秋
第2話 声聞く時ぞ 藁人形はかなしき
カーテンの隙間から漏れた光が朝を告げる。
ほぼ夜通し作業をしていた私に、その光はいささか攻撃的だった。
「おはよう、今日も変わらず愛してるよ」
目を覚ました私は、枕元の藁人形を撫でる。この想いが少しでもあなたに届きますように。
カーテンを開いて窓の外を見やれば、この間まで青々としていた山々が、赤や黄色に色づいていた。
よくよく考えると、外の景色なんて見ていなかった気がする。まだ一週間程度しか経っていないように感じていたけれど、もう三ヶ月程も過ぎてしまったようだ。
学舎には通っていたと思う。ここ三ヶ月の記憶ははっきりとしないけれど、私を心配した友達があのおまじないを教えてくれた。
食事も採っていたと思う。飢えも感じなかったし、母か父が部屋の前に置いといてくれたのだろうか……あとでお礼を言わないと。
――本日は休日、晴天、紅葉日和
藁人形を持って、近くの湖にでも行こうか
居間へと降りていけば、ちょうど父が起きてきたところだった。
お父さんおはよう、と声をかける。父は驚いたように私を見たが、静かに「もういいのか」とだけ言った。少しは怒られるんじゃないかと覚悟していたから、なんだが気が抜けてしまう。
私が頷くと、「よかった」と言って目を細めた。
昔は頑固親父だったのに、最近めっきりと丸くなったように思う。彼のことが原因だと知っているのだろうけれど、まだ心が完全回復を果たしていない今、根掘り葉掘り聞かないでいてくれてとても助かった。
台所へ行くと、母が朝食を作っていた。
母にありがとうと告げれば、「元気になってよかった」と言って涙ぐまれてまい、私はあまりの申し訳なさに思わず母に抱きついた。
感情を表に出すことが少ない人だったのに、この三ヶ月の間に涙もろくしてしまった。ずいぶんと心配をかけてしまったのだと反省する。
お父さん、お母さん、心配をかけてしまってごめんなさい。
でも、私はもう大丈夫。藁人形がいるから安心してほしい。
今日藁人形と向かう湖は、初めて彼と二人で出かけた場所だ。
それをデートと呼ぶには幼すぎたけれど、記憶の糸を辿るように、二人で過ごした楽しい思い出を思い出して欲しい。だから一番最初に藁人形と訪れるのはここと決めていた。
小さな湖だからか、人の気配はない。湖畔には白く大きな岩と、それに寄り添う幹の太い若木が葉を染めているだけだった。
岩に座り、膝に藁人形を乗せる。二人で来たときは私が膝の上に乗せてもらったことを思い出して、不覚にも独りなのだと再認識させられた。
「最初に二人で来たときも、紅葉が綺麗な時期だったよね」
私は藁人形に話しかける。
あれは私が三つで、社の桜の枝を手折ってしまった日のこと。
葉っぱが赤く染まっていくのが不思議で、思わず欄干によじ登って枝に手を伸ばした。軽率に枝を手折ってから、折れた枝はもう花を咲かすことができないと知り、自分のしたことを酷く後悔したのを覚えている。
今思えば、あれは私が初めて「死」というものを意識した瞬間だったんじゃないだろうか。大人は私を咎めなかったけれど、自らの手で桜の未来を奪ってしまったことが悲しくて、恐ろしくて、私は泣きじゃくっていた。
「そんな私の手を引いて、ここまで連れてきてくれたよね」
私は湖になんて来たくもなかったけれど、暖かかったあなたの手を離したくなくて、泣きながらついていったっけ。反対側の手には折れた桜の枝を握りしめて。もしかしたら、あの時にはもうあなたのことが好きになっていたのかもしれない。けれど初恋は叶わないというから、好きだったことは認めない。
この岩の上で私を膝に乗せながら、湖に映る紅葉を見せてくれたよね。「はっぱは冬になる前に、命を全て使ってきれいな色にそまるんだ。だから、それにみせられたとしても、しかたのないことなんだよ」と言って、慰めてくれたことも覚えてる。あなたはしっかりとした人だったけど、子供のころから大人びていたよね。私と三つしか違わないはずなのに、もっとずっとお兄さんに思ったよ。
