karma4 信じる気持ちに応えてください

 火災が起きていないにもかかわらず、勝手に火災報知器が作動することがどれほどの確率であることか。神を慕う者が罪を着せられるなどという悲劇が起こるくらいに、稀な出来事と言わざるを得ない。


「誰だ! 非常ボタンを押したのはっ!」


 疑いは確信となり、見えない敵に向かって怒鳴る善良なる修道士は、水を被って重くなった袖を上げ、腕でひさしを作り顔を守る。


 泡が目に入ってしまった修道士たちは、強烈な痛みを感じて悶える声を上げていく。その多くは聖杯を持っていた修道士であり、突然襲った痛みに驚き、持っていた聖杯を思わず離してしまう。

 たちまち礼拝堂は水浸しになり、泡と混ざり合って滑りやすくなる。となれば、暗闇と降り注ぐ泡の雨に混乱していく声と声が不安と恐怖を伝播でんぱしていき、平衡感覚が危うくなった修道士たちは冷やされた床に体を打ちつけていく。


 キスも同様に不安に苛まれていたが、いつしかぶりに安定した呼吸をできたせいか、頭は徐々に冴えていき、多少なりとも冷静に状況を把握することができるようになっていた。

 薄く水を張った床を踏む音が、キスのそばで聞こえると、キスの肩に手が置かれる。キスは驚きのあまり体を硬直させた。


「私です」


 ささやく声がキスの耳元で鳴った。


「エ……」


「申し訳ありませんが、名前はお控えください」


 エミリオはキスをいさめると、暗闇に慣らした目と手の感覚とでロープを捉え、持ち込んだ果物ナイフでロープを切っていく。

 体を絞めていたロープが緩まるのが分かり、キスは椅子から立ち上がった。膝に乗ったロープが水浸しの床に落ちる。


「行きましょう」


 エミリオはキスの手を引く。暗闇の中のため、キスには周りの様子が分からない。

 キスを先導するエミリオは暗闇の中をすいすいと行けるほど、暗闇に目を慣らしていた。キスにはエミリオが暗闇の中で動ける理由がとても不思議で仕方がなかったが、エミリオが手を引いてくれるおかげで、目が見えなくともそれほど不安はなかった。

 礼拝堂だけでなく、教会内の電気がすべて消えていたようで、ブレーカーを上げなくてはならないと、修道士たちが動いていた。


 廊下を行き交う修道士たちの横を通り過ぎながら逃げていく。もし電気がついていれば、こうも堂々と逃げることはできなかっただろう。キスはこの停電を起こした犯人がなんとなく分かってきた。


 エミリオは教会を裏切ったのだ。教会を裏切るということは、神への裏切りと同義である。神に仕える者が自ら裏切りを行うなどあってはならない。

 それを知って尚、エミリオはキスを守るために神を裏切った。キスは嬉しくもあり哀しくもある複雑な胸中をめぐらせる。

 教会に残っていれば、まだまだ神の下で奉仕できる。たとえ、ジャノベールとユヒアの策謀によって蹴落とされる者がいようと、振る舞いを考えればなんとでもやっていけるはずだ。

 特にエミリオにはその素養があると、キスは思っていたのだが、こうなって――――こうさせてしまった以上、エミリオも同罪となり、教会にいられる場所はなくなる。キスは感無量に震え、何があっても守らなければならないと心を決する。


 キスが神への冒とくと理解しながら決意を固めた瞬間、辺りに光が満ちる。電気が灯り、視界が明瞭になったことにより、生理的な不安は解消されていく。

 この状況に光を見るのは、教会の本質を知らない者だけだ。反逆者となってしまったエミリオとキスには無論逆の作用が働いてしまう。

 エミリオはとっさの判断で、近くの部屋に駆け込んだ。キスはエミリオに引っ張られるまま、部屋の中に入る。


 部屋の中は暗い。キスは電気をつけようとしたが、エミリオの手が電気のスイッチを覆い隠す。キスが疑問を投げるように視線を向けると、エミリオは頭を横に振った。

 キスは部屋の電気をつけない理由を理解する以前に、頼もしいエミリオの判断に任せた方がいいと思い、手を下ろす。

 エミリオは携帯を取り出し、わずかな画面の明かりで視界を確保する。部屋の中を見回し、壁際に置かれた重厚なチェストに駆け寄った。


 チェストの端で屈み、両手を添えてドアの方へ押していく。キスはすぐさま意図を把握し、エミリオを手伝う。その際、「直ちに探せ!」と怒鳴り声が聞こえ、緊迫の様相がドアの向こうから伝わってきた。


 チェストがドアを塞ぐように置かれるが、エミリオの顔はまだ安堵とはほど遠い。

 厳しい顔つきで再び部屋の中を見回すと、窓に視点が定まって走り出す。閉められた窓の縁に手をかけた途端、外でも信徒の声を聞く。その声は近く、今外に出るのは危険だと思い、カギをかけてカーテンを閉める。


「エミリオ」


 エミリオは凛々しい表情で口を開く。


「司祭が逃げられるよう逃走ルートを確保しています。ですが、計画を練られるほどの時間はありませんでしたので、状況は厳しくなると思われます。必ず司祭をお助けいたしますのでしばらくご辛抱願います」


「エミリオ、私のことはもういい。とにかく、自分の身を案じなさい」


 エミリオは眉をひそめ、キスを睨みつける。


「キス司祭、あなたを信じ、ついてきた者はたくさんいるのです。そして、今もあなたを助けようと、動いている者たちがいます」


 エミリオの表情が儚く悲しげな表情へと変わる。


「私たちの信じる気持ちに、応えてください。お願いします」


 小さな声で切にうエミリオには有無を言わさぬものがあった。真っすぐ見つめながらそんなことを言われてしまっては、キスは口を閉ざす他ない。


 エミリオは表情を引き締め、強い眼差しへと戻す。


「キス司祭、こちらへ」


 エミリオは隣の部屋に通ずるドアへ向かい、ドアを少し開けて中を覗く。誰もいないことを確認すると、部屋の中へ入った。

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