精神的脱皮と読破感


 小説を書く上に大事なのはキャラやストーリー、世界観などが挙げられるが、小説を読む側における読破感も大事と言える。


 書き手側は読み手側に伝えたいものをテクストに包んで、作品として提示する。読み手は包まれたテクストをひっぺ返し、作品の中にあるテーマを解きつつ、自分なりの解釈で作品を読み込む。視線は行間を見ているが、脳は本から転写した世界に漂っている。脳が書き手の描いた世界に包容されているのだ。

 しかしながら、本のページは有限であり、必ず終わりというものが存在する。書き手はその終着点に着地するために、物語の区切りを用意する。その区切りとして、作中に出てくる悪者を倒す、主人公の目的を達成するなど、ゴールを用意する。読み手は本のページの最後、すなわち、ゴールに辿り着くということはその物語の終わりでもある。

 

 読み終えたあと、読み手は意識が物語に漂流していた本をパラパラとめくりながら、当時のことを振り返る。このとき、自分は何とも言えない喪失感のような読破感が胸の奥からやってきて、同時に精神的脱皮を感じる。

 物語のすべての輪郭を手にいれたが、その代わり、物語は自分の手の元から離れてしまった。

 心の中にもう少し物語に漂いたかったと思いながらもうそこから出ていってしまった後悔にも似た何か。そう、これこそが精神的脱皮である。

 

 書き手側にとって、精神的脱皮を意図して書いているヒトはおそらくいないと思う。ただ書き手は偶然にも精神的脱皮を与える作品を書いてしまったと考えられる。書き手は読み手の心地よい読破感を与えるがために、十分な物語を描き、物語に満足感の得られるオチをつけたことで、読み手に精神的脱皮という副作用をもたらしたのだと、私は考える。


 書き手は読者に精神的脱皮を与えるためにモノを書いていない。精神的脱皮は読み手側がその物語にハマっていたが、終わってしまった後悔に近いものだ。

 となると、読者に精神的脱皮をもたらす読破感のある作品を書くということは、物語の完成度とうまい区切りをつけさせるということかもしれない。


 ――物語を長続きさせるか、それとも一つの区切りを見切って書くか。

 それは読者にステキな物語にたゆたい続ける文章を書き続けるか、それともひらいた風呂敷を包む物語へと舵を取るかの違いでもある。

 長い文章を書いて読者に夢を見させ続けるか、それともちゃんと見切りをつけるか。

 作品のケジメの付け方も大切だと、私は思う。

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