karma9 託される者

 キスと別れたエミリオは、厳しい顔つきで廊下をずんずん進んでいた。踏み込む足と足は強く床を蹴っているが、その足は走るためではなく、八つ当たりのために仕事をしている。深夜に及ぶ時間ということもあり、エミリオの足音は廊下によく響いた。


 エミリオは扉の前に立つと、すぐさま激しくノックする。

 数秒して、何事かと眉間に皺を寄せた修道士の女性が、開いたドアの隙間から顔を覗かせた。


「主殿にお話が」


 潜めた声でエミリオがそう言うと、女性はミアラ主殿のいる方へ瞳を向ける。


 ベッドで横になっていたミアラ主殿は、うつらうつらとした顔をして、ひとたび瞬きをした目を女性の麗しい瞳と合わせた。ドアの向こうから聞こえてきた声の主が誰か分かっていたミアラ主殿は、手を上げて軽く手を閉じる仕草をした。


 女性は人が入れるくらいにドアを開き、エミリオを招き入れる。エミリオはゆっくりと主殿室に入ると、仏頂面をミアラ主殿に投げた。


「どうした、エミリオ」


 エミリオはミアラ主殿の投げかけにすぐに応じなかった。その代わり、後ろでドアを閉めた女性に視線を向けると、しとやかな清音が響く。


「申し訳ありませんが、ミアラ主殿と2人で話したい案件がございます」


 眉尻を下げて、泳ぐ視線がミアラ主殿に注がれる。ミアラ主殿は頷く。「失礼します」と言葉を残し、女性は部屋から出ていった。

 エミリオはかすかに聞こえる足音が離れていくのを確かめるため、人並み以上に研ぎ澄まされた聴覚をフル活用していく。


 ミアラ主殿はエミリオの仕草を何度も見ていることもあり、ドアの向こうに目線を送っているエミリオの様子を黙って見守っていた。


 ようやく音がしなくなったことを確認し、エミリオはミアラ主殿がいるベッドに歩み寄る。そばにある丸椅子に腰を置き、ミアラ主殿を厳しい瞳に変えて射抜いた。


「今日はどうも血色が悪いようだな」


 ミアラ主殿は冗談っぽく言葉を投げる。しかし、エミリオはクスリとも笑わない。


「この部屋が暗過ぎるからでしょう」


 もう寝ていてもおかしくない時間のため、主殿室はわずかな夕焼けの光を灯すライトだけだったが、部屋に何があるかくらいの認識は軽く把握できる。

 少ない光量で蛍光色があらゆる物を映すなら、ミアラ主殿の言うように、普段目視している色合いは変わってしまう。だが老人と言えども、ミアラ主殿の色覚は、大多数の感覚と大差はない。

 エミリオが真顔でミアラ主殿のお遊びに乗ったのは、まだ元気だぞと証明してくれたミアラ主殿への温情であった。


「私に話してないことがありますね?」


 ミアラ主殿は唐突に質問され、ポカンと表情を浮かべる。


「なんの話だ?」


「先ほど、キス司祭からお聞きしました。預言を」


「預言。そうかぁ、またキスは神から授かったのか」


 ふんわりと笑みを浮かべるミアラ主殿は、自分の体にかかる白い掛け布団に目をやり、うんうんとゆっくり首を縦に振って、たいそう喜びに満ちた顔をする。


「教会という組織内部に留まらない次元を超えた預言、キス司祭はそう申しております」


 ミアラ主殿の黒目が横に流れ、瞳だけがエミリオの方へ向く。


「知っておられましたね?」


 ミアラ主殿はチューブの入った鼻から深く息を零す。ほんのりとオレンジに色づく白い天井を仰ぐと、無垢な視線がエミリオを捉える。


「ああ、もちろん」


 そして、平然と言い切った。


「なぜ教えてくださらなかったのですか!?」


 とうとう不満の1つが口に出たが、エミリオはできるだけ声を小さくして問いかける。


「その預言は、キス自ら託されるべきものだからだ」


 しゃがれた声ははっきりと意志を宿していた。

 エミリオはどういう意味かと問いかけるのも忘れ、主殿の揺るぎない言葉に、あと1つ、2つとあったはずの不満もどこかへ消えてしまう。


 ミアラ主殿は両手を組み合わせ、下腹部までかかる掛け布団の上に置くと、少し離れた前の壁にかかるバラ窓の模様と十字架を見つめる。


「私たちは決して歩みを止めてはならん。この先に何が待ち受けようとも、この身に受託し、信じて突き進むしかない」


 病人とは思えぬほど、ミアラ主殿の瞳はギラギラとしており、忠誠を従えた真鍮しんちゅうの心を、神に献上する勢いを口にする。それが数秒の時をて、緩んだ表情がエミリオに注がれた。


「エミリオ」


 ミアラ主殿の口調は真に迫っている。表情こそ柔らかいが、その目はまだ生気がありありとみなぎっている。


「……はい」


「愛する息子を頼んだ」


 エミリオの目尻にわずかな光が宿ると、エミリオは顔を俯かせた。

 弱い自分を見せるわけにはいかない。いずれ訪れると知りながら、どこかでいにしえ幻夢げんむであってほしいと思っていた。膝にかかる自身の平服へいふくを握る、か弱きその手は、隠し続けてきた本心を握り潰そうと必死になっている。


 ミアラ主殿の覚悟に応えるためには、自分は今すぐ立ち上がらなければならない。ミアラ主殿にかけられた言葉と、消えないように何度も胸に刻んだ誓いが、エミリオを奮い立たせていく。


 エミリオは顔を上げた。その表情は、気高い凛とした薔薇のように強く色をつけていた。


「はい、ミアラ様」

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