を知らせる全体放送。

 傷のない手首。

 干からびた血液。


 涙が止まらなかった。


 私はもう普通の人間ではなく、怪物になっていた。

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