karma12 浮浪の闘志

「なな、何かっ! なにか来るっ!」


 ハンチング帽の男は体を反転させ、錆や動物のフンなどで黒々と変色したゴルフボールくらいの石が敷かれる地面に尻餅をつく。腰が抜け、立ち上がることを忘れるくらい、男は怯えに縛られていた。


 他の者たちよりも綺麗で質の良い柔らかなバスタオルを巻かれた赤ん坊を抱く女性は、とっさに自分の持ち場である家からどき、隣のおばあさんのところへ向かう。

 気力もない様子だったおばあさんは、男の怯えた声を聞くと、目に生気を取り戻し、「中に入りな!」と子供を抱く母親を自分の段ボールハウスへ入れた。年相応ながらも、まだ健康であると見受けられるほどの動きで、おばあさんは上にのけていたブルーシートで入り口を塞ぐ。


「んああ"、ちくしょう! こっちは宴してんのによ~」


 福神様の耳を持つ男は気だるげに立ち上がる。自分で作ったトタンのテントに歩いていき、テントの外装に立てかけてある角棒を持った。角棒の先端部にはべったりと血液らしき赤が付着している。

 シミだらけの顔の男も錆びついたスパナを持ってきて、腰の抜けた男の前に立つ。防衛本能から来る攻撃性がシミだらけの男と福神様の耳を持つ男の酔いを醒まし、腰を落として迎え撃とうとする。


 いつもなら押し寄せる恐怖が背筋にのっぺり貼りついているのだが、お酒が入っているせいでだいぶ自信を持って臨めていた。

 決して喧嘩に強いからとか、獰猛な生物くらい追い払えるからとか、血気盛んな気性を持ち合わせているわけじゃない。自分たちがやらなければ生活を奪われてしまうから仕方なくやっている。

 ここの生活に慣れて、守衛役も板についている2人は、ここにあるレールのように寂れた生活を脅かす侵入者と闘う心構えは得ているのだった。


 暗闇に影が浮かぶ。影をみんなが目視しているのだが、トンネルで生活する者たちの予想した影の形をしていなかったために、誰もがじっくりとその影を見つめるのだった。


「おい、ありゃなんだ?」


 スパナを持つシミだらけの顔の男は疑問の声を上げる。


「動物、じゃないな」


 福神様は目を細めて男の疑問に答える。


「人?」


 ハンチング帽の男はそう認識したせいか、金縛りが解け、地面に手をついて上体を前のめりにする。

 その影がホームレスたちのいる生活圏へ近づくたびに、詳細はあきらかになっていく。

 ハンチング帽の男が影の正体を人じゃないかと認識したのには、2メートル弱の高さを持ち、動きを見せる2本の脚らしきものを見たからである。だが、その人らしきシルエットは、イメージする人の影とは少し違っていて、まだ確実に人だろうと判断できずにいた。


 また影が進む速度は異様に遅く、天に伸びる影の姿はゆらゆらとしていて、人らしくない。頭のある位置に見えるであろう円形のある箇所に、余計な物がついているので、それを人と断ずるには確信が持てなかったのだ。

 もし人じゃないとしたら、2メートル弱の生物の候補を思い浮かべるのが妥当であるのだが、それが影の正体であるとするなら、彼らはなす術もなく、逃げることを迫られるだろう。


 困窮の生活ではあるものの、ホームレスたちにとってある程度の安全が保障される住処であった。

 この場所を奪われれば、ホームレスたちは明日の生活が今以上に不安定なものになることは間違いない。不安が不安を呼び、近づく恐怖におののき、ホームレスたちは身を強張らせる。


 ホームレスたちにもたらすランプの光が及ぶ距離に、影が入った。ホームレスたちの表情が驚愕に変わった。

 褐色の肌をした男は修道服を着ていた。男はぐったりとした女性を背負いながら、ゆっくりと小さく一歩を踏んでいく。しかし、男は目を半開きにさせており、苦しそうな表情で奇怪な動きを見せていた。


 ホームレスたちは、修道服の男の様相に数十秒前とは違った意味で絶句し、そして恐怖に震えていく。なぜ、この男はそんな状態で生きていられるのかと。

 掠れた呼吸と焦点がはっきりしない瞳。それだけでも充分に男の様子が変であると思えるが、ランプの明かりがそれ以上にインパクトのある状態を見せた。

 左胸から足元まで太い筋を作って、修道服を深紅で濡らしていたのだ。男は凶器を持つ貧相な男たちを捉え、呼吸をするために開けていた唇を動かす。


「助けて、くだ……さい」


 途切れ途切れの小さな声がそれだけ言うと、背丈のある男の体が無防備に前へ倒れた。


 ホームレスたちは目を丸々と開き、倒れた男を見つめる。一体何が起きたんだと、口が言いたそうに開いていた。

 男が背負っていた女性は、男に覆いかぶさる形になっていて、一目見て若く綺麗な顔立ちをしているとランプの明かりが教えてくれる。男が倒れたことで身に衝撃を受けたはずなのに、女性の目は閉じたまま。よく見れば、女性も修道服であり、青い服の肩の位置には血が確認できた。

 2人の衣服の裾はやけ目をつけ、黒く変色している。整っているはずの裾の下端は焼け落ちていびつになっていた。


 不安から解放され、戦闘意欲を失った2人の男は持っていた武器を離し、血に塗られた男女へ駆け寄る。シミだらけの男はハンチング帽の男を見て、「ジンさんを呼んで来い! 早く!」と声を荒げる。

 ハンチング帽の男は、シミだらけの顔の男の声で呆然自失から抜け出し、急いで走っていく。


 おばあさんのダンボールハウスに入っていた女性は、ビニールをどけて顔を出し、外の様子をうかがう。

 男たちは瀕死の様子の男女に何度も声をかけ続けた。

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