その後、湖のほとりで、桜の枝を一緒に植えたね。その頃には私も泣き止んでいて、"この枝が根付き、強い桜の木になりますように"とお祈りしたのを覚えてる。
……そして、覚えているのはここまで。気が付いた時には、私は部屋の布団で横になっていた。泣き疲れて眠ってしまった私を家まで運んでくれたのだと後から両親に聞いたけれど、起きたらあなたがいないことが悲しくて、また大泣きしたような気がする。せっかくあなたに泣き止ましてもらったのにね。
二人で植えた桜の枝は、元気で育っていれば私の背丈を超えるぐらいだと思うのだけど――どこにも見当らなかった。
水面の太陽がきらりと光る。
「もちろん、二度目に来た時のこともちゃんと覚えてるよ」
二度目はそれから十数年経ったころ。その時はもう、あなたのことが好きなんだとちゃんと自覚していたから、何を話せばいいのかわからなくて……。目も合わせられなくてごめんね。
二人並んで座って、子供の頃のように水面に映る紅葉を眺めたね。
でも本当はね、紅葉なんて見てなくて、水面に映る自分ばかり気にしていたの。私は子供頃のように純粋じゃなかったから、水面を鏡代わりに、髪が乱れてないか、今日の着付けがおかしくないか、そればっかり気にしてた。「綺麗だな」なんていうあなたの言葉に、そうだね、なんて曖昧な返事をして。
「帰り道に、あなたの手を掴んだこと覚えてる?」
このまま帰るのが寂しくて、思い切ってあなたの手を掴んじゃった。あなたは「また泣きじゃくるのか?」なんて笑ったけど、握り返してくれたよね。久し振りに繋いだあなたの手は、前よりも大きくなってて、でも前みたいに暖かくて。このままずっと握っていたいと思ってたよ。
あなたはおどけみせていたけれど、あなたの耳が紅葉に負けないくらい真っ赤になっていたの、気が付いていたんだからね。
水面の紅葉を、秋風が撫でた。
「三度目。三度目も…もちろん覚えている」
あなたが初めて涙を見せた日。
あなたはずっと、「ごめんな、すまない」って謝ってくれたよね。私には何のことかわからなかったし、あなたもそれ以上語ろうとしなかった。だから、いいよって答えるしかできなかったけど、それでよかったのかな。あなたの欲しい答えをあげられたのかな。
私はあなたのことで、許せないことなど何一つなかったんだよ。突然居なくなったのは許さないけど、今すぐ戻ってきてくれるのならそれも許してあげる。だから、早く帰ってきて欲しい。
びゅうっと木枯らしが吹き、思わず身震いをする。
そうだ、三度目の時もこんな感じに木枯らしが吹いて、身震いした私に羽織を掛けてくれたね。
断ろうとした私に、「俺は寒さには強いんだ」なんて言って無理やり羽織らせたけど、鼻が赤くなってた。やせ我慢だなって分かってたけど、気を使ってくれたことが嬉しかったし、なによりあなたの香りと温もりに包まれているのが幸せで、そのまま借りちゃった。
……でも次の日、あなたはもれなく風邪をひいたから、無理はもう絶対に禁止。
いつの間にか水面から青色が消えている。
羽織を貸してくれるあなたが隣にいないのだから、もう帰らないと。
「私にとっては、どれもかけがえのない大切な思い出だったよ」
寂しくなって、膝に座る藁人形をぎゅっと抱きしめた。
あなたにはどうだったのかな。少しでもいいから、私と同じ気持ちを抱いてくれていたら嬉しいな。
藁人形を抱きしめたまま岩から降り、帰路につく。
木々の葉擦れに交じって、あなたが私の名を呼んだ気がした――
でもきっと、気がしただけだ。
私はもう、あなたの声が思い出せない。
人は声から忘れていくのだという。
いつかこの記憶も、忘てしまうのだろうか。何ひとつとして忘れたくないのに。
「あなたの声が聞きたい。もう一度、あなたの口で名前を呼ばれたい」
そういってまた、私は
